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日蓮大聖人・池田大作

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生と死〈2〉  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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1  不生不滅の法則
 川田 昭和四十六年(一九七一年)の夏、『人間は死んだらどうなるか』(共立出版)という本が出て、識者の間に反響を巻き起こしました。これは大阪大学名誉教授の岡部金次郎博士が長年の蘊蓄をかたむけ、心血をそそいで書きつづけたエッセー集で、いまもかなり広く読まれています。
 池田 どちらかといえば、学者らしくない明快な表題ですね(笑い)。人々が関心をいだかずにはいられないような単刀直入さがあるね。
 川田 「朝日新聞」(一九七一年九月二十一日付)の夕刊の一面に「今日の問題」というコラムがあります。そこでも、近年めずらしい、ユニークな書として紹介されていました。じつは私も、コラムの内容に啓発されて読んだ一人です。
 池田 うん。私も読んだが、すがすがしい文章で、しかも、いたるところに、ダイヤモンドの光沢にも比すべき独創豊かな発想がちりばめられていたのを、鮮明に心にとどめている。
 北川 昭和四十八年六月号の『大白蓮華』にも岡部博士の「人間にとっての生と死」という論文が載せられていましたね。この論文も、興味深く読んだのですが、その後半の部分に、仏教に説く「三世の生命」にふれたところがあります。驚いたことに――考えようによっては、あたりまえのことかもしれませんが――博士の生死観と仏教の所説には、非常に多くの共通点があるのです。
 池田 岡部博士は、科学者だから、とうぜん、思索の出発点には、現代科学の考え方をふまえておられる。
 たしか博士は、論文のなかで、推理科学という言葉を使われていたが、物理学の精髄から出発した、生死についての推理の歩みが、仏教とほとんど一致するまでに合流するにいたったのでしょうね。
 北川 非常に重要ないくつかの点で、博士の推理と仏法の哲理が、きわめて共通していると思われます。生と死に直接関連する問題では、まず、死によって生命は決して滅びないという主張があげられています。
 池田 生命が死を超えて存続するということは、ほとんどすべての宗教に共通する主張です。この同じ信念が、本来なら否定的と思われる物理学者の思索の結論となっているというところに、新鮮な意味を感ぜずにはいられない。
 北川 博士は、主張の根拠として、エネルギーの不生不滅の法則――これは物理学をはじめとする現代科学の、もっとも基本的な原理の一つですが――を提示しています。つまり、物理の世界では、電気のエネルギーが熱に変わったり、位置のエネルギーが運動エネルギーに交換したりすることは、つねにみられます。
 でも、無から突如としてエネルギーが生じることもありませんし、いま存在するエネルギーが忽然と消えることもありません。ただ、姿を変えるにすぎないわけです。これが、エネルギーの不生不滅の法則ですね。
2  川田 これは、いってみれば、″鉄則″でしょう。もし、この鉄則が破れると、おもしろい事件が起きることになります。たとえば、電熱器やテレビや電気洗濯機などを、どれだけ使用しても、電気代はいつもゼロということもありえます。なにもないところから電気のエネルギーが無尽蔵に発生するのですから、電力会社も料金の取り立てに困りはてるにちがいありません。(笑い)
 こういう珍事が起きてくれると、私たちもずいぶん助かるのですが、そういうことは絶対に起こりえない。
 そのかわり、魚の片面が焼けたところで電気やガスのエネルギーがストライキを起こして突然消え去ってしまうこともない。もちろん、そんなことが起こったら文句をいっていく相手がありません。なにしろ相手にすべきものは、電力会社もガス会社もままならぬ″無″なのですから。
 池田 ともかく、物質の世界において、無から有、有から無への転換がありえないのは、大宇宙に実在する厳然たる法則の一つとして、現代科学が立証ずみの真理だね。
 北川 物理的なエネルギーは、不生不滅です。とすれば、この法則が私たちの生命にもあてはまらないであろうか、と岡部博士は推理するのです。生命といえども一個の存在物である以上、これにも宇宙の法則の一つである不生不滅という原理を適用してみることは、無理がないどころか、むしろとうぜんのように思われるのです。
 池田 きわめて常識的で、しかも妥当な推理のはこび方だと思う。生命的存在も、それをエネルギーの脈動としてとらえれば、無生の物質に物理的エネルギーがみなぎるように、生命ある実在には生命エネルギーの″血潮″が流れていよう。
 そして、私たちの生命体が色心兼備の当体である以上、生命エネルギーを構成するのは、身体的エネルギーと心的エネルギーの二者であると考えられる。こうしたエネルギーの脈動にも不生不滅の鉄則が適用されるのではないか、というわけだね。
 北川 ここまでですと、私たちでも、少し思索すれば行き着けるのではないかという気がしないでもないのですが、その後の展開が非常に興味深いですね。博士は、魂の核という言葉を使っているのですが、これは、前章の「生と死〈1〉」とのところでも話題にのぼった田中美知太郎氏の″たましい″と同じような概念と考えられます。
 さて、博士によれば、私たちの生は魂の核が活性状態にあるときであり、死とはそれが非活性状態になったときであるにすぎないというのです。
 活性状態という言葉は、物理用語からの転用でしょうが、具体的な生命の働き――つまり、手や足を動かしたり、頭を働かせたり、おいしいものを食べたり、恋をしたりといった、生きていることの証のような活動ですが――それらを発現している状態をさします。
 こんどは、死とともに、こうした働きが潜伏してしまう。潜伏するだけですから、決してなくなったのではないわけです。表面から見ると無に帰したように思われても、生を営む能力はちゃんとそなわっている。この状態を非活性状態と名づけ、それが死であるというのです。
3  池田 私たちのいままで使ってきた表現だと、活性状態というのは、生命活動の顕現であり、顕在化である。そして、すべての生の働きの冥伏した状態は非活性ということになるだろう。さて、一度は潜伏した生命活動も、非活性状態になるだけで、なくなるのではないとすると、ふたたび、活性状態にもどると考えられそうだね。
 北川 ええ。魂の核が、条件に応じて活性状態になったり非活性状態になったりして、際限なく繰り返すというのです。
 池田 ここまでくると、仏法に明かされる生死輪廻の法に近いようです。博士が三世の生命に着目されるのも、深い思索のとうぜんの結果であるといえるのではなかろうか。
 生と死が連続することの一つの科学的な推理による仮説が出たところで、きわめてわかりやすい例を考えてみよう。
 これは譬喩的にとってもらいたいのだが、私たちはいま、窓の外をぬらす雨が地上に落ちて大地に吸いこまれ、あるいは地下水となり、あるいはせせらぎをつくって川に流れ込み、やがては海へとそそがれていくプロセスを、自分の目で確かめることができる。途中で見失うことがあるかもしれないが、ともかく、雨としての水も、小川の水も、すべて同じ液体であり、流れゆく姿を見ることができる。ところが、その水が蒸発して水蒸気になると、液体としての姿は失われる。
 現代の人々は、科学の知識があるから、気化して姿を変えても、水の本性に変わりはないことを理解している。だから海とか大地から蒸発して天空に雲となって浮かんでも、それは水の変化相の一つだと知っている。その雲が雨となりふたたび大地に帰ってくる。水の場合、液体としての水も、気化した水蒸気も、ともにその本性は化学式でいえばH2Oであり、二つの変化相であることを理解しえて初めて、空と海と大地を結ぶ、壮大な循環を納得することができるのです。
 この例からいって、液体としての水の姿を生の姿、水蒸気の相を死の相としてみよう。どちらもH2Oです。気化したからといって、H2Oが分離してHが二つとOとになってしまうようなことはほとんどない。水蒸気もH2Oです。それでありながら、液体と気体の区別はある。私たちの生命も、その本性をたもったままで、生と死の二つの相を示すのです。しかも、水の循環のように、生と死を繰り返しつづけるのだというふうに考えられないだろうか。
 川田 私たちにわかりやすい、それでありながら、生死の本質をあらわにした譬喩ですね。
 池田 ところで、岡部氏の思考にもどるが、博士は、その物理学の学識に、独創的な推理を加えて、過去、現在、未来にわたって有為転変をなしゆく生命の姿にまで、考察を加えている。
 一方、いまを去ること二千数百年、釈尊は、宇宙と生命を律するすべての法、あらゆる生命存在の生と死の実相を、推理ではなく宗教的な直観智で、ストレートに照らしだしたのです。その仏の英知が浮かび上がらせた生死流転の姿とは、いったいどのようなものであったか――この点に話題を進めていくことにしてはどうだろうか。

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