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日蓮大聖人・池田大作

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実践者の対話――――桑原武夫  

「人間革命と人間の条件」アンドレ・マルロー(池田大作全集第4巻)

前後
1  実践者の対話――――桑原武夫
 これは二人の大実践者の対話である。
 毛沢東は、実践というなかに革命、生産とともに学問研究も数えているが、ここでいう実践はふつうの意味である。思索、研究を排除するものではないが(精神を排除した肉体だけの行動などというものは、人間にはありえない)、密室での冥想、あるいは研究室における学的追究とは区別され、外化され、人々にひろく影響を与えうるものとしての行動、社会的実践とも呼ぶべき人間の行動のことをいっているのである。
 池田大作創価学会会長を実践者と呼ぶことに、おそらく何びとも異存はなかろう。仏法による価値創造を使命とする学会の中枢にある人として、日夜精神の鍛錬につとめているであろうことはいうまでもないが、ここでは池田はもっぱら実践者の姿であらわれる。平和精神の普及と、それによる人類の地球的結合とを説いて全世界に行脚をつづける大実践者なのである。「私自身も、けっしていわゆる宗教家などではありません。一個の社会人です」といった驚くべく大胆な発言を引用するだけでじゅうぶんであろう。
 フランスの文化使節アンドレ・マルローを実践者と呼ぶことには、いささかの抵抗があるかもしれない。たしかに彼は、第一次大戦以後のフランスいなヨーロッパを代表する大小説家、知的、感覚的に最高の美学者だが、同時に、カンボジアの密林に秘宝をさぐり、中国、スペインなどで革命運動を助け、レジスタンス行動の指揮をとり、ド・ゴールの代理として毛沢東と折衝した人、まさに大実践者と呼ばるべき人物なのである。
2  池田会長はもちろん相手の知的学的達成をよく知ってはいるのだが、この対話においてはもっぱらマルローのうちに実践者を認め、やはり実践者である自分との会見に成果を期待するのである。マルローのほうも、「今回、いちばんお会いしたいと思っていたのが、池田会長でした」と言うのは、単なるエチケットではけっしてない。この大知識人が「ぜひ教えていただきたいことがあります」と言うのは、『法華経』の教理と平和精神との思想的関係といったことではなく、関心のあるのは一千万の会員を擁する「力ある組織」としての創価学会を率いて号令し、また国会の第三勢力たる公明党を指導する大実践者池田大作その人、彼のもつ力の淵源、ならびに今後その力の発揮されるべき方向なのである(政治権力によって教団が骨抜きにされてしまった日本とは異なり、宗教が政治権力と拮抗しうる力をもった西欧の知識人は、創価学会にたいして、日本の知識人とは比較にならぬほど強い興味をもっている。トインビーもその一人である)。
 この二人の人物はいわば二つの大きな氷山である。その海面上にあらわれた実践者としての一角におけるひらめき合いという形で、この対話はおこなわれている。海面下には氷山の全体積の七分の六という深い思索と豊かな経験がひそんでいるのだけれども、この対話は、知的、学的追究ではない。対話のおもしろさは実践者の対話というところにあるが、また率直にいえば、巨大な下部構造にさまたげられて、相互接近が十分でないという物足りなさも感じられるわけである。
3  もしこれが知的追究を目的とする対話であったとするなら、たとえばマルローが日本と中国との最大の相違点として愛と死と音階とを挙げたさい、さらに詳しく、とくに日中の音楽精神の相違は聞きただしたいところである。もし思想的探究の討論であったとするならば、釈尊は不可知論者だという大胆なテーゼは、素通りしてはならないものだと思われるだろう。しかし、池田会長がもっとも熱をこめて語るのは、平和の理念の世界民衆への普及であり、マルローが力をこめてすすめるのは、公害にたいする闘争を創価学会会長がイニシャティヴをとって即時世界的規模において開始せよということである。
 二人の大実践者は、ともに人類の危機を回避するためには世界一体観が不可欠だと認める点において一致している。ただ、それをもたらす契機として、会長はプラス的に平和の理念を説くのにたいして、マルローはマイナス的に公害反対闘争の旗を掲げよと言う。これを性善説と性悪説の相違と見ることもできよう。
 ただ、「もし次期世界大戦が起こるとすれば、かならずやそれは太平洋圏で起こるであろう」といった断定にたいしては、平和主義者はその理論的根拠を問い詰めてほしかった。全般に、フランス人のパワー・ポリティックス的観点からのするどい指摘は、日本人の文化的理想主義で包みこまれるのである。

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