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日蓮大聖人・池田大作

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生死を本源的に止揚する仏法  

「人間革命と人間の条件」アンドレ・マルロー(池田大作全集第4巻)

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1  生死を本源的に止揚する仏法
 池田 あなたは、なんらかの形で、死後、生命がつづくと思いますか? 仏法では「成住壊空、方便現涅槃」と、生命の《我》の永遠性について明快に説いておりますが……。
 マルロー 私の考えでは、ここ百年以上の西欧世界の不幸は、西欧が不可知論者(訳註3)であったということです。不可知論者として、ひじょうな疑いの語彙をもって死について考えてきました。これは十九世紀思想の特徴です。
 しかし、私は、不可知論とは、疑いというものではなく、イコール信仰と同様であって、死を考えることが不可能であるという肯定であると思います。もしこの不可能性といったことを強く考えていったならば、死の脅威というものは消えてなくなることでしょう。
 そもそも、死後の存在などというものはないのではないかと疑うところに、死の脅威は生まれてくるものです。不可知論なるものについて、そこで、まじめに、古い悪魔の犠牲にならずに考えてみるならば、死にたいして人々がこれ以上は考えられないという確信を持てたならば、死の脅威は完全に消えるということに気づくはずであると思います。けだし、人間にとってもっとも救済的なことは、死というものを考えられなくなることであるからにほかなりません。
 なるほど人間は、航空機の発達したこんにちのような時代でありますから、航空機事故やなにかで自分がいつ死ぬかわからないという恐怖にたえずとらわれているわけですが、大事なことは《死去》ではなくて、《死》そのものである、というふうに私はいいたい。人が恐れているのは、自分が消えてなくなるということです。しかし、死の問題は死去ではないのです。したがって、ここからひじょうに重要な啓示を引きだすことができるのであって、この考えかたによって私たちは死を越えることができるということです。
 死については私は、ただいま、形而上学的にお話ししました。そのような死は苦痛といったものとはまったくの別ものです。すなわち、肉体的苦痛としての死、つまり死去につながるところの死、そうしたものとはぜんぜん別問題であるということです。
 池田 それを哲学的に、演繹的に、ぜんぶ説きあかしたものが、じつは東洋仏法の真髄なのです。生死の問題の本源的解決は仏法によってのみなされるでしょう。そこにのみ、生命のなかに太陽が昇ることを私は確信しています。
 マルロー それはよくわかります。なんとなれば、まず重要なことは、釈尊その人がもっとも偉大な不可知論者であったということにほかなりませんから。
 池田 そのような見かたもあるかもしれませんが、そうしたことよりも、私は釈迦こそ生命の本源について悟達したと申しあげたい。私はUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の講演でも話したのですが、仏教が無常を説き、死を視つめることを教えたのは、常住不変の法の実在することを教えるためだったのです。
 その釈迦の仏法がアショーカ王のインドの文化として結実し、中国の唐代の文化を建設し、さらにわが国においては奈良・平安朝の文化を築いている。だが釈迦自身がみずからの仏法について、正法一千年、像法一千年の二千年を過ぎると、その教義と芸術は残るけれども、その仏教自体の力は失ってしまうと、予言しています。
 そして、それ以後の末法という時代にはいれば、かならず末法万年という未来につうずる“太陽の仏法”が出現するであろうと志向しているのです。それが生死を止揚する“日蓮の仏法”ということになるのです。

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