Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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註解  

「人間革命と人間の条件」アンドレ・マルロー(池田大作全集第4巻)

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1  あ行
 アインシュタイン(Albert Einstein 1879~1955)
 アメリカの理論物理学者。南ドイツのウルムに生まれる。スイス、チューリヒのポリテクニクム(日本の工業大学にあたる)で電気工学を専攻しているうちに物理学研究に転身。卒業後は特許局技師の仕事の合間に理論物理学の研究を行い、一九〇五年光量子仮説、特殊相対性理論、ブラウン運動の理論をつぎつぎに発表した。特殊相対性理論から帰結される物質エネルギーの原理は、原子力解放の理論的根拠となった。一九一六年一般相対性理論を完成。二一年にはノーベル物理学賞をうけた。三三年のはじめ、ナチ独裁政府によってユダヤ系学者としてドイツを追放され、アメリカのプリンストン高級研究所に迎えられた。若いころから戦争絶滅を理想とする平和主義者として一貫した主張をつづけ、のちには世界政府論提唱者の一人として活躍した。
 アクロポリス(Acropolis)
 アテナイ、プリエネなど古代ギリシアの都市国家(ポリス)の多くは中心市街やその背後に、要害堅固の丘をもっていた。この丘がアクロポリスで、アクロとは「高い」という意味である。もともとは丘そのものがポリスとよばれていたが、これを中心に都市国家が成立し、それがポリスとよばれるようになったため、丘のほうにはアクロをつけて区別したとされている。
 アショーカ王(Aso´ka 生没年不明)
 前三世紀、インド・マウリヤ王朝第三代の王で、はじめて全インドを統一した。即位の初期には各地への攻略あいつぎ、戦争にあけくれたが、東インドのカリンガ地方を征服したとき、戦争の悲惨さに目覚め、前非を悔いて仏教に帰依したという。以後、アショーカ王は「法」による政治を理想として平和を尊び、各種の社会事業・慈善事業を行い、仏教を国内にひろめるだけでなく、広く近隣諸国へも伝道師を派遣した。これらの行為によって、古代インドの理想的な帝王とされている。
 アスワン・ダム
 エジプト・アラブ共和国、上エジプト地方にある。ナイル川の水を調節して砂漠を耕地とする目的でつくられ、一九〇二年末に完成した。その後、一九〇七年、一二年、三三年に改善され拡張されている。このダムを利用して電源を開発し、工業化を推進する計画も進められ、六一年からアスワン発電所が発電を開始、静かな保養地、観光地であったアスワンは大化学肥料工場の所在地となった。また七一年初めには、アスワン・ダムの南方七キロメートルの地点に、アスワン・ハイダムも完成した。これはソ連から四億ドルの借款と技術援助をうけてつくられたもので、高さ一一一メートル、長さ三五〇〇メートルの大ダムである。上流にはナセル湖が出現し、出力一七五〇〇〇キロワットの水力発電機が十二基稼動して、電力を供給している。
 安楽死
 治る見込みのない患者を、苦痛から解放するために、人為的に死にいたらしめること。これは世界観につながる問題でもあり、仏教やキリスト教では厳しく否定している。ただ、延命医療技術の発達とともに、生きつづけることが苦悩をつづけるだけという患者の数がふえてきており、これが社会的にも大きな問題となっている。それは、患者や家族の要請で、死期の近い患者から生命維持装置を外す権利を認める「死ぬ権利」の問題も提起している。
 『イエスの生涯』フランスの思想家、言語学者、宗教史家であったエルネスト・ルナン(1823~1892)の著したイエス伝で、一八六三年に発表された。実証主義の観点から、聖書の誤謬、伝説、歴史的矛盾を批判し、キリスト教を人間的事実として歴史的な角度から探究した大著『キリスト教起源史』に含まれている。これは二十五年間の周到な文献学的研究と聖書の実地調査によって、科学的宗教史研究として画期的なものであった。とくに『イエスの生涯』は、イエスを教義的解釈から解放して、科学的解釈を加えたものとして、国の内外に異常な反響を呼びおこした。
 ウィルソン(Woodrow Wilson 1856~1924)
 第二十八代アメリカ大統領(在職一九一三年―二一年)。バージニア州のスタントンに生まれる。プリンストン大学を卒業、一九〇二年、同大学の学長に就任。一〇年、民主党に推されてニュージャージー州の知事に当選し、一三年に大統領になった。第一次世界大戦では、孤立主義者の激しい反対にもかかわらず〈デモクラシーのための戦い〉を強く主張し、対独宣戦を行ってアメリカを大戦に参加させた。独占資本が勢力を強めて、政治と結託しはじめたころだっただけに、彼の進歩政策は多くの妨害をうけ、失意のうちに死去したが、その理想はルーズベルトのニュー・ディール政策にうけつがれている。
 エクハルト(MeisterJohannes
 ドイツの神学者。ドミニコ会出、ケルンの同会神学大学で神学を学び、説教師として大衆にわかりやすい自国語で著作した。すべてのものは神のなかに神とともにある、とし神と人との血縁上の同質を説く。教会的封建的権力による精神の奴隷化(罪の意識による脅迫)に反対した点に無政府的個人主義の要素があるが、人間の内面の自由性を強調した態度は死後、異端とみられた。その思想は新プラトン的汎神論の傾向が強く、先駆者にはウルリッヒやディートリッヒがいた。
2  か行
 ガンジー(Mohandas Karamchand Gandhi 1869~1948)
 インド建国の父。インド西部のポルバンダルで、ジャイナ教徒の家に生まれた。十八歳のときイギリスに留学して法律を学び、帰国して弁護士を開業したが、訴訟事件で南アフリカのダーバンに行き、在住インド人の地位と人間的権利を保護するために、人種差別反対闘争を組織するにいたった。ここで、アヒンサー(不殺生)を中心とするガンジー主義をつくりあげ、また大衆闘争(サチャグラハ)を行い、非暴力不服従運動として展開された。それはのちにインドにおいて行った反英独立闘争にもうけつがれた。一九一五年帰国したガンジーは、一九年から対英非協力運動を指導したが、それは暴力によらずに、納税拒否、就業拒否、商品不買などの非協力によって権力に抵抗しようとするものであった。以後、生涯にわたって反英独立闘争を指導し、何回となく投獄されたが、釈放されるとインド各地の行脚をつづけた。四八年一月、イスラム教反対をとなえる極右派の青年に射撃されて生涯を閉じた。文豪タゴールからマハトマ(大きな魂∥大聖)と称する詩を献ぜられたことから、マハトマ・ガンジーと呼びならわされている。
 空想美術館(Le Muse´e Imaginaire)
 マルローの美術論の主題であり、不可知なるものへの最大限の接近の試みの場とも解釈されよう。個々の人間の〈好みの美術館〉とは違い、われわれが作品を選ぶというよりは作品がわれわれを選ぶといった、そして現代への最大の問いとしての作品アンサンブルである。マルロー自身は次のように書いている。「〈空想美術館〉は、われわれの記憶のなかにしか存在しえないのであって、またルーヴルの延長というだけのものでもない。(中略)神々も聖人も、化して彫刻となりえたのであって、その意味で《変貌》こそ、まことの〈空想美術館〉の魂と称すべきものである」(『芸術新潮』一九七五年四月号所収、「ピカソ回想」竹本忠雄訳)。
 クーデンホーフ=カレルギー(Richard Coudenhove―Kalergi 1894~1972)
 オーストリアの思想家。現在のEC(欧州共同体)の生みの親といわれる。
 東京・牛込に生まれる。日本名は栄次郎。父は、当時オーストリア・ハンガリー駐日代理公使であったハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯。母は光子(旧姓青山)。三歳のとき、父の帰任と共にオーストリアに行き、やがてウィーン大学で哲学・近代史を学ぶ。そののち、第一次世界大戦による惨状に接して、汎ヨーロッパ主義を提唱するようになり、以後生涯にわたってその実現のために活動した。一九六七年、七〇年の二度にわたって生国である日本を訪れ、本書の対談者である池田大作名誉会長とも対談を行った(『文明・西と東』サンケイ新聞社)。主な著書等は『クーデンホーフ=カレルギー全集』(鹿島守之助訳編、鹿島研究所出版会)におさめられている。
 ケネディ(John Fitzgerald Kennedy 1917~1963)
 第三十五代アメリカ大統領(在職一九六一年―六三年)。マサチューセッツ州ブルックリンでカトリックの名門に生まれた。父は有数の銀行家、外交官。ハーバード大学を卒業し、一九四六年下院議員、五二年上院議員となり、六一年一月に四十三歳で大統領に就任した。「たいまつは新しい世代に引きつがれた。(中略)国が諸君のために何をなしうるか問うな。諸君が国のため、何をなしうるかを問え」との就任演説は有名。アメリカの威信回復のために〈ニュー・フロンティア精神〉を提唱し、政策に革新的なものをうたった。六二年のキューバ・ミサイル危機に際して、海上封鎖の強行手段でフルシチョフ首相と交渉、キューバからのソ連のミサイル撤去に成功。六三年八月アメリカ、ソ連、イギリス三国間で部分的核実験停止条約を締結させたが、同年十一月遊説中にテキサス州ダラスで暗殺された。
 国際インター(International)
 ふつうインターナショナルとよばれており、プロレタリアートの団結と解放のために結成された社会主義者の国際的組織。第一インターナショナルは一八六四年―七六年にかけての国際労働者協会で、マルクスは創立そのものには関係しなかったが宣言と規約を起草した。第二インターナショナルは一八八九年―一九一四年にかけての国際社会主義者大会で、パリで結成されたが、やがて第三インターナショナルに圧倒された。第三インターナショナルは共産主義インターナショナル(コミンテルン)で、一九一九年―四三年、ボルシェビキを中心にレーニンらの指導でモスクワに三十カ国の共産党や左翼社会主義者が集まって結成した。第四インターナショナルはコミンフォルムで、これは共産党および労働者党情報局の略。一九四七年に西側諸国の反共産主義的・反ソ連的な共同行動が強化されてきたため、コミンテルンにかわり、同年創立された。しかしスターリン死後、各国共産主義運動の活躍の統制が緩和され、平和共存が唱えられるようになって、一九五六年解散された。
 コスイギン(Aleksei Nikolayevich Kosygin 1904~1980)
 旧ソビエト連邦首相、共産党政治局員。ブレジネフ、ポドゴルヌイとともにトロイカ(三頭政権)の一人。入党は一九二七年。三五年にレニングラード繊維大学を卒業。三八年レニングラード市長、翌年織物工業人民委員に就任し、その後軽工業関係の閣僚や副首相を歴任。六〇年第一副首相となり、六四年フルシチョフ失脚のあと首相に就任した。七四年、七五年の二度、池田名誉会長と会談、平和・文化・教育交流などで意見を交換した。
 ゴーリキー(Maksim Gor’kii 1868~1936)
 旧ロシア・ソビエトの作家。本名アレクセイ・マクシモヴィチ・ペシコフ。ニジニ・ノヴゴロド(現在のゴーリキー市)の指物師の家に生まれる。自伝三部作『幼年時代』『人々のなか』『私の大学』で前半生が詳しく描かれている。一九〇五年、一七年の革命を中にはさむロシア史上最大の激動期を生きた彼は、マルクス主義的世界観に立って、創作と革命を意識的に結びつけ、ソビエト文学の父、社会主義リアリズムの創始者とされている。『どん底』『母』などの作品は広く知られる。
 コンチネンタリズム(Continentalism)
 ヨーロッパの大陸的思想傾向。
3  さ行
 シアヌーク(Norodom Sihanouk 1922~)
 元カンボジア民主国国家元首。一九四一年カンボジア国王に即位するや独立のために努力し、四九年に独立宣言、五三年には完全独立を果たした。五五年に王位を父にゆずり、父王の死後は即位にかわり国家元首に就任。東西両陣営から援助をあおぎ、“綱渡り外交”によってベトナム戦争からも中立を保った。七〇年モスクワ訪問中に親米右派のクーデターによって追放され、以後は北京に滞在し、カプチア民族統一戦線、カンボジア王国民族連合政府を樹立してプノンペン政権に対抗した。七五年四月、北京で池田名誉会長と会見。プノンペン陥落ののち、同年九月、五年ぶりに帰国。同国は七六年一月に民主国発足により王制と別れを告げた。九一年七月、カンボジア最高国民評議会議長に就任。
 ジスカール・デスタン(Valery Giscard d’Estaing 1926~)
 フランスの政治家。コブレンツ(独)の生まれ。理工科大学、国立行政学院を卒業し、はじめ大蔵省に入ったが、五六年に国民議会議員に当選、三年後には国務相となる。六二年にド・ゴール与党の新党である独立共和派を結成して、その総裁となった。ド・ゴール政権、ポンピドー政権を通じて長く蔵相をつとめたあと、七四年に大統領となり、国際経済危機の打開に尽力した。
 『資本論』カール・マルクス(1818~1883)の主著。科学的社会主義の理論的な基礎づけをした書物として、数十カ国語に翻訳され、共産主義・社会主義の運動の思想的な基盤の役割を果たした。第一巻を一八六七年(七二年に改訂版)に刊行したあと、続巻を完成せずにマルクスは没したが、友人のフリードリヒ・エンゲルスがその遺稿を整理して、一八九四年に全三巻四冊として完成した。その理論によれば、一方の側における富と資本の蓄積は、他方の側における貧困と窮乏の蓄積をもたらす。これは資本の運動法則がもたらした必然の結果であり、ここに資本主義社会の根本矛盾がある。この矛盾を解決するものは資本家階級ではなくて労働者階級である。だから労働者階級は資本家階級の蓄積した富と資本を奪取して、これを人間解放のために使わなければならない、と論じている。
 四門出遊四門遊観ともいわれ、四門とは四方の門、遊観とは遊び歩いて見物すること。仏教に説かれる。釈尊が悉達太子であったとき、宮城の東門から出遊して老人を見て、生あれば老あることを悟った。南門から出遊して病人に逢い、生あれば病あるを知った。西門から出遊して一死人に逢って、生あれば死あるを知った。さらに北門から出遊して端然として威儀具足した僧侶に逢い、その姿も心も清浄であるのを見て出家得道の望みを起こした。このようにして人身に生老病死の四苦があることを知ったと、その因縁を説いている。
 シャルトルのカテドラル
 フランス中北部のシャルトルにある聖堂で、ゴシック式大聖堂の代表的なものとして知られる。十二~十三世紀に改修されたが、その当時のステンド・グラスや多くの彫像が保存されており、中世大聖堂の景観をよく伝えている。聖母マリアの会堂(ノートル・ダム)として尊重され、その“御下着”があることから多くの巡礼者を集めている。カテドラルは、聖堂のうちの主聖堂、司教座のある聖堂のことで、これを大聖堂ととくに呼んでいる。
 十字軍遠征
 一〇九六年から一二七〇年にわたって、西ヨーロッパのキリスト教徒が聖地回復の名の下に行った大遠征。一〇九六年―九九年の第一次から、一二七〇年の第七次(第八次)におよんでいる。セルジューク・トルコが地中海東岸に進出して、エルサレム巡礼者に迫害をくわえたりしたため、ローマ法王・ウルバヌス二世が一〇九五年フランスのクレルモンで宗教会議を催し、十字軍遠征を決議させた。フランスが遠征を行ったのは第一次、第二次(ルイ七世)、第三次(フィリップ二世)、第六次、第七次(ルイ九世)であるが、第一次のときエルサレムを占領したのを除いては失敗に帰した。しかしこの遠征の結果、法王の権威失墜、封建貴族の没落、東西交易の促進、イスラム文化との交流などがおこり、中世社会の転換に大きな影響を与えた。
 ジュール・ヴェルヌ(Jules Verne 1828~1905)
 フランスの科学冒険小説家。一八六三年に空想科学小説のはしりともいうべき『気球に乗って五週間、発見の旅』を雑誌に発表し、冒険小説の新しい分野を開拓した。H・G・ウェルズの初期の科学小説にも大きな影響を与え、SFの父ともいわれる。代表作の『八十日間世界一周』や『海底二万哩』は映画にもなった。『海底二万哩』では、潜水艦ノーチラス号が登場、潜水艦の発明に先がけたことで知られる。『二年間の学校休暇』は、日本では『十五少年漂流記』のタイトルで知られる。他に『地底旅行』『地球から月まで』など、多くの作品が翻訳されている。
 成住壊空、方便現涅槃
 「成住壊空」とは四劫といい、宇宙・生命・その他いっさいのものが、その過程をたどって流転していくことを説いた言葉。たとえば地球などの天体が成立する期間は成劫、その状態で続いていく期間は住劫、三災(火災・風災・水災)によって破壊される期間は壊劫、消滅してしまった期間は空劫となる。そしてまた次の成住壊空をくりかえしていく。この方軌を人間の一生にあてはめると、出生して成長する青少年時代は「成」、壮年時代は「住」、老年期が「壊」、死んで生命が宇宙の中にとけこんだ状態は「空」となる。しかし、日蓮大聖人の『観心本尊抄』には「四劫を出でたる常住の浄土なり」等と、この成住壊空の流転をくりかえす生命の中に、常住にして不滅の生命が、厳然と存在することが説かれており、本文での池田名誉会長の発言のように、生命の永遠性が、そこに説示されている。
 また「方便現涅槃」は法華経如来寿量品第十六の文で「衆生を度せんが為の故に方便して涅槃を現ず而も実には滅度せず常に此に住して法を説く」とある。仏は衆生を救わんがために、方便して涅槃(死)を現ずるというのである。つまり、生命は永遠であり、本有常住であるが、仏は生死の理を示すために死を現ずるということを説いている。死とは生命の滅失を意味するのではなく、つぎの新しい生のための方便だとされているのであり、これも生命の永遠性を明かしたものである。
 ショーロホフ(Mikhail Aleksandrovich Sholokhov 1905~1984)
 旧ソビエトの作家。ドン河沿いのヴョーシェンスカヤ村で生まれた。作品のほとんどすべてにわたってドン・コサックの生活を描いているが、彼自身はコサックの出ではない。短編『ほくろ』で二四年文壇にデビュー。長編『静かなドン』は二八年に第一部を発表したが、第四部の完成まで十数年をついやした。これは民族の一大叙事詩ともいうべき大長編で、革命の歴史と階級闘争のきびしさを余すところなく伝えた、ソビエト文学最高の傑作とされている。第二の長編『開かれた処女地』は、第一部が三二年に書かれてから、六〇年に第二部が完結するまで三十年ちかくかかっている。三二年以来の党員で、三七年最高会議代議員、三九年科学アカデミー会員に選出され、ソビエト文学界では別格に遇されていた。六五年ノーベル文学賞受賞。七四年、池田名誉会長と会談。
 人権宣言
 フランスの〈人および市民の権利の宣言〉をさす。この宣言は、一七八九年七月十四日のフランス大革命(バスティーユ解放)後、憲法制定国民議会が同年八月二十六日に可決したもの。一七九一年に制定されたフランス憲法の第一番目に掲げられている。人間が生まれながら自由で平等であること、国家は人間の自由、財産、安全、圧制への抵抗などいわゆる自然権を保全するためにあること、主権は国民に存すること、法律は市民の参与によって作られるべきこと、身体の自由、言論の自由、宗教の自由、財産権の不可侵などの原則を定めており、前文および十七カ条からなる。近代自由主義的国家・政治観を公式に表明した文書として、アメリカの独立宣言とともに広く知られる。
 シンメトリック
 シンメトリー(Syme’trie)ともいう。美的形式原理の一つであり、対象構成における中央の垂直軸によって区画される左右の二部分が、位置や形状において相照応する関係をいう。
 スターリン(Iosif Vissarionovich Stalin 1879~1953)
 旧ソビエト連邦共産党書記長、首相、大元帥。グルジアのチフリス近郊で靴屋の息子に生まれた。一八九八年社会民主労働党に入党し、党分裂後はボルシェビキに参加。たびたびシベリアへ流刑になったが逃亡し、一九一七年の二度にわたる革命で活躍。その後、革命軍事会議委員、党中央委員会書記長、コミンテルン中央執行委員となる。レーニン死後、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、ルイエフなどを排除して党の独裁的主導権を握った。農・工業は大きな発展をとげたが、スターリン崇拝、権威主義、教条主義などの弊害を生じ、学問や芸術の正常な発展は阻害された。死後、スターリン批判の声が強い。
 世界食糧会議(World Food Conference)
 一九七四年十一月、国連の主催により、国連加盟百三十カ国の代表が参加してローマで開かれた国際会議。会議の背景には七二年以降の世界食糧事情の逼迫がある。七三年に開かれた開発途上国の非同盟諸国会議は、宣言の中で世界の食糧会議を提案、このあとの国連総会でも食糧会議の必要性が論じられ、これら立場の違う二つの提案が発端となっている。そのため会議でも、先進国に対して発展途上国七十七カ国が団結して、明白な対立を示すこととなった。「飢餓及び栄養不良解消に関する世界宣言」のほか、食糧生産の増強、食糧の安全保障強化、事後措置等について、二十項目の決議を採択、その後も第一回世界食糧理事会会合(七五年、ローマ)等何回かの会合が行われたが、目立った成果は上げていない。
 世界食糧銀行
 世界の食糧の安全保障、配分機構のセンターとして、具体的施策を即座に実行する機関を設けようという構想で、これによって飢餓に悩む発展途上国に対し食糧を供給配分しようというもの。池田名誉会長は早くからこの構想を提唱していた。一九七四年の世界食糧会議でも議題となったが、池田名誉会長は同年十一月十七日の第三十七回本部総会における講演でこれにふれ、その基盤となる理念・思想として「援助の見返りを求めるのではなく、あらゆる国の、あらゆる人々の生存の権利を回復するというものであり、あえていえば、人類の幸せと未来の存続に賭けるという『抜苦与楽』の慈悲の理念」が必要であり、その成否は「全世界の指導者たちが、自国の利害よりも飢餓に苦しむ人々の苦悩をわが苦悩とし、その生命の痛みから、何をなすべきかという行為へと移るか否かにかかっている」と述べている。
 ソクラテス(Sokrates B.C.470~B.C.399)
 古代ギリシアの哲学者。観念論哲学の始祖とされる。その言行についてはプラトンなどの門弟たちの著作を通して知られる。彼の哲学は、行為の原因を魂にみて、魂の良さ(徳)についての知を探究した。その知は、愛求することによって各自の内に自覚されるものであり、無知の自覚がその出発点となる。探究の方法は問答法であり、徳の「何であるか」(本質的概念規定)が獲得されるまで問答がすすめられるのだが、しばしば相手を困惑に陥らせるので、イロニー(皮肉といわれた。また問答法は各自の内から知を引きだすので産婆術ともよばれた。
 存在と当為
 存在(Sein)はなにかが“ある”ことを表し、当為(Sollen)は、“まさに為すべきこと”を指す。カントはある目的の手段としての意味を持つ当為と、それ自体が目的となる当為を明確に分けた。後者は“汝為すべし”という無条件の命令で倫理的側面をもち、必然が本質となる自然の法則と対立する。

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