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日本の蘇生へ持続ある運動を  

「人間革命と人間の条件」アンドレ・マルロー(池田大作全集第4巻)

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1  日本の蘇生へ持続ある運動を
 池田 最後に、フランスの文化をささえた根源というものはなんであったか? 私は、フランスの思想・文学・芸術の根底に流れている人間への関心、人間を人間として認め尊重していく精神が、フランス文化の本質であり、フランスを文化の国たらしめた支柱ではなかったかと思っています。この点、どう考えられますか?
 マルロー 大国の歴史的運命はなにかしらひじょうに奇異なるものです。大国には二種類あるように思われます。自国がもっとも大国であるときに他の国々を自分の下位に置く、イギリスのような国があります。といってイギリスが偉大でなかったというわけではありません。イギリス的偉大性とは孤立することにあるといえるでしょうから。ただし、注釈をつけねばなりません。今次大戦中のロンドン空襲ですね、これなどはイギリスが孤立から抜けだしたときを示すものにほかなりません。
 しかし、フランスの場合を考えてみると、フランス的偉大性とは他国にとっての大国、偉大性である、ということです。もっとも、フランス自身がそんなことを主張してきたわけではありません。いずれにせよ、ほかの国々のためにあるときに偉大であるというのが、フランスの偉大性というものであるといえるし、いわゆる歴史的運命でもあったといえると思うのです。そのことを過去の歴史において顧みれば、二つの時点においてフランスが世界にとって大国であった時期があった。第一に中世における十字軍遠征であって、これはキリスト教信仰をもととした偉大性でした。第二は、フランス大革命で、これは人間を基礎とした偉大性でありました。フランスの価値はそこにあります。
 先ほど日本のフェニックスといったのは、そのような意味での日本的偉大性というものがあるということを信じていればこそで、そうした偉大性が、かならずやふたたび立ち現れてくるということを信じている、ということを申しあげたかったからなのです。
 池田 よくわかりました。その日本の蘇生のために、なんとかご期待どおりの持続性ある運動を、私は強力に進めたいと思います。あとは歴史が証明してくれることでしょう。
 マルロー 会長に、それがおできになることを信じています。
 池田 先生のご健康を心からお祈り申しあげ、そしてまた世界的ご活躍を心から期待いたします。
 きょうはお疲れのところ、長時間にわたって価値ある重要なお話をいただきまして、感謝申しあげます。ド・ヴィルモラン女史にも感謝します。
 ド・ヴィルモラン夫人 むしろ私のほうこそ楽しい時間を過ごさせていただき、また、とても有意義なお話も聞かせていただいて、ありがとうございました。
 池田 今日の会見は、私は一生忘れないでしょう。
 マルロー もし池田先生がパリにいらっしゃるとき、私もパリにいるようでしたら、またいろいろとお話をしたいと思います。
 池田 ひじょうにうれしいことです。そしてまた、いつの日かパリを訪問するときに、ご好意にむくいるお礼をもってお伺いしたいと思います。
 (一九七四年五月十八日、東京にて第1回対談)
2  訳者註
 (1)ここで二人の対話者のあいだでいわれている事柄は、訳者が「解説」でふれた「不可知論と行動」の問題に深くかかわりをもっている。マルローにとっては、池田会長が「マイスター・エクハルトのように」実存について語りながら、すなわち本来的に現実世界のつながりの「契機モメントがない」実存の問題を掘りさげながら、なおかつ義務的行動への賭けを実践していくありかたが、ひそかに、ひじょうなる深い関心の的となっている。人間の実存にたいする形而上学的問いが、いかにして歴史的参加と結びつきうるのか? アンドレ・マルローその人においてもそれは謎であり、この謎をとおして彼は池田大作氏の行動を注視している。マルローが、池田会長の請いに答えて、日本の青年たちのためにモットーとして「武士道プラス禅」といったのも、この意味で解されなければならない。すなわち禅の一語によって実存の目覚めの必要性をいうとともに、武士道の語によって行動を意味しようとしたものである。なお、武士道についてのマルローの理解は、一九六〇年に氏が来日したおりのインタビューで訳者に聞かせてくれた「武士道とは、武士の勇気と、主君への忠誠をとおしての超越者との交わりの誓い、くわえて日本民族の超越性を意味する」との言葉に明らかなとおり、きわめて形而上学的立場での理解である。
 (2)「万人は自分自身の神をとおして真の神にいたる」とは、インドのことわざで、マルローはおおいにこれを愛して随所に引用している。
 (3)不可知論(者)l’agnosticisme(l’agnostique)トマス・ハクスレーが「私は神にたいして懐疑論者ではない。かつてキリスト教神秘思想の一派、グノーシス派の人々が、真の神を認識する人間はわれわれである、といったのとは反対に、私は真の神のなんたるかを知らないという立場である。したがって、《認識》を意味するギリシア語の《グノーシス》に否定の“ア”の字をつけて《アグノスチシスト》と自己主義しよう」と書いたことに端を発する。なお、「釈尊その人が偉大な不可知論者である…」とのマルローの言葉の真意にたいしても誤解があってはならない。「死後われわれの魂はどうなるのですか?」との仏弟子の問いに答えて釈迦が「死後の問題、輪廻の問題の心をわずらわすことなかれ」と答えたのは有名なことであり、マルローの言葉もこの点をさしたものだが、彼はこの種の形而上学的問題にたいする偉大な仏陀の判断中止の態度を高く評価しているのであって、「輪を断て!」との仏教の行動はくりかえしその念頭に去来しているのである。

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