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日蓮大聖人・池田大作

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生と死〈1〉  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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1  さまざまな死生観――ある対話を終えて
 北川 英国の世界的な歴史学者であり哲学者でもあるアーノルド・J・トインビー博士(一八八九年〜一九七五年)と池田先生との対談は、昨年(一九七二年)と今年(一九七三年)との二回分を合わせますと、延々数十時間にもおよんだと聞いていますが、やはり、歴史観とか文明論などが、おもな内容だったのでしょうか。
 池田 博士は、生涯を賭けたまったくユニークな文明論によって、人類の足跡と歴史の流転に新しい光を投げ入れた当代最高峰の碩学です。政治、経済、文学、哲学、宗教から、性の問題やレジャーの問題にいたるまでのあらゆる分野に、鋭い洞察眼をもっておられる。二十一世紀への道を探り、人類の未来を照らすため、こうした広範な事柄について、心ゆくまで話しあうことができたと思う。
 川田 生命に関しても、種々議論されましたでしょうか。
 池田 生命論は、きわめて重要な論題の一つでした。全魂をかたむけてデイスカッションしました。精神と身体との関係とか、意識と深層心理の関連とか、運命や宿命についての本質的な掘り下げ、それから、愛、良心、慈悲、欲望、エゴイズムなどが話題にのぼった。
 また、博士の提唱されている高等宗教の必要性や、宇宙の背後に存在する「究極の精神的実在」についての思索とか、他の天体にも生物が存在するかどうかなどについても、意見を交わしました。
 北川 池田先生と大森実氏(国際ジャーナリスト)との「直撃インタビュー」のタイトルが『革命と生と死』(講談社)ですが、そのなかで、たしか次のような意味のことが、先生の発言にありました。
 それは、昨年の博士と池田先生との対談――ちょうど一年前の五月でしたが――についての感想を、博士が通訳に漏らした言葉を引いたところです。つまり「こんなに共通点があるのであれば、これは対話ではない。お互いの一致点に向かう論議になった」と。
 池田 私も同じ感慨をいだくことができました。しかも、今年の対話で、その思いはさらに強まったようです。
 川田 生命論のなかでも、根本的な論題はやはり、死後の生命がどうなるかとか、生命は永遠か否かといったことだと思います。死は、この瞬間にも私の生命に襲ってくるかもしれません。どんなに財力があり名声を得ても、死だけは逃れるすべはないわけです。たとえ、私が死を忘れようと努めても、また一時期忘れ去ったとしても、死のほうは決して私を忘れようとはしないからです。
 何が執念深いといっても、死ほど粘り強くつきまとうものはありません。なにしろ、どんな場合にでも打率十割ですから……。
 池田 日蓮大聖人の御書にも「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」とある。生と死は、人間にとってもっとも古い、しかも根源的な謎であり、古今東西のあらゆる哲学と宗教の中心課題です。ゆえに、生と死を解明しない生命の探索は、画竜点睛を欠くことだけはたしかでしょう。
 私たちは、ともすれば、他人の死を眼前にしても、自分だけは例外であるような錯覚にとらわれがちです。しかし、だれ人たりとも、死だけは避けられない。実存主義者ハイデッガーは、人間は死への存在であるとし、また「人間が生まれでるやいなや、人間はすでに死ぬべき年齢に達している」(『存在と時間(下)』、『ハイデッガー選集17』所収、細谷貞雄・亀井裕・船橋弘訳、理想社)と述べている。逃れられない生死の運命を真正面から見すえ、死への思索をとおして、より人間らしい生活を送ろうとする一人の哲人の苦闘がうかがわれる言葉です。
2  川田 死を自覚するところに、人間としての所以があり、さらには特権があるとも考えられますね。
 池田 人間の自我のみが、死を自覚し、それを見すえての生を享受しうるのです。他の生物は、私たちと同じように死すべき存在でありながらも、そのあまりにも厳粛な事実を自覚することもなく生涯を開じる。
 このような意味からすれば、死の自覚は、たしかに人間の特権といってもよい。だが、人は特権を与えられるとともに、それと引き換えに死への恐怖も引き受けなければならないようだね。死ぬことの覚知は、そのまま死の恐怖を呼びおこすからです。
 川田 私自身の生命の内奥にも、意識するとしないにかかわらず、死への恐れが、絶えずうずいています。
 池田 その恐れから目をそらすのではなく、念々に死と対決し、それを乗り越える努力を断じてやめないとする勇気と決意が、ひるがえって私たちの生を彩り、実り豊かなものにするのだと思う。事実、人間の歴史を飾った哲学も、各種の宗教も、そして科学さえもが、その発生の基底部に、生を思索し死を克服しようとする幾多の先哲の、血と汗の結晶を組み込んでいると考えられないだろうか。
 北川 死との対決が哲学の始まりだとされていますし、医学をはじめ科学のほとんどの分野は、生をできるだけ引き延ばす学問であるといっても過言ではありません。ですから、科学の発達をうながす原動力の中核には、私たちの心にうずく死への恐怖が流れているといえないこともありません。
 池田 運命との対決から科学が生まれ、医術の進展がもたらされる。その結晶が人々の生を守り日々の生活を彩るわけだね。
 川田 でも、医術でどれほど生を延ばしても、人間が一個の生命体であるかぎり、無限に死を遠ざけることは不可能です。医学的常識からしますと、私たちの身体の細胞は古くなるど再生されますが、脳細胞だけは交代がきかないとされています。
 したがって脳細胞の寿命が、純粋に生物学的にみた人間の寿命の限界ということになるのですが、それによると百歳からせいぜい百二十五歳までといわれます。そのころになると、どのように拒否してみても死を迎え入れなければならないわけです。もちろんこの数字は現代の医学水準におけるものですが……。
 池田 科学や医術は、生を守り、ある程度は死を引き延ばしえても、死そのものの解決にはなりえないということだね。
 川田 死の解明は、あくまで宗教や哲学の課題だと思われます。
 池田 これは数力月前の新聞にも報道されたことだが、アメリカの著名な人類学者R・S・ソレッキー教授が、中近東のイラクでネアンデルタール人の遺跡を発掘したときのリポートがあった(『シャニダール洞窟の謎』香原志勢・松井倫子共訳、蒼樹書房、参照)。ネアンデルタール人は、学者たちの間では、現在の私たちの直接の祖先であるか否かについては意見が分かれているそうだが、ともかく、十数万年前の人類の一員であったことにまちがいはない。
 その遺跡を発掘していたとき、ソレッキー教授は、墓の周りに大昔の花粉が置かれているのに気づいたというのだね。それもどうやら、当時の人々が、仲間の死に膨んで墓を造り、その周囲を、菊とかスミレの花などで飾ったらしい。
 北川 温かい心情がにじみでていますね。ところで、死者を花で取り巻くことに、どのような意味がこめられていたのでしょうか。
 池田 教授は「花をめでた人びと」と呼んでいたが、このネアンデルタール人に、すでに永生の信仰といったものが定着していたという。つまり、人間生命は死とともに消滅してしまうのではない。ソレッキー教授の表現を借りれば「天」という実在に帰ると信じていたわけだ。もちろん、具体的にどのような概念をもっていたのか知るよしもないことだが、ともかくネアンデルタール人は、生命の永存ヘの何らかの観念、信念をもっていたのでしょう。
 もし、私見を許してもらえば、十数万年も以前に地球上に生息していた人々の胸奥にも、宇宙と大自然に脈動する根源的な実在の姿が映しだされていたのではないだろうか。まあ、この問題は、人類の誕生をうながす進化の歩みを追跡するところで、もう一度、くわしく考えてみたいと思う。
3  川田 それにしても、人類は、そうした遥かな遠い昔から、生命の永存を信じ、彼らなりの信仰をいだいていたという事実は、まことに興味深い発見ですね。
 池田 野に咲く花の供養は死者への愛情であり、契りであり、また祝福の表現でしょう。そしてその優雅なふるまいの基盤には、永生の信念が深い根をおろしていたのです。
 北川 時代がずっとくだりまして、私たちがふつうに原始人と呼んでいる人々のころになりますと――この原始人は生物学的には私たちとまったく同じホモ・サピエンスですが――世界中のいたるところに「マナ」という力を信じる死生観が見受けられます。
 「マナ」というのは、原始時代の人類が、自然と万物のなかに見いだしたものであり、一種の生命力とでもいいあらわせそうな力を意味しています。当時の人々は、生と死の現象を、「マナ」が増進し、強まるのが生であり、逆に弱くなっていくのが死であると理解していたようです。
 池田 四季が移り、天体の運行が繰り返される。万物の力強い律動に合わせて、人の生命も、死によって大地に帰り、生とともにふたたび地上に現れでる。生から死、そしてふたたび生へのよみがえりを、原始の人々は、ごくあたりまえの出来事として信じていたのだね。「マナ」は、すべての生き物が、生死を流転する内在的な活力をさし示していると考えられる。
 このような生と死の理解は、たしかに単純であり、素朴な概念にすぎないかもしれない。しかし、素朴さのなかに光る真実のきらめきに盲目であることは許されないでしょう。ここでも、人類の英知は、森羅万象にみなぎる″血潮″を、そのまま自己のものとして感じとっていたのではないだろうか。
 川田 「マナ」信仰よりもう少し後期になりますと、学者たちが「アニミズム」と呼んでいる死生観が一般化してきます。人間をはじめとする自然の事物は、すべて個々の「たましい」をもっていて、生とはそれが宿っている場合であり、死を迎えると「たましい」が離れていくというのです。
 池田 私たちの身体を例にとると、生きているときには、肉体と精神が結合しているが、死が訪れると、この二つが分離すると考えるのだね。このあたりから「霊魂不滅」説も生じてくるのだろう。死によって、肉体から離れた「たましい」は、肉体の処分にかかわらず、独立に存在しつづけるとする死生観です。
 川田 キリスト教でも、霊魂の不滅をいいますね。
 池田 この宗教における「霊魂不滅」説は、神による創造説と結びついている。私たちの「たましい」を創ったのは神であり、私たちが死を迎えると、神による審判を受けなければならない。その結果、神を信じる者は天国に昇って永遠の生を得ることができる。
 それに対して、神を信じない「たましい」は、地獄の底につきおとされると説かれている。また煉獄は、悔い改めることによって救済の途が残された霊魂の至るところであるともいうね。
 川田 「最後の審判」という思想もありますね。
 池田 キリスト教でいうこの世の最後の時がくると、死せる霊魂はすべて復活し、生きている人間の「たましい」も含めて「最後の審判」が行われるとしています。つまり、キリスト教も、生命は死んでのち生まれ変わるとするが、それは、ただ、このときの一回に限られるのです。そして、再生した生命は永遠に存続すると説かれている。
 イスラム教にも同じパターンの信仰がみられるね。最後の日には、すべての死者が三つの組に分けられる。選ばれた霊魂は神の玉座近くに召されて特別の栄誉にあずかれる。その次のグループは、天国のようなところにいたり、最後の組は灼熱の地獄におちる、というわけです。

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