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“空”概念の理解  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
1  “空”概念の理解
 池田 仏教には“空”という考え方があります。人間は自然科学的な尺度で何かを捉えようとするとき、空間および時間の尺度で捉えます。それで有か無かの判定を下すわけですが、有でなければ無であり、無でなければ有であるという考え方が、その基礎になっています。
 ところが、仏教は生命を探究するうえで、そうした、有か無かで割り切ってしまう考え方を否定し、“空”というものを立てます。すなわち、有でもなければ、さりとて無でもない、そのいずれでもないし、またその両方に顕れる。これを“空”というわけです。それは思議しても理解できない、とも説いています。この場合の思議とは、時間、空間の概念で考えることを指しているのでしょう。
 たとえば、仏教では輪廻を説いていますが、死後の生命は無になってしまうのでもなく、あるいは実体をともなうものでもない、いわゆる“空”の状態にあると説明しているわけです。
 こうした“空”の考え方に対して、仏教の教義が曖昧であることの典型であるという批判もあります。しかし、私はこの“空”の考え方は、それ自体、単純に有か無かの択一に安住しようとする現代人に対する、重大な警告となりうるものであると考えています。教授は、この、仏教の“空”の考え方をどう感じておられますか。
2  ウィルソン 西洋の思考法は、矛盾を嫌い、たがいに排斥し合う、徹底した論理の範疇をもっていますから、そうした思考法の中で教育された者にとっては、“空”のような概念を把握することには、非常な困難があります。西洋人は、そうした思想を観念的に理解することはできても、その思想の意義を十分に理解し、認識できるにいたるまでには、時間と忍耐とを要するのです。
 現代の西欧知識人がその中で教育されてきた支配的な思考傾向とは、――これは特に自然科学・社会科学において顕著なのですが――まず形而上学的な要素を排除し、非経験的な論及については最大限の慎重さで検討して、その後初めて認めるというものでした。
 なんらかの“潜在性をもつ”と定義される概念に関わる問題は、その潜在的なものが顕在化するための条件を、明細に記述することです。顕在化するまでは、潜在していることを示すのは容易なことではありません。そして、ひとたび顕在化した後は、潜在性は、回顧的な、限られた有用性の範疇に入ってしまいます。
3  もちろん、経験的な帰納や類推によって、多くのドングリがカシの木になっているのだから、どのドングリもカシの木になる潜在性がある、ということはできましょう。しかし、ドングリは物理的実体であり、“潜在性がある”といっても、それは経験的に起こりうることを述べているにすぎません。言及すべき物理的実体がないとき、潜在性の概念は希薄なものとなり、西洋的思考では把握し難くなってきます。
 もちろん、この概念も、その人の体験が文芸的なイメージや観念によって濾過され、昇華しており、経験的な厳格さよりも精神的・詩的な洞察を求めるといった人々には、ずっとたやすく理解されうるでしょう。また、仏教の考え方の中で訓練されたか否かは別としても、宗教的な心をもつ人々は、科学的な考え方の中で訓育された人々よりも“空”の概念を受け入れやすいといえましょう。
 それにまた、この“空”の概念は、生命と輪廻に関する仏教の解釈の中心的役割を担っているため、そうした論述の脈絡を通して理解できるものとなっています。そうした論述の中で役割を与えられているのであって、部外者が、この概念だけを切り離して理解しようとするのは、たぶん間違いなのでしょう。“空”の概念の意味は、他の概念や教説と結びついて、またそれらとの関係性において生じており、そうした脈絡の中でならば、より分かりやすくなるのかもしれません。

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