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混淆宗教  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  混淆宗教
 池田 ローマ・カトリックの宗教体系には、もともとキリスト教とは無縁の、異教の祭礼や伝統が取り入れられたり、あるいは、地方神が聖者として取り入れられるなど、典型的なシンクレティズム(混淆信仰)の特徴が見られます。しかし、これは、キリスト教にかぎらず、仏教その他の諸宗教にもあることで、一つの宗教が他の民族に受容されていく場合に、普遍的に見られる現象ではないかと思われます。おそらく、どのように排他的な宗教であっても、そうした民族固有の土着性、土俗性は切り捨てることができず、したがって、異教の神や祭礼を受容せざるをえなかったのでしょう。
 また、このシンクレティズムは、宗教を支配の道具にしようと考えた過去の政治権力者によってしばしば利用され、征服・支配する民族・種族の守護神などを、自らの神殿に一緒に祠った事例が、数多く見られます。たとえば、古代エジプトの王がそうでしたし、古代インドでもそうでした。
 支配・被支配とは無関係ですが、仏教の場合、インドに例を挙げますと、仏教以前のバラモン教(注1)の神々――たとえば梵天王(注2)や帝釈天(注3)、日天、月天、四天王と(注4)いった支配民族の神々から、被支配民族の神々と思われる阿修羅等に(注5)いたるまで――が、そのままの名称で、仏教体系の中に取り入れられています。日本に仏教が伝来してからも、日本古来の天照大神や八幡が、やはり仏教の守護神として祠られてきました。
2  釈迦牟尼の過去を語った本生譚の中に(注6)は、帝釈天は、釈迦牟尼の仏道を求める心を試すために、さまざまな姿をとって登場します。たとえば、釈迦牟尼が雪山童子とし(注7)て修行していたとき、仏法の教えを与える代償として、鬼が、童子の身体を食べさせるよう求めます。ところが、この鬼は帝釈天で、童子の仏法を求める心が真実か否かを試そうとしたのです。また、仏陀となってからの釈迦牟尼に対しては、梵天・帝釈天は臣下として仕え、守ったと、経典は述べています。この仏教のように、既存の神々の名をそのまま残して、痕跡を明瞭に留めている場合は別にして、キリスト教のように痕跡が隠されている場合、そうしたシンクレティズムについて当事者が知ったときに、どのような反応がなされるか。それについてうかがいたいと思います。
3  ウィルソン キリスト教の場合、どの程度までシンクレティズムが見られるか――その度合いについては、いくら大げさに言っても過大評価にはならないでしょう。キリスト教におけるシンクレティズムは、特にその発生期に顕著に見られますが、この宗教が新しい環境に適応していった過程の中で、布教の初期ばかりでなく、もっと後の時期においても、特にラテンアメリカにおいて、顕著に見られます。
 聖職にある学者たちは、キリスト教の伝統が培われる中で行われた宗教的借用の全貌を、なかなか認めたがりませんが、いま述べたことはすべて、学者間では明白なことなのです。

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