Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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生命を尊厳ならしめるもの 「『人間の世紀』第一巻」から

1973.1.0 「平和提言」「記念講演」「論文」(池田大作全集第1巻)

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1  はじめに
 現代の文明社会において、それが直面している″危機″と称せられるものの実体は、とりもなおさず、尊厳なるべき生命が、あらゆる意味で危殆に瀕しているということである。だが尊厳であるべき生命への侵害及び軽視というこの風潮は、何も現代に始まったわけではない。むしろ、文明の発祥以来、生命に尊厳性が認められたことは、極めて稀であったとさえ言えるのではあるまいか。
 古来、尊厳なるものと考えられたのは、まず、神であった。神の姿やその特質についての考え方は、民族により、時代により、様々に異なるが、尊厳という比類を許さない絶対的価値が、神に対してのみ与えられたという点では一致していたとみることができる。
 尊厳とは、ある意味で神の代名詞でさえあった。
2  やがて、文明の発達とともに、人間社会がより大勢の人々の心を持続的に統合することが要求されるに至り、この神は、地上における″力″と密着する。すなわち、尊厳なる神の、地上に投影したものとして、王による統治が始まる。王は、神の子、神の代理人、時には神そのものとして、尊厳性を付与され、絶対的権力をふるうのである。
 古代ギリシャ人の言う、アジア的専制君主がそれである。そこでは、人民は、否、大臣、将軍といえども、尊厳なる王に仕える奴隷でしかなかった。
 これに対して、古代ギリシャ人にとって、尊厳なるものは、いかなるものとして映ったか。美や真理、あるいは善といった、プラトンのいうイデーがそれであったと考えられる。各ポリス(都市国家)は、それぞれに守護神を掲げ、その神が体現するイデーに奉仕し、献身することを、市政の理想としたのである。このギリシャ的倫理のもとでは、人々は神の尊厳を分かち持つことができたから、一応、理念的には、人間の尊厳も可能であった。だが、それにしても、現に生きている生命そのものに基盤をおいた尊厳観では決してなかったのである。
 歴史は、一貫して、こうした神に基盤を持つ尊厳観の展開であったといってよい。
3  科学と技術は、本来、神の尊厳に奉仕するために生まれたのであったが、やがて、その発達は「神」を覆った神秘のベールをひきはがすに至った。尊厳性の淵源は多様化し、相対化して、空洞化したにもかかわらず、人間の奉仕と犠牲を求めるメカニズムは少しも変わらないばかりか、むしろ、より大規模になってきたとさえいえる。
 生命の尊厳という考え方、つまり、この世で尊厳なるものとは、人間の生命それ自体であるという思想が、今日に至って″市民権″を得ようとしているのは、こうした歴史的推移の結果といえよう。もとより、それは生存の本能から発したものであって、過去においても少数の人々は、これを鋭く指摘してきた。だが、大多数の人々は、この点で自分が逆立ちしていることには、気づかないできたのである。
 今日では、当然のことと考えられている、この生命の尊厳という思想も、その歴史は、極めて浅いわけだ。しかも、現代人は言葉の美しさと快さに酔いしれるのみで、理念を裏付ける実体に迫る術を知らない。

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