Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

人類誕生の条件  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
1  進化論について
 北川 ところで、原始地球に原始の生命が発生してから、人類の誕生まで三十数億年の開きがあります。この原始の生命と人類誕生とを結ぶものは何か。三十数億年の間に、いったいどのようなドラマが演じられたのか。
 いま、地球上には、百万種の動物と、二十五万種の植物があるといわれています。ひとくちに生命といっても、その発現形態はじつに多種多様であるわけです。しかし、私たちがもっとも知りたい″生命″――また、解明しなければならない″生命″とは、人間の生命にほかなりません。
 無生の原始地球に初めてあらわれた原始の生命と、この人間の生命とは、どのようにつながっているのか――この点について加えられた説明が進化論です。そこで、この生物進化の過程をたどる方向として二つの道が考えられます。
 一つは、原始生命から時間の流れに沿ってたどっていく方向ですが、これは、最後には、先にあげましたように百万種の動物と二十五万種の植物の誕生の経過を論じなければならなくなる(笑い)。もちろん、すべて解明できたとしてですが……。これでは、あまりにも複雑ですし、焦点がぼけてしまいます。
 そこで、私たちの論議のまとは、人間生命にあるのですから、逆に、第二の方向、つまり人類の起源と、その出現の条件といった点に中心をおいて、それにからまる進化論的課題を取り上げてみたい――このように思います。
 池田 賢明な進め方でしょうね。
 川田 アメリカの遺伝学者ドブジャンスキー(一九〇〇年〜七五年)が、こういうことをいっています。――進化論には、三つの段階がある。一つは、宇宙進化であり、これは、原始的な生命が出現するまでの段階である、と。
 池田 それについては、もう終わりましたね。
 川田 その次が、原始生命が進化を遂げていって、霊長類などが姿を見せるまでの期間です。これを彼は生物進化の段階といっています。
 北川 一般に進化論といいますと、ほぼ生物進化をさしているようです。
 ダーウイン(イギリスの博物学者。一八〇九年〜八二年)の『種の起原』穴杉竜一訳、岩波文庫)でも、人類の起源については、ただ、最後に意味深長な言葉がそえられているだけです。「人類の起原と歴史にたいして、光が投じられるであろう」――この言葉で閉じられています。ですから、『種の起原』という進化論の原典ともいうべき書物のなかで、延々と述べられているのも、生物進化です。
 池田 そうですね。ところが、現在の学者たちが、もっとも頭脳を痛めているのは、一つは、先ほどの原始生命の発生であり、もう一つは、人類の誕生であるわけです。
2  川田 それで、ドブジャンスキーの分類でおもしろいのは、生物進化に対して、人間生命出現以後を、人類進化と称している点です。ともあれ、生物の進化もさることながら、人類誕生の場面は、尽きせぬ謎を秘めているといえますね。
 北川 ところで、進化論の原典ともいえる、ダーウインの『種の起原』にまつわる話ですが、一八五九年の暮れに出版されるや、すさまじいまでの嵐を呼びおこしたそうです。
 池田 むろん、批判の嵐でしょうね。それまでのキリスト教の教義の一つであった、人間は天地創造の最後の日つまり第六日目に、神によって造られたという説に、真っ向から反逆したものだったのですから。
 『旧約聖書』の「創世記」には「神はまた言われた、『水は生き物の群れでみち』」「『地は生き物を種類にしたがっていだせ』」「『われわれのかたちに、われわれにかたどった人をつくり……』」とあります。ヨーロッパの人々は、この「創世記」にある現象が、突如として起こったのは、紀元前四〇〇四年だと信じていたという。
 北川 紀元前四千年と、現代科学が示す三十億年とは、ずいぶん違いますね。
 池田 しかも、十七世紀の中ごろには、一人の大主教が、念のために、『旧約聖書』を読み直して、たしかにこのとおりだと確かめ、不動の確信をいだきなおしたという。(笑い)
 川田 このダーウィンの革命的な学説に賛意をあらわした人は、ごくわずかでしたが、そのなかに、みずから、ダーウインの擁護者を任じた人物に同じイギリスのトーマス・ハクスレー(生物学者。一八二五年〜九五年)がいます。
 彼は、「ロンドン・タイムズ」から『種の起原』の書評を頼まれまして、この書物を一読して感激のあまり、次のように叫んだと伝えられています。「こんなことがいままでわからなかったとは、おれもなんという間ぬけだったろう」(今西錦司『私の進化論』思索社)と――。
 そのハクスレーが、一八六〇年の六月、歴史に残る大論戦を展開しています。並みいる当時の科学者たちの主張を打ち破ったところで、オックスフォードの主教であるウィルバーフォース(英国国教会。一八〇五年〜七三年)が登壇し、ハクスレーに向かって冷ややかに質問します。
 「きみは自分がサルの子孫だといっているそうだが、それはきみのおじいさんの血統なのか、それともおばあさんの血統なのか」(同前)と嘲笑したのです。
 ハクスレーは厳然として答えました。「もし、私の祖先に哀れなサルか、それとも、りっぱな素質と、大きな影響力とをもちながら、そういう恵みを、科学的討論を茶化したり、真理のまじめな追求者を辱じめたりすることに用いるような人間か、そのどちらかを選ばねばならないのならば、私はもちろんサルのほうをとるでしょう」(同前)と。
3  池田 急所をえぐったとどめの一撃だね。
 川田 しかし、どうやら、ウィルバーフォースも含めて、当時の人々には、ダーウインの主張の真意がよくのみこめていなかった面もあるようです。ダーウインが、人間の祖先は、サルの始祖と共通の生物から進化してきたと主張していると聞いて、その意味を取り違えて、人類の先祖は、ゴリラやチンパンジーであると早合点したのでしょう。
 現在、地球上に生息している、オランウータンとか、テナガザルとか、チンパンジーなどは、人類とは種を異にする動物であって、とうぜん人間の祖先であるはずもないからです。
 北川 チンパンジーが突然変異を起こして、人間生命に近づいてきたなどといった話は、耳にしたこともありません。(笑い)
 池田 ところで、人類と類人猿との共通の祖先というのは、考古学者や人類学者の説によれば、ドリオピテクスと呼ばれているようだね。
 北川 ええ、時代的にいうと、四千万年前から千二百万年ぐらい前まで約三千万年間にわたって生存していたといわれます。
 池田 私たちの祖先は、その時代に、類人猿へとつながる道と訣別し、人類独自の進化を開始したと考えられる。
 もし、この分岐、訣別がなければ、人類への開拓の道は閉ざされたままであり、ホモ・サピエンスとしての現世人類の誕生もなかったであろう。しかし、この分岐、訣別といっても、人間生命と他の生物とが、断絶した存在であり、人間だけが、特別な存在であるという意味ではない。
 人間生命にも本能とか原始的な衝動が渦巻いている。こんどは逆に、人間以外の他の生物にも親子の情愛がそなわっているし、ある種の動物においては、私たちのかわす言葉のもっとも初歩的なものを見いだすことも可能であるという。つまり、人間のなかに動物があり、動物のなかに人間があるともいいうるのです。
 動物と人間生命は明らかに連続している。ゆえに、仏法の輪廻説では、人間といえども、牛とか馬に生まれかわることもありうると説くのです。にもかかわらず、人間生命は動物から種々の特質を受けつぎながら、一面では、人間生命と他の生物との相違点を明確にあらわしています。人間と他の動物との差別を示すものは何か――そこに着目したときに、人類の誕生がいつ、どのようになされたかを論ずることができるのです。
 川田 それにしても類人猿と訣別した、その分岐点が何ゆえに起きたかは、進化論上最大のテーマです。

1
1