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日蓮大聖人・池田大作

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永遠の生命〈2〉  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
1  転生の秘密を解く
 川田 前章からずっと気がかりな点なのですが、私たちの生命は、死の状態のままで限りなくつづいていくのでしょうか。それとも、一年後とか、百年後とかに、ふたたび生を享けることができるのでしょうか。
 古代ギリシャの悲劇詩人ソフォクレス(前四九七年〜前四〇五年頃)は、「生まれないのが、どう考えても勝ちだ。しかし生まれてからは、もと来たところへ、できるだけ早く去るのが上の次だ。」(『田中美知太郎全集 第十四巻』筑摩書房)と述べています。この言葉に賛同する人もいないとはいえませんね。
 池田 極端なペシミズム(厭世主義)ですね。しかし、そういう考え方は、なにも、ソフォクレスにかぎらず、仏教でも小乗教には、生死の輪廻を絶って涅槃に入るという思想に認められる。しかし、「法華経」の教えによれば、生死の繰り返しは生命の本然の理であり、しかも死が苦の終わりとはいえない。
 これまで話しあってきたように、もし、生きているときよりも、死後のほうが数千万倍も大きな苦を受けるかもしれないとなったら、ソフォクレスの願いもまったく逆転したと思われる。そのときは″死ななかったのが一番いい″といっても無理な相談だから″たとえ死を迎えたにしても、できるだけ早く生へとよみがえりたい″と願うにちがいあるまい。
 北川 菩薩界や仏界を基調にしての死ならば、百年でも、それ以上でも耐えられそうです。でも、地獄界や三悪道の苦悩がつづくような死だとすれば、一刻も早く抜けだしたいですね。
 池田 それは、すべての人の、いつわらざる心情でしょう。ところが、残念なことに、仏法の見ぬいた実相からすると、地獄の責めからは、容易に逃れられないとあります。
 たとえば、日蓮大聖人の「顕謗法抄」などには、苦しみの極限において死を迎えた生命は、千劫とか、一中劫とか、無量無数劫にわたって阿鼻の炎にむせぶ、と明記されている。
 北川 一劫といえば、いろんな説がありますが、短いので約八百万年、一説には千六百万年ともいわれます。その千倍となると、気が遠くなりそうな長さですね。
 川田 一中劫だと、二十小劫ですから、このほうがまだマシですね。それにしてもたいへんな年限です。ところで、この地獄の長さというか、寿命は、文字どおり、時間的長さを示しているのではなく、地獄の苦悩の大きさ、深さを量的にあらわしている、と考えることはできないでしょうか。
 池田 死における地獄の生命が、苦悩の極限を、千劫とか一中劫にもわたって体験したと感じとるのです。生の生命にとっても、苦しみの時はきわめて長いものです。
 まして、死せる生命においては、その基底部となっている境涯のみに縛りつけられ、生きているときのように、一時的にでもまぎらすことはできませんから、苦悶の感覚もさらに増大するでしょう。
 北川 一時間を、百年ぐらいに感じるかもしれません。
 池田 時間について話しあったところで、私たちの生命の「我」が実感する時間を、生命的時間と名づけました。死の領域に入った人間の「我」は、生命的時間での長短のみを感じとるのです。それは、苦悩の大きさにも比例するでしょう。
 具体的に考えると、たとえば、ある人が、人生七十年の間、地獄の底をはいずりまわるような生涯を送ったとしてみよう。この人が生涯を閉じて、生から死へと移っていった場合、一生の間経験した苦しみの一億倍も、また、それ以上もの地獄の炎にむせぶこともあるでしょう。
 まあ、このあたりから「千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」などと説く経文の意味を察知してほしいものです。
2  北川 仏法の十界論からしますと、地獄界とか三悪道と対照的な境涯は、やはり菩薩界、仏界になると思われます。
 菩薩界とか仏界を基底部として確立して死におもむいた生命は、どのようになるのでしょうか。もし、それが春風に吹かれるような幸福な状態ならば、あまり早くさめてほしくないという気持ちになるだろうと思うのですが……。
 池田 仏界を基調とした生命は、生から死へとしりぞいて、宇宙生命自体に冥伏した瞬間、ふたたび死から生へとよみがえるのです。なぜなら、仏界や菩薩界の生命は、みずからの幸福のためではなく、人々を救う利他の使命感に満たされた生命です。したがって、顕在から冥伏、そして顕在化へと、仏の生命は、その激烈なまでの脈動を一瞬もとどめることはないのです。
 日蓮大聖人の「総勘文抄」には「上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて身を十方法界の国土に遍じ心を一切有情の身中に入れて内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること滞り有る可からず」とあります。
 これは仏界の悟りを得て九界を利益することを示した文だが、三世の生命論の観点から読むと「上上品の寂光の往生」とは、仏界をみずからの生命の内奥に確立した人の死をさします。これらの人々は、たとえ死が訪れても「須臾の間」に「九界生死」の世界に還ってくるというのです。
 川田 そうしますと、仏の生命にとって、死は瞬間であるといってよいでしょうか。
 池田 少なくとも、仏界を基調とした生命の「我」は、瞬時にして生へとよみがえったと実感するはずです。つまり、死の状態における生命的時間は、ほとんどゼロに近いといえましょう。しかも、そうした瞬間の死のなかに、永遠の時の刻みを会得し、永劫の至福を味わいつくすことができるのではないだろうか。
 北川 それで、安心しました。さて、次の質問に移りますが、地獄界の生命の「我」は、無量無数劫にもわたるような苦悶の状態がつづきます。ところが、仏の生命は、瞬時にして生へと還ってくる。このような差異が生じるのは、いかなる理由にもとづくのでしょうか。
 池田 少々むずかしい話題に入ってきたようだが、重要なところだから、もう少し論理を進めてみよう。
 さて、いまの質問に答えるには、そのまえに、生と死の関連性とか、死から生へとよみがえるプロセスを解明しておかなくてはならないようです。蘇生の秘密というか――生死の本質を覚知した人にとっては秘密ではないのだが――詳細な法則を話しあったあとで、この質問をもう一度取り上げることにしたい。
 そこで、まず、日蓮大聖人の「御義口伝」の文から思索の糸口を探りだしていこうと思う。生と死の明確な定義が、「御義口伝」に「如去の二字は生死の二法なり」とあり、そのあとの部分に「法界を一心に縮むるは如の義なり法界に開くは去の義なり」と記されています。「去」すなわち死については、もはや説明は不要でしょう。
 北川 一心を宇宙生命と合体させ、空の状態になるのが「去」であり死であるとの意味ですね。
 池田 ここにいう「一心」とは、私たちの生命自体ととっていいでしょう。人間生命を宇宙全体に「開く」のが死です。こんどは、逆に「法界を一心に縮むる」働きを生といい、「如」と称するのです。いいかえれば、宇宙のあらゆる法を、私たち自身の「一心」に凝集し、一個の生命体として顕れでるのが生であると表現できましょう。
 こうした生と死の関連性をよく理解してもらうために、若干の例をあげてみたい。これは、まえにも譬喩としてあげたものだが、私たちの住む空間には、さまざまな波長の電波が流れている。スタジオで撮影され、録音された画像とか音が電波として、この空間に流される。ちょうど、私たちの生命の死にたとえられる。
 川田 空の状態ですね。
 池田 電波そのものを、人間の五感でとらえることはできません。しかし、性能のよい受像機があれば、放送局で電波にのせたときの画像や音を再生することが可能です。同じように、私たちの生命も、一定の条件がととのえば死から生へと変転することが可能です。
 もう一つ、戸田先生の引かれた、まことに巧みな譬喩をあげてみよう。
 碁盤に向かって二人の人間が対局している。二人とも名人ならば、一日中思索しても、半局面しか打ちきれない場合も多いでしょう。しかも、生命力の消耗も激しいでしょうから、とても、徹夜というわけにはいくまい。そこで、明日にしようということになって、碁石をバラバラにして、もとのように箱におさめてしまう。
 次の日、二人の対局者が、また碁盤をかこんで、昨日打ち終わったところまで、昨日と同じように白黒の碁石を並べる。
 北川 双方とも、その道の達人ですから、ごまかしは通用しませんね。
 池田 名人の脳裏には、対局の模様が、くっきりと刻みつけられているであろう。たとえ、碁盤や碁石がなくても、頭の中には、白と黒の碁石の配列があぎやかに刻みつけられているはずです。ともかく、並べ終わると、そこから、昨日のつづきで対局が開始される。
 川田 碁石を崩したときが死で、碁盤の上に並んでいるときが生ですね。
 池田 この譬喩からも類推できるように、私たちの生命は、死においては宇宙生命へと「開いて」いっても、ふたたび、宇宙の物質を凝集し有情の生命体として顕在化してくる。しかも、その生まれでた生命体は、過去の生存とか、死の状態をとおして連続してきた生命そのものであり、個体に刻みつけられた傾向性にしたがって宇宙の物質を集めていくのです。
 たとえば、地獄界を基底部にして死に突入した生命が、ふたたび生を享受するとすれば、その生は、やはり地獄界をその基底部としたものとなろう。餓鬼界の生命ならば、死のあとの再生においても、貪欲の炎に身を焼かれる境涯をまぬかれることはできまい。畜生の境涯が支配的な生命体は、その畜生界の生命活動をするのに合致した色心を、みずからつくりだすと思われる。
3  北川 修羅の慢心をいだいて死におもむいた人の場合は、来世もまた自我意識の強い、諮曲の生命につき動かされるでしょうね。
 池田 人界とか天界だと、理性や良心といった人間的自我に磨きがかけられ、平静な来世を約束されているようなものです。また、二乗界を基調とした生命は、それなりに得た不動の境地に立ち、菩薩界を基底部とした死の生命は、利他の心を深めながら、生へと顕現する時をつくりだしているにちがいあるまい。仏の生命には、生死とともに、慈愛とか英知とか勇気がみなぎり、「抜苦与楽」の行動をとどめることはない。
 ゆえに、瞬時にしてよみがえった仏の生命には、温かい血潮が脈打ち、正義感に燃えた色心がそなわり、あらゆる生命的存在を救うべき智慧の輝きが、生まれながらにして組み込まれていると考えられる。
 北川 外面的なことからいいますと、たとえば、今世において本能の充足のみを追い求めて、強者にヘつらい弱者をいためつける行動に終始した、いわゆる畜生界を基調とした人間の生命が、ふたたび生まれでる場合には、野獣とか蟻などになることもありうるのでしょうか。
 池田 いま、人間という身体を構成しているからといって、次の世にも人間として生まれてくるかといえば、かならずしもそうではない。畜生界が支配的である生命体は、その境涯をあらわすのにもっとも適切な姿をとるであろう。私たちが、現在、地球上でよく知っている生命形態からすれば、畜生界はやはり、本能に動かされて生を営んでいる各種の動物などに結びつきやすいのではなかろうか。
 だが、この大宇宙には、私たちの知らないさまざまな生き物の姿があるはずです。そのなかには、姿、形こそ変われ、動物的な生を営むものもいるでしょう。そうした、宇宙の涯の生き物に、ぴったりの境涯を築きあげて死に向かいつつある人間生命も絶無だとはいえないでしょう。
 川田 人間は万物の霊長だ、などといって安心はできませんね。そのおごりたかぶった慢心が、修羅の未来を招きよせるかもしれませんね。
 池田 私たちの、いまの知識からすれば、人間生命に具備した知性の光や、愛の心情や、慈悲のエネルギーは、来世もまた、人間的生を呼びおこす可能性を大いにはらんでいることはたしかでしょう。
 北川 宇宙のどこかに、私たちと同じような知的生物がいると仮定すれば、そこに転生するかもしれませんね。
 池田 ともかく、一つの生命体が現在の生においてつちかっていった境涯は、来世にもつらぬかれるでしよう。
 ある人の生命が、死をはさんで、どう持続しているか――つまり、ある人の過去世はだれか、などということは、肉体面の特質からは知りえないことです。だが、生命自体の本質に鋭い洞察の眼を向けるならば、生死を繰り返しつつ流転する個の生命の連続を、あぎやかに見てとれるのではなかろうか。

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