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二十一世紀には「精神革命」が……  

「人間革命と人間の条件」アンドレ・マルロー(池田大作全集第4巻)

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1  二十一世紀には「精神革命」が……
 マルロー さきにもふれましたが、現代は決断不在の時代なのです。私が歴史的政治と呼ぶところの信念をもった指導者も、もはや見あたりません。ローマ帝国の政治、大英帝国の政治、ナポレオンの政治など、今後は出現不可能でしょう。それに、五十年まえなら多くの人々が世界の運命を省察すべくつとめていましたが、いまではこれがうまくゆかないと認めて、それぞれ自分の城に引きこもってしまったというわけです。しかし、そうも明らさまにいうのは、はばかられるので、だれもが口では、いちおう「世界」ということはいっている。しかし、じっさいはそうではないのです。
 池田 現代の指導者における世界観の喪失ともいえるでしょう。しかし、世界性を欠いた発言であれば、たとえ自分の城のことであっても説得力をもちえないのではないでしょうか。たしかに世界中の指導者がそうしたジレンマにおちいっているように思われます。そしてそれは、あなたのいわれたいわゆる歴史的政治の時代の終焉を意味するでしょう。
 しかし、だからこそ私は、二十一世紀への決断をはたす主役は民衆である、民衆が歴史の前面に躍り出てくる時代にはいったのだと強調したいのです。デモクラシーは、現在において最大多数の人々が理想として認めた原則ですが、それは本来、支配者の原理というより、民衆のためのルールであったわけです。
 ところでマルロー先生ご自身は、二十一世紀について明るい見通しをおもちでしょうか、それとも悲観的にとらえておられますか。
 マルロー 本質的なことはわかりません。それはわれわれのもっているゲームのカードのなかにはないのです。つまり、現在の与件からは、いまだ予想できないとしか申しあげられません。おそらく、まったく別の事態が現れることでしょう。われわれの経験の範囲内では測り知れないほどの現象が。まさに一つの精神革命といっていいものです。
 これまで私ども西欧の世界にあっては、発明、発見が、あなたがたの世界におけるよりもずっと大きな役割をはたしてきました。ひじょうに簡単な例を一つ引きましょう。世間では電子顕微鏡はふつうの顕微鏡の完成されたものであると考えられていますが、これはまったくの間違いです。なぜなら、光学顕微鏡は、ある程度の拡大の次元までしかみることができなかった。たとえば光学顕微鏡で一個の細胞をみようとしても、まったく不可能だったのです。それにたいして、電子顕微鏡のほうは、細胞をはっきりとみせてくれるのですから。こうして、さまざまな物理学上の発見は、かつては思いおよばざるところのさまざまな知識をもたらしてくれたわけですが、重要なことは、こうした発明によって人は、探しもとめていたなにものかを発見するのではなく、まったくちがうなにものかを見いだすことがある──ということです。つまり、発明、発見によって答えがあたえられるのではなしに、新たな問いが発せられるのですね。
 こういった考えかたを推しすすめると、かなり遠くのところまでわれわれは行きつくことになるでしょう。電子顕微鏡の実用化は戦後のことですが、生命の本質的要素は細胞であるということを仮説としてしか考えることができなかった学者と、それが経験的事実であることを知っている学者とのあいだの差違は、決定的と申さざるをえません。
2  池田 同じようなことが、宇宙を視点にしたものの考えかたにもいえると思います。人類が、はるか宇宙の彼方から地球をみるなどということのなかった時代には、地球は一つ、地球は宇宙に浮かぶ運命を共同にした船、宇宙船地球号であるといっても、ピンとはこなかったでしょう。しかし、いまは実感をもって、そのことが明瞭な時代となっています。
 宇宙開発という人類のかつてなかった行為そのものが、すでにグローバルな視点を提供しているわけで、新しい発想の転換を迫っている。外なる宇宙がわれわれに新たな視点を提供した以上に、われわれ人間の内なる宇宙ともいうべき生命の解明、把握が新たな視点をもたらすでしょう。
 仏法はその人間生命を究極の対象とした哲理であり、私たちの人間革命運動は、内なる宇宙、つまり自身に内在する創造的生命を自身の手によって開拓する、人間自立の変革作業です。人間が新たな生命的思想の高みに立って二十一世紀を展望し、築きあげていこうという運動です。
 マルロー 二十一世紀は、ソビエトの人々が《プサイΨ》と呼ぶものの時代となるであろうと、私はかつていったことがあります。それというのも、ソ連ではいまや想像を絶する変化が起こりつつあるからなのですが。そしてそうした変化の出現そのものが、じつはマルクス主義的ではないということを、彼らは発見するにいたったということです。いまでは、宇宙飛行士のためのテレパシー実験に協力しない科学専門家は相手にされない、といった事態まで生じつつあるありさまです。
 わずか数年まえまでのあの国のありかたを考えれば、このような変化はまったくどぎもを抜かれるほどのものといわざるをえません。もっとも、こうした考えかたが、どれも、いつまでもつづくものかどうかは疑問ですがね……。すべて無意味のものになってしまうのではないか、とさえ思われるほどです。
 それというのも私は、いっさいが激しい勢いでつくりかえられるのをみてきた世代の一人だからで、この点、他のこれまでの世代とは比較のしようがありません。なにしろ、辻馬車から宇宙船まで、たった一世代のうちに変化をとげるのをみてきたわけですから……。
 池田 未来予測というのは、たいへん困難な作業ですね。ある意味では、バラ色の未来論も、終末論的な未来予測も、たいして意味がないといえるかも知れません。私は未来予測という作業は、未来はどうなるかではなく、未来をどうするか──ということに真の意義があると思います。
 一人ひとりの人間の生きることへの意志が人生の全体に反映され、その時代を彩り、やがて歴史へと投影されていく。新しい道はこうして開かれていくと信じています。したがって未来は現在を生きる一人ひとりの胸中にある、さらに日々を生きゆく日常性のなかにあるとみたいのです。

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