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合理性と非合理性  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  合理性と非合理性
 池田 宗教の教義は、本来非合理の領域にあるものですが、合理の世界の問題について述べていることにも、現代の科学的知識から見れば、明らかに相反するものが多く見られます。人々は、その矛盾を攻撃する前に、それらの主張が意味しているものを推察しなければならないのは当然ですが、それでもなお、宗教の側がそうした主張を、科学的知識に対抗して、あるいは無視して人々に押しつけようとする場合には、それは排斥されるべきであると考えます。
 しかし、現在の科学的知識は発展の途上にあり、その発展は今後も続くでしょうから、ある時期までは科学で解明できなかったものも、一つの発見以後には、既知のことの中に組み込まれてしまうこともありえます。考えてみると、いかなる知識であれ、かつては未解決のものであったわけですから、逆に、現在においては科学的知識によって裏づけられないものであっても、だからといってそれは真実ではないと否定することは、現代人の傲慢であるかもしれません。つまり、現在の科学的知識で解明できないものが、すべて誤りだとは断定できないことになります。ましてや、未解決のものではなく、合理的な判断の領域を超えた教義の根本的な問題については、現代人は謙虚さをもって観るのが当然と思われます。
2  それでは何が本来非合理のものであり、何が現在では説明できなくとも未来においては説明されるべきものなのかを、見極めることが大切になります。その判定は慎重でなければならず、不合理を正当化することも、超合理を安易に否定することも、あってはならないはずです。少なくとも、現在の科学的知識によって明らかにされ終わっている不合理性は、たしかに、許容すべきではないでしょう。
 しかし、現在は未解決であっても、将来において解明される可能性を残している考えについては、安易に不合理とみなさないことが大切ではないでしょうか。
 それでも問題は残っており、科学的知識によって否定され「終わって」いるのか、未解決なのか、否定されるべきなのか――これらの判断基準をどこに求めるのかということも、十分検討しなければならないでしょう。
 こうした教義の非合理性と合理性について、科学的知識の試練をどこまで受けるべきかについて、教授のお考えを聞かせていただければ幸いです。
3  ウィルソン 自然現象や社会現象、心理現象に関する系統的で経験的・合理的な探究が発達する以前は、宗教の体系が、その属する文化圏内において、知識の総体をなしていました。そうした知識には、精神的で倫理的な性格をもつ中心的教義のほかに、ユダヤ教やキリスト教においては宇宙観や天地創造の理論が、また、仏教においては一種の心理学や物質の理論に近似したものが含まれていました。
 経験的・合理的な探究が発達し、そこから発見された諸事実が系統化された結果、現在、われわれが客観的な科学と考えているものが発達してきました(もっとも、科学的知識の地位と、その社会的起源および受容性の基盤については、種々の哲学上の留保事項があることは認めなければなりませんが、この点は取り上げなくても差しつかえないでしょう)。今日では、科学と無関係の事柄においてすら、真の科学的知識をまったくもたない人々が、経験的証拠を吟味し、原因・結果の問題を判断し、経験的実験を有効な手順とみなし、プラグマティズム(実用主義)の規準を常識として受け入れることに、完全に慣れてしまっています。こうした精神的傾向は、すべて、科学の発達に付随して取得されたものです。
 科学的論証および実験は、思考形態として、宗教と鋭い対照をなしています。科学的知識は常に懐疑や批判に晒されますが、宗教においては、知識は信仰と帰依に依存しています。科学は仮説を提示し、その仮説は、有効と認められた種々の手順によって、繰り返し試されます。科学上の主張は、原則として常に反証が可能です。これは、宗教的真理に関する主張が反証不可能であるのと対照的です。科学的な思考態度は誤謬を認め、発達を期待します。それは、あらゆる知恵はすでに説き尽くされていると想定する傾向をもつ宗教とは、対照をなすものです。

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