Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

宇宙と生命  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
1  宇宙に生命は存在するか
 池田 私たちのこの対話も、永遠に繰り返される生死の輪廻、「本有の生死」という問題にまで立ちいたったわけだが、そうなると、とうぜんこれは、たんに地球という一個の天体の範囲では論究しつくせなくなってくる。
 地球はまだ数十億年の歴史しかもたない星だし、未来も永遠に存在することはありえない。爆発する太陽によって呑みつくされるか、内部から崩壊するか、あるいはまったく他の要因によるかは予測できないけれども、時間的に有限の存在であることは明らかだ。したがって、この地球上での生存にかぎった論究では、いくら生命は永遠につづいていくといっても本当の永遠論にはならない。
 そこで本章では少し話題を広げて、この広い宇宙空間に生命をもった存在がどれほどの範囲で認められるか、また実在は確認できないにしても、その可能性がどの程度あるのか、さらに、地球上において生命が発生したのはどういう推移によるのか――こういったことを考察しておこうと思う。そうでなければ「永遠の生命」といっても、裏づけも何もない抽象論になってしまうからです。
 北川 この広大な宇宙空間に、地球のほかにも生命が存在するのか、それとも地球だけにしかないのか。このことは古くから論争の焦点になってきました。
 自然科学の発達、とくに天文学の進歩によって、地球や、それが属している太陽系、太陽系の属する銀河系宇宙が、大宇宙のどこにでもあるようなふつうの天体であることがわかって、他の天体にも生物が存在しうるという議論がさかんに出てきました。
 生命を構成する有機物質――これは従来、無機物質からは生成されないと考えられていたのですが、それも実験室内でかんたんなものならつくりだせるようになった。そうなると、生命の誕生ということも、宇宙のどこででも起こりうるのではないかと考えられるわけです。
 一方、やはり、生命はそんなに広範囲には存在しない、じつは地球にしか存在しないのではないか、という考えも、有力に残っています。このことは後に論点となってきますが、ひとまず、他の天体に生物が存在する可能性があるのかどうか、またあるとすれば、どのような生物と考えられるか――この問題に入ってみたいと思います。
 川田 そのことで、非常に重要な報告が最近なされました。それは、化学者であるアメリカのポナンペルマ博士らが発表したものですが、核酸の構成要素の一つであるピリミジン類を隕石の中から発見したというのです。この核酸というのは遺伝をつかさどる働きをもっていて、生命を形づくる重要な部分品といってよいものです。もちろん隕石の中から発見したといっても、隕石が地球に落ちてから入りこんだものだとすれば意味がない。
 ところが発見されたピリミジン類は実験室内ではつくりにくいうえ、地球上の生物がもっている種類のピリミジン類に、これと同じものはまったく発見されなかったところから、これは地球以外のどこかに存在したことが、ほぼ決定的になったわけです。
 ところで、生命をつくりだす要素として、核酸ともう一つ、蛋白質があります。この二つがそろえば生命の発生する素地はできたといってもよいのですが、この蛋白質の主構成要素であるアミノ酸がまた、隕石の中からポナンペルマ博士らによって発見されています。四年前のことです。
 しかもこのアミノ酸も、光学的性質からいって、地球上の生物にはほとんどない種類のものであることから、これも隕石にもともとくっついていたものであると結論しています。核酸と蛋白質の原材料がそろったことによって、これで少なくとも生命を生みだす素地は、地球以外の天体にも現実にあるということがいえるわけです。
 池田 興味深い報告だね。もちろん、それをもってかんたんに生命が宇宙のどこにでもあると結論するのは早すぎる。
 たしかに、地球に飛び込んできた隕石の中から発見されたということは、かなり広範囲に生命の原材料のようなものがそろっていると考えることはできるでしょう。地球に飛び込んでくる隕石は、宇宙空間に存在する、そうした物体の数に比しても、きわめてかぎられているし、その中にさえすでに核酸やアミノ酸が発見されるのだから――と考えれば、そう解釈できる。
 しかし、それが太陽系にかぎったことなのか、それとも太陽系以外の世界にも見られるのかという問題もある。太陽系のなかではなにかの拍子で核酸やアミノ酸ができ、そのうち地球では都合よく生命体にまで育った。他の惑星などでは条件が悪くて地球のようにはいかなかった。その残骸が隕石で見られるものだ、と考えられないこともない。
 もしそうだとしたら、太陽系外ではやはり生命が合成されるのは困難であろうという推測も一概に否定できない。ただ、ポナンペルマ博士らが発見したものを根拠にしたかぎりでは、生命のもととなるような物質が生みだされたのは太陽系のみにおいてであると考える根拠は薄弱になってくる。
 私は、生命の素といえるようなものは、太陽系にかぎらず、もっと広範囲に存在すると推測するほうが適切なように思う。それから二番目に気をつけなければならないことは、核酸やアミノ酸が存在していても、それが生命存在にまで結晶するような条件の星が、どれほど存在するかということだね。
2  川田 その点を確かめることは、非常にむずかしいですね。ただ、どんな条件の星がいいかはあげることができます。
 まず、星といっても地球から観測されるような恒星は、太陽と同じ超高温の世界ですから、生命は生きられません。したがって惑星にかぎられます。しかもその惑星はいろんな点で安定した状態になければいけないわけです。軌道が不安定であれば温度も一定しないし、生命活動には適していません。
 そうしたところから、二重星や多重星の恒星のもとでは安定した惑星をもてないといえます。太陽系のように単一の恒星であることが必要です。しかもその惑星自体も、大気や水は生命体のために欠かせない条件ですから、それを逃さないためには、ある程度の大きさがなければなりません。生命発生のための条件はかなり厳しいといえます。
 北川 そのまえに、どれくらいの恒星が惑星をもっているかということですが、惑星はみずからの力では光りませんから、それ自体を観測することはできません。しかし、恒星の動きをきわめて精密に測定することによって、その星の周りをまわる隠れた星が推測できるわけです。
 もちろん、もっとも近い恒星でさえ五、六光年も離れているのですから、現在の観測技術で、恒星の微妙な動きをもれなく測定するのはむずかしいことです。したがって、ごく一部分しか明らかにされていませんが、たとえばバーナード星という星では、太陽系の木星ぐらいの惑星が存在するのではないかといわれていますし、他の恒星でも惑星をもっているのではないかと推測されているものがあります。
 また、数多くの恒星のなかで単一の恒星というのは決して珍しい存在ではなく、むしろこちらのほうがふつうであることが明らかにされていますし、単一の恒星でしかも惑星をもつものは、きわめて広い範囲で存在しうると考えられます。
 しかし、あとの条件というのは、もうほとんど観測不可能ですから、たくさんの星のなかでは、そうした条件の星も多く含まれているにちがいないと推測するしかありません。
 池田 したがって、数の算出の仕方も学者によってずいぶん違うね。たとえば、百万個の恒星に一個は、そうした条件をそなえた惑星をもつだろうと想像する学者もいる。そうすると、銀河系のなかだけでも約十万個になるわけだ。また学者によっては十億の星のうち一個の割合だろうとする学者もいる。そうすると銀河系のなかには約百個の生命の存在する星があることになる。
 なかにはこれらよりもっと多めに見積もる学者もいるし、逆に、そのような星はほとんどないと考える人もいる。条件が抽象的で、それを算定する基礎資料が不足しているのだから、決めようとすること自体、無理なのかもしれない。ただ、原理的には太陽系や地球は、決して特殊な星ではなく、広い宇宙にそれに似た星が少なからず存在しうると考えていいだろうね。
 ところで、混同してはならないことがもう一つある。というのは、条件が整うということと、生命が発生するということは、また別だということです。条件が整っていても、生命が発生するまでに、相当の時間がかかるという点も考えなければならない。
3  北川 これは確率という問題と関連してきます。たとえばサイコロの目は六つある。そのうち「1」が出る確率は六分の一です。だからといって、六回に一回はいつも正確に出るというのではなく、平均の問題にすぎません。まして何回目に出るかということは絶対にわからないわけです。一回目に出るかもしれないし、六回日、あるいは二十回目ぐらいにようやく出ることさえあります。
 ところで生命誕生の条件をサイコロの目になぞらえていうと、サイコロの目はいくつあるかということは、現在決定されていないわけです。ところが現実には「1」が出た。つまり生命が発生した。サイコロの目が少ないとわかっていれば、何回に一回かは「1」が出ることはわかりますから、なるほどと理解できる。しかし、ひょっとしたら何百億、何千億の目があるサイコロで――もちろん、そんなサイコロはないでしょうけれども(笑い)、そのサイコロから「1」が出たのかもしれない。そうすると「1」が出たということはきわめてまれなことであるわけです。
 川田 生命の発生に要する平均時間が、その星の誕生からたとえば十数億年とすると、地球においてはきわめて平均的な確率で生命が発生したといえるし、数億年ぐらいだとすると、地球においてはむしろ遅めに生命が発生したのだということになります。
 しかし、平均所要時間が数十億年だとすると、きわめてまれな確率の早さで出現したということになるわけですね。ちょうど、エイッと振ったサイコロが、一回で「1」と出たようなものです。(笑い)
 池田 とすると、そうした計算も、生命発生の条件と、現実の生命発生との関連を調べるためには重要な作業となるわけだ。それはともかく、こうしたさまざまな条件を慎重に考えていかなければ結論をくだすことはできない問題だが、宇宙空間のなかに、地球のように生命発生にはきわめて好都合な条件をそなえた惑星がおそらく何億とあるだろうということは、今日の天文学者の、かなり共通した見解となっている。
 これに関連する考え方として、仏法では、三世十方の仏土観を説いている。すなわち、時間的にも過去久遠から未来永劫にわたって、そして空間的にも十方、すなわち三次元的方向のあらゆる広がりのなかで、仏、衆生、国土が存在するという着想をもっている。
 日蓮大聖人の御書のなかでも「大夫志殿御返事」には「三千大千世界と申すは東西南北・一須弥山・六欲梵天を一四天下となづく、百億の須弥山・四州等を小千と云う、小千の千を中千と云う、中千の千を大千と申す」とある。この三千大千世界の考え方はすでに話しあったが、この壮大な宇宙観にせよ、三世十方の仏土観にせよ、現在われわれがいる世界だけが唯一の世界ではない、あらゆるところ、あらゆる時代に、人々の住む世界はあるし、またあったのだと説いている。
 しかも、その国土にそれぞれ仏がいて、その国土に住む衆生の苦しみを救い、生命の真実の尊さを教えていく法を厳然と説いていくことを教えている。仏法は決して閉鎖的なものではなく、世界に広がり、さらにいえば、全宇宙的広がりをもった教えであることを示しているともいえる。
 この仏法の思想からすれば、宇宙のあらゆるところに生命発生の契機が存在し、また生命が発生している星が数多くあるといっても、決して不思議ではないのです。

1
1