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文学と“人間”の追求  

「人間革命と人間の条件」アンドレ・マルロー(池田大作全集第4巻)

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1  文学と“人間”の追求
 池田 私は来週、ショーロホフ氏と会う予定になっています。(=池田会長はマルロー氏との対談を終え、五月下旬、ソ連を訪問した。これはソ連作家同盟の招きによるもので、ショーロホフ氏の生誕七十周年記念式典に参加するためであった。ただしショーロホフ氏は急病のため式典に欠席、再会は実現しなかった)
 先回の訪ソのときにお会いし、楽しいひとときを過ごしました。ご承知のように、ショーロホフ氏は、一貫してロシア文学の伝統的テーマともいえる民衆愛を追求しています。つまり、歴史を底流で担いつづけるのは、為政者でもなく知識人でもなく、じつは民衆であるという信念をもっている人物のようです。
 したがってその作品も、時代の圧倒的な流れのなかにあって、雑草のように力強く生き抜いてゆく、たくましい民衆のエネルギーを描こうとしているようです。マルロー先生からショーロホフ氏に、なにかお伝えしたいことでもありましたら……。
 マルロー 共通のなつかしい想い出があります。彼は才能のある作家です。どうかよろしくお伝えください。しかし私のみるところ、あなたがもっとも関心を寄せておられる問題、つまり宗教の問題については、たいして関心をもっているとはいえますまい。ショーロホフは、いわゆるインテリとか、思索家といったタイプの人ではありませんから。
 池田 私がショーロホフ文学、というよりロシア文学に寄せる最大の関心は、ロシア文学が民衆の幸福とか解放、平和といった理想をみつめ、文学はそのためにいったいなにをなしうるかを、つねにテーマとしてきたことにあります。
 このことに私は共感を覚えるのです。文学は、一部の知識人の占有物ではなくして、いかなる状況にあっても黙々と生き抜く民衆を無視してはありえないと考えます。この民衆観ともいうべきものが、じつはロシア文学の特色であり、多くの共鳴をえている土壌ともなっていると思うのです。
 ショーロホフ氏についていえば、氏は一九五六年に『人間の運命』という短編を発表されています。戦禍にもまれる男が、寒風の吹きすさぶ運命に抗しながら生き、最後は戦場に傷つきつつも、なお生きようとするところで終わります。私はもちろん作家ではありませんが、一個の人間の変革というものが、歴史の流れをどう変えるかをテーマに、小説『人間革命』を書きつづってきました。
 一方、マルロー先生は『人間の条件』を著され、死という不条理な運命を背負いつつ生きる人間群像をテーマにしておられる。私はこの“人間”へのあくなき追求こそ、文学の最大のテーマであると考えています。人生というものは、運命によって左右されるだけではないはずです。むしろ、人間の生きることへの意志が人生の全体に反映され、歴史に投影されることによって、一個の人間の歩みが生きたものとなり、新しい歴史そのものも開かれていくと信じます。
 人間は、運命の操作のもとにただ生きるというのでなく、そうしたかげりを負いつつも、内面的変革になお可能性を見いだしていくものです。私は、そうした創造的生命こそが人生の起点となりうると考えています。
 マルロー 作家として、われわれのまえの世代と、われわれの世代とのあいだの大きなちがいは、前世代の人々は、できるだけ広い範囲の問題、大きなテーマを取り上げたということでしょう。しかし、われわれの世代にあっては、そうではありません。
 われわれの世代にとって、もっとも重大な問題、最大の関心事とは、自分自身のことなのです。それはもっとも狭いものであり、およそ普遍的でない問題のはずですが、それこそがいちばん大切なことだと、現代の作家たちは考えています。要は、自分は一個の人間としてなにができるか、なにごとにたいして行動できるかということが大事のはずですがね……。
 池田 行動ということに共感を覚えます。作家というよりも、行動をもって自己を問い、生きる証としていく姿勢は尊い。
 私自身も、やはりまず、動くことをすべての第一歩としてきました。まず動いてみる。そしてそのなかで考える。ですから、行動のない言説には、あまり魅力を感じません。
 また、よく指摘されるように、現在のような管理化社会においては作家の創造力も衰退し、さらに行動の画一化、生活体験や思想の貧困さから、雄大な時代の文学が出現してこないというのも、たしかに事実でしょう。(訳註5)
 そうしたなかで、マルロー文学に見られるような、科学志向の風潮を超越しちようえつた“永遠なるもの”を求める姿勢は、高く評価されるべきであると考えます。
 ところで現在、マルロー先生はどういうジャンルに関心をもち、執筆しようとしておられますか。
 マルロー 芸術へのメタフィジック(形而上学)というか、ともかく一種の芸術論です。かつては美の追求であった美術が、いまや美学ならぬ《問題学(問題複合体プロブレマチツク)》へと変化をとげるにいたりました。かつては「美は存在する」といわれたものですが、いまや「美術とはなにか」と問われているのです。それは、「美術はある」ではないのです。

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