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奇跡物語の意義  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  奇跡物語の意義
 池田 宗教の教えの中には、随分と現実的知識から懸け離れた記述が多く、しばしば私たちを戸惑いに追い込みます。たとえば、釈尊の説いたとされる法華経の中にも、地球の半分ほどの大きさの宝の塔(注1)が、地中から出現して空中に浮かんだと説かれたり、大地が六種類に振動し、大衆が空中に留まったりしたことが説かれています。聖書の中にも、奇跡と呼ばれる、さまざまな現象があります。
 これらを、そのまま修正を加えないで事実あったことと考え、そのために科学的知識と平行線をたどるのみで、空想的観念の世界に閉じこもってしまうのは愚かなことです。と同時に、これらをまったくの虚構と捉え、宗教特有の誇大な表現にすぎないと無視してしまうのも、誤った対応だと思われます。
 宗教教典の記述には常に過大評価や過小評価、もしくは神秘化がつきものですが、しばしば劇的な発見によってその実在が証明されることもあり、すべてが何らかの意味をもって語り継がれていると思われます。私は、過大評価による神秘化と過小評価による捨象によってその意味を見失うことなく、正しく見ていく必要があると思っていますが、教授はこうした宗教特有の表現について、どのような感想をおもちでしょうか。
 たとえば、ただいま挙げた法華経における宝塔は、人間自身の生命の尊厳を表徴し、またそれが普遍的であることを教えようとしているもののようにも思われます。それらを虚構として無視するのでなく、その教えのもつ価値を正確に認識すれば、宗教の英知を人間としての現実の生き方の中に取り入れ、豊かにできることが多いのではないかと思っていますが、こうした把握については、どのようにお考えになりますか。
2  ウィルソン 私のような部外者の見方によれば、奇跡的な出来事についての報告は、立証または反証すべき主張としてよりも、むしろ信者の帰依心の深さを示す証拠として捉えられるべきです。奇跡と思われているものは、すべてそれに関わり合った人々の解釈いかんによるのです。たとえば、今日の科学ではありふれたことでも、一千年前であったなら、いや、百年前でさえ、奇跡とされたことでしょう。またそうした過去の時代の奇跡についても、現在では、納得のいく科学的解釈が得られるかもしれません。
 奇跡的な出来事のより重要な側面は、それが信者にとってもつ意義にあります。奇跡が、それだけで宗教としての十分な証左と考えられたことは、ほとんどありません。奇跡的な出来事にのみ依存する信仰は、呪術であって、宗教ではありません。また、奇跡が、人々が信奉者になるための理由として考えられたこともありませんでした。偉大な宗教指導者たちは、たんに人々を信じさせるために奇跡を行うよう求められたとき、多くの場合、これを嫌ってきました。奇跡は、人々の信仰を補助するものであり、統一性のある哲学や教義によって初めて意味をもつものです。
3  あなたが指摘されたように、奇跡は、合理性によってはまったく評価できない、象徴的ないしは詩的な真実を伝えるものでした。宗教は、必然的にシンボル(象徴)を用います。つまり、心的態度を伝達し、意識や感受性や人間的な性向を喚起し、人々の集団的な責任や忠誠への自覚を促し、さらには情緒を涵養し、緩和し、規制するうえで、象徴が用いられるのです。宗教のこうした機能は、合理性一点張りの機関によっては簡単に代行できません。また、世俗権力には、そうした事柄に関しては、社会の要求を汲み取るだけの力はありません。
 ある面では、各個人は、自分のためにも周囲の人々のためにも、精神的・情緒的な気質を養うことの重要性を自覚しなければなりません。宗教がそのような目標の達成のために用いる象徴の一つが、奇跡的な出来事という観念なのです。この観念によって、ものごとの可能性、ないしは可能性の極限を、寓意的に伝えることが可能になります。こうした奇跡的なものが表すものは、完成・回復・社会秩序・悪の克服といった理想です。もしかりに奇跡の観念が、悪は一挙に撲滅され、病気は回復し、死は克服できるといった期待を、そのままうのみにして願うことをも“同時に”満足させることがあるとしても、それは、われわれが観察することのできる広範な宗教的諸現象の多面性を示すものなのです。

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