Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

永遠の生命〈1〉  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
1  「有情」から「非情」ヘ
 川田 いまも記憶に新しいことですが、一九六七年(昭和四十二年)の暮れも押しつまったころ、南アフリカの病院で、世界最初の心臓移植手術が行われました。執刀者は、クリスチャン・バーナード博士(南アフリカ共和国の心臓外科医)です。
 角膜とか、血管とか、腎臓などの移植はそれまでにも数多くなされていたわけですが、心臓移植には、他の移植手術とは違った意味での課題が含まれており、そのため、この手術は非常に大きな関心を集めたのです。
 池田 心臓移植ともなれば、人間の生と死という根本的な問題がからんでくるということだね。
 川田 ええ。腎臓の場合ですと、私たちの身体には二個ありますから、一個を取り出しても、それで、生を断たれるわけではありません。
 ところが、心臓の移植は、一人の人間の死を前提にして初めて成立します。心臓を提供したほうの人は、ふたたび、生を営むわけにはいかないからです。そのかわり、新しい心臓を受けいれた生命体は、途絶えかけていた生の鼓動をよみがえらせることができます。ここに、心臓移植のねらいがあるのですが……。
 池田 死んで間もない人の心臓によって、心臓を病んでいる人を死から救おうという医学者たちの目標とするところはよく理解できます。
 しかし、注意しなければならないのは、もし仮に、その死の判定が誤っていて、死を迎える以前の生命体から心臓を取り出すことが起きたとしたら、これは大変なことだ。しかも、この死の判定ということは、じつはきわめてむずかしい。
 北川 合法的な殺人行為にもなりかねません。
 池田 そのとおりです。一方で提供者の死の判定を誤り、そのうえ手術が失敗に終わったという最悪のケースを想定すると、その手術は、提供者と受容者の、二つの死を招いたということになってしまう。移植される心臓が、まだ十分に機能を果たせる新鮮なものであることが要求される心臓移植は、まず第一に、人間の死とはいったい、どこで判定されるベきかという問題をあらためて提起しているわけです。
 そこで、まず、医学では死をどのようにとらえているのだろうか。
2  川田 私自身、医学を学んでいますが、じつは、そこのところが、私も疑問なのです。医者が死を知らないというと、不思議に思う人もいるでしょうが、どの医学書をひもといてみても、死を定義した個所はないのです。それどころが、どういう現象が起きれば死と考えるか、ということすら明確ではありません。ただ習慣的に心臓の停止、呼吸の停止、それから瞳孔反射が消失すること、これらが死の判定のための条件とされているだけです。
 したがって、一般の医者は、聴診器で心臓の鼓動を聞き、脈博をはかり、そして、懐中電灯を点灯させて瞳孔反射を調べます。すべてが消失していると、死の宣告をします。
 北川 バーナード博士は、脳波をとって、その消失をもって死と考えたのですね。いわゆる心臓死説に対して脳死説と呼ばれています。
 川田 皮肉な見方をしますと、心臓が止まってしまったのでは、心臓移植は不可能です。できるだけ新鮮な心臓を得なければならない。そこで人間が死んで、なお、心臓が動いている状態となりますと、脳死説をとらざるをえないのです。
 池田 大脳皮質の脳波がいったん消えたとしても、ふたたび正常な生命活動にもどるというケースもありうるでしょうね。
 川田 脳の専門家が、脳死説に反対するのは、ほとんどの人たちが、脳波がフラットになって以後、立派に生きかえった実例を体験しているからです。一つだけ実例をあげますと、東京・虎ノ門病院でのデータがあります。脳波がフラットになった患者、十五人のうち、そのまま死亡したのは十人で、あとの五人は、脳波がふたたび復活したというのです。そのなかの二人は、いまも元気で働いているとのことです。
 池田 たとえ百人に一人でも、蘇生した実例があったとすれば、その復活の可能性の道を閉ざすべきではない。私は、そう考えるのが正しいと思う。まして十五人中五人、三分の一という虎ノ門病院でのデータを考えるなら、脳波が消失した時点をもって、人間の死と定めるのは、あまりにも早計すぎるといわざるをえません。私には、現在の段階における″脳死説″は、もっと厳密な基準が示されないかぎり、人間の死についての十分な理解にもとづいているとは、とうてい考えられないね。
3  北川 ところで、いま話しあってきたことは大脳という部分的細胞の死のことですが、ひろく身体全体をみた場合、個々の細胞は絶えず生死を繰り返しているわけです。そうした個々の細胞の生死と、私たち自身の生死とは明らかに異なっていますね。
 池田 皮膚の細胞などは、毎日入れかわっているでしよう。
 川田 それから、胃腸とか呼吸器の粘膜細胞も激しい新陳代謝を行っています。肉体の全部をとりますと、毎日、何千万という細胞が死に、新しいものが生まれている計算になるそうです。もし、六十兆にもおよぶ全身細胞とともに、人間生命が生死を繰り返すとすれば、忙しくて目がまわりそうです。
 池田 根本的にいうと、私たちの身体を形づくっている個々の細胞が生死を繰り返すからこそ、人間生命は生をたもちうるのです。莫大な数の細胞の死が、私たちの生を支えているとも表現できましょう。
 北川 極端な場合には、胃潰瘍とか、癌などは、外科的に除くことによって、かえって、全体の生命を守る……。
 川田 手足でも、肉腫などの悪性のものができますと、その付け根から切り落としてしまう場合があります。残忍なようですが、そうしなければ、私たちの生をたもつことができないからです。
 池田 あくまで、人間生命の生と死は、生命全体の問題であって、個々の部分の生死とは別のものである。――この点をまずはっきり認識しなければならない。
 したがって、私たちが「生きている」とは、身体を形づくっている細胞とか臓器などの生死を包含しながら、それらの営みを統合し、秩序だてて、全体としての生を創造している事実をさしていると考えられる。いいかえれば、身体を統一する生命自体の働きが、活力に満ちて全身におよんでいる姿こそ、生きていることの証なのです。
 北川 そうした統一体としての生命体は、その生を維持するため、外界にも積極的に働きかけていきますね。
 池田 生命のもつ能動性です。この統一性と能動性は、紙の表と裏のような関係にあり、統一のとれた生命的存在ほど、能動的な営みを持続することができます。
 北川 とくに人間の生命は、精神作用も活発ですね。喜怒哀楽の感情を織りなし、種々の欲望とか衝動のエネルギーが渦巻いています。さらにそのうえに知性とか理性が発達をとげ、知識や思想を受けいれたり、外界の様相を認識したり、また、自己の生き方を反省したりします。
 睡眠時は、覚めている状態とは違いますが、それでも、夢を見たり、寝ごとをいったり、新しい発想がはっと浮かび上がることもあります。意識の部分は眠っていても、その底にある無意識の心が、かえって生き生きと働いている場合があります。
 池田 人間の生命における「生」の証は、色心両面にわたるものです。しかも、身体と心は、相互に精妙な関連をたもちながら、内的な統一性と外界への能動性を高め、創造的な調和をかもしだしている。こうした「生」の現象を、仏法に説く「三身論」に照らしてみると、細胞を形成し、その生死や物質の新陳代謝を織りこみつつ、全体としての身体を統合し構成していく、その働きをさして、「応身」と呼ぶことができるでしょう。

1
1