Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

人間こそ歴史創出の主役 復旦大学記念講演

1994.6.9 「平和提言」「記念講演」「論文」(池田大作全集第1巻)

前後
1  私は数日前、北京大学において「平和への王道――私の一考察」と題して、講演を行ってまいりました。引き続き、この八十年近くの伝統ある復旦大学においても、このような機会を与えられましたことは、誠に光栄であり、名誉学長の蘇歩青先生、また学長の謝希徳先生はアメリカを訪問されているとうかがっておりますが、ご列席の諸先生方、学生の皆さまに、心から感謝申し上げるものであります。
 北京大学での講演では、中国文明の″尚文″の伝統が、戦争や武力の行使に走りがちな傾向を抑制する力を持つこと、そして、その抑制力をもたらす伝統的な思考様式について、私なりの考察を加えさせていただきました。そこで今回はテーマをしばり、私が最も注目しながら、北京大学ではほとんど触れることのできなかった歴史観の問題、すなわち、歴史というものが、人間の生き方にいかなる意味を持つのかという点にについて、若干申し上げたいと思います。
2  歴史は″鏡″であり″光源″
 さて、歴史に対する関心の深さという点では、中国は、世界に冠たる存在であります。同じ東洋でありながら、例えばインドなどの歴史への無関心とは、あまりに対照的であります。
 古来、中国の人々は執拗なまでの関心と努力を払って、歴史上の出来事を文物に書きとどめてきました。書物の多いことをさして「汗牛充棟かんぎゅうじゅうとう」――重さは牛が引いても汗をかくほどで、かさは棟につかえる――という言葉がありますが、中国の史書の類はまさに「汗牛充棟」そのものであります。
 また、中国にあっては「温故知新おんこちしん」――ふるきをたずねて新しきを知る、あるいは「借古説今しゃこせつこん」――いにしえを借りて今を説く、などの諺が、長年、尊重されてきました。
 それらは、歴史というものが、現在を映しだす鏡として、また、現代を照らしだす光源として受け止められてきた証左と考えられるのであります。
3  新中国における歴史観については、私は詳しく知りません。たしかに革命後の中国で、あらゆる分野で人民大衆が原点に据えられており、故毛沢東主席が話された「人民、ただ人民のみが世界の歴史を創造する原動力である」という歴史観のうえに立って、大衆に奉仕する″民衆史観″ともいうべき構造をとっているように思えてなりません。その点、堯帝ぎょうてい舜帝しゅんていの神話時代を最高の範とする、いわば″帝王史観″が主流をなしてきた、儒家流の伝統的な歴史観とは、明確なる一線を画していることと思われます。
 とともに、歴史意識の深層に、数千年間にわたって蓄えられてきた伝統は、良い意味でも悪い意味でも、そう簡単に変わるとは思われません。だからこそ、その深層を凝視した魯迅は、人間が人間を食う――″食人″という着想から、人間変革の困難さと重要性を訴えたのでありました。
 私の着眼からするならば、歴史を尊び、歴史的経験を鏡とも光源ともして、現在を生き未来を方向づけていくという、良い意味での伝統的な歴史意識は、数千年という長きにわたって、今なお脈々と息づいているように思えてならないのであります。
 貴国の文物や人々のスピーチには、しばしば古典からの的を射た引用がなされていて、いつも私は感心させられますが、それは、歴史がある種の教訓性をはらみつつ、現在に生きていることを物語っていると思えてならないのであります。

1
1