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宗教の普遍性  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  宗教の普遍性
 池田 少々、突飛な話題になるかもしれませんが、現在の天文学的知識によると、地球以外にも知的生物がいる可能性は十分あります。ただ、現在のところ接触する可能性はきわめて薄いのですが、これも、将来の画期的な技術の発展があれば、あるいは他の世界の知的生物のほうからの努力によって、邂逅の実現も期待しうるわけです。
 その場合、その生物が人類と同等、もしくはそれ以上の知的レベルに達しているとして、いったいいかなる分野でその生物と理解し合えるか、という問題があります。この問題は思考の遊戯にすぎないといえるかもしれませんが、宇宙的規模において何が普遍的なものであるのかを考えるうえで、一つの基準にはなると思います。
 まず、自然科学は共通しうると思います。物理的あるいは化学的諸現象は、地球上であると否とを問わず、ほとんど同じであろうと考えられますし、数学という抽象的な分野においても、十分接触は可能でしょう。事実、科学者たちは、他の天体の知的生物と邂逅した際には、数学的記号をもって言語の代行を果たさせようと考えています。
 ところが、社会科学や人文科学の分野において共通性を期待するのは、きわめて困難なように思われます。音楽や絵画・彫刻、まして詩などについては、最初の接触はおろか、後になっても共感し合うことは、とうてい期待は薄いといわなければなりません。ところで、教授は、宗教あるいは宗教的感情について、こうした他の天体の生物との共感や相互理解が可能ではないかとお考えになったことはないでしょうか。彼らも知的生物である以上、自身の存在や、宇宙とは何かについての意識は十分持ち合わせているでしょうし、自らの生命の誕生、存続維持、死滅等についても、意識しうることが考えられます。そこに宗教が生まれうるのではないか、などと私は考えているのですが――。
2  ウィルソン 他の惑星の生物がどのような性質の知性をもっているにしても、彼らが、彼ら自身の社会内で、科学的・数学的公式だけでコミュニケーション(意思の疎通)を図っているということは、想像しがたいことです。もちろん、われわれが地球上で使っている“社会”とか“コミュニケーション”などの用語それ自体が、いずれも、彼ら惑星生物の間に普及している相互関係の構造には、すでに全然当てはまらないかもしれないということは、当然、考えられることです。ところが、さらに、もし彼らの社会機構が全面的に合理化された整合体であったとすれば、もはや明らかに、地球の人類がそうした生物と親密な関係を結ぶ可能性は、ありえないだろうと思われます。
 そうした生物が、愛情・恐怖・疑惑・不安・利己心・利他心・その他の人間的な感情をもっているのでなければ、何らかの接触がなされたとしても、それが効果的な形で行われるということは、想像しがたいことです。ただし、厳密に科学的な情報の交換は別でしょう。しかし、それにしたところで、文化的にいっても(また惑星間で比べてみても)、われわれが想像するよりもずっと相対的なものであることが分かるかもしれません。事実に関する情報だけのコミュニケーションであれば、数学的記号だけで十分でしょうが、そうした記号では、感情移入の理解は何ら得られないでしょう。そして、もしそうであるならば、そこには、尊敬や信頼や愛情に基づく関係は、一切生まれえないことになります。
 しかし、あなたが仮定されたように、もし彼らが思考力豊かな生物であるならば、彼らは、自分の生きる環境に対して対応しているであろうと考えなければなりません。彼らが誕生・成長・老衰・死滅に支配される存在であるとすれば、そうした経験の中での精神的なショックに対しても、反応しているに違いありません。もしそうであるとすれば、それは彼らを、存在についての宗教的解釈とでも呼ぶべきものに導きうるものだということに、私も同意したいと思います。その場合、そこに生じる疑問への解答に対する、もしくは少なくともそのための手引きに対する要請は、ほとんど間違いなく彼らを生の意味についての関心へと導き、さらには生の意味やそれに相応しい個人の態度についての教理体系へと、導くことになりましょう。そして、そのことは、あなたの言われるように、宗教への出発点になるものといえましょう。

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