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第18回「SGIの日」記念提言 新世紀ヘヒューマニテイーの旗

1993.1.26 「平和提言」「記念講演」(池田大作全集第2巻)

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1  対話こそ文化創造の機軸
 第十八回「SGI(創価学会インタナショナル)の日」にあたり、最近の諸情勢に関する、私の所感の一端を申し述べておきたいと思います。
 数年前の、ペレストロイカや東欧の開放に沸く開放的な華やいだ空気もどこへやら、世紀末を覆う暗雲は、ますます重く、低く垂れこめているようであります。私は、当時「開放」のエネルギーを「建設」のエネルギーヘと転化させていくことが最大の課題となるであろうことを訴えましたが、その転化作業は至難の業のようであります。
 戦後長く不信と敵意をむき出しにしてきたイデオロギーの対立が解消し、世界は今、ポスト冷戦時代に入っているとはいえ、新しい秩序建設の展望は全くといってよいほど開けておりません。それどころか、対応を誤れば破局的事態さえ招きかねない″火種″が、時には民族がらみ、時には宗教がらみで、ここかしこにくすぶっております。
 とりわけ、旧ユーゴスラビアや旧ソ連を中心とする民族紛争は、解決の兆しさえ見えないまま、かえって激化の一どをたどっております。昨今の国際情勢を読み解くためには従来の世界地図だけでは足りず、民族によって色分けされた″もう一枚の世界地図″が必要とされるといわれるゆえんであります。
2  西側諸国においても、アメリカのロス暴動、ヨーロッパでのネオ・ナチの台頭など人種・民族問題の顕在化は著しく、日本も、決してそうした流れの外にいられるわけではありません。普遍性、均質性、画一性を求めて発展してきた近代文明が、ここに来てにわかに逆流を始めた感さえありますが、それだけに、その主流を成し「国際政治のエイズとなる危険性」(「エコノミスト」誌)をはらんだ民族問題からは、一刻も目を離すことはできないのであります。
 実際、世紀末の我々は、「民族浄化」(エスニック・クレンジング)などという、墓から蘇ったような、半世紀も前の忌まわしい″妖怪″に今も直面しているのであります。
 セルビア等から伝えられる、ナテスの大量殺象を思わせるようなおぞましい蛮行をもれ聞くとき、また、その背景を成している幾百年にもわたる民族間の角逐に目をやるとき、″進歩とは何か″という聞きなれた問いがしきりに去来し、人間という生き物の度し難さに、暗澹たる思いにかられるのは、私一人ではないと思います。
3  私は、ドストエフスキーが『罪と罰』の終章で描いている、黙示録的なエピソードを思い浮かべます。金貸しの老女殺しの罪で流刑地シベリアヘ送られた鋭敏な青年ラスコーリニコフの夢に登場する伝染病――「顕微鏡的存在である、人体に寄生する、一種の新しい旋毛虫」の出現によって発生した奇妙な伝染病が猛威を振るう。
 「――それにとりつかれた人たちは、たちまち悪魔に魅入られたようになって気が狂ってしまうのだった。しかしながら人間は、いまだかつて、あとにも先にも、それにとりつかれた人たちが考えたほど、自分を賢明で、真理の追求に揺るぎないものと考えたことはなかった。またいまだかつて自分たちの決定や、その科学上の結論や、道徳上の信念や信仰を、このときほど確固不動のものであると考えたことはなかった」(小沼文彦訳、『ドストエフスキー全集』6所収、筑摩書房)
 かくて人々は、確たる信念に基づいて敵を求め、味方同士は分裂を繰り返しながら果てしない殺し合いを始める。勢いのおもむくところ、この伝染病の災厄から免れることができたのは「人類の新しい種族と新しい生活を創造し、この地上を一新し浄化する使命をおびた、清浄無垢な、選ばれた人たち」(同前)数人であった。――これが、病床のラスコーリニコフにつきまとい、苦しめ続けた悪夢であります。

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