Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

個性化の原理  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
1  「五陰世間」について
 池田 本書の「人間らしい生き方」の章から始まった、仏法理念を中核にすえての生命探索も、ようやく、一つの締めくくりの段階を迎えたようだね。
 北川 「十界論」から始まって、「十界互具論」へとつづき、それから「十如是論」へと発展してきました。この三つの法則というか、原理みたいなものを組み合わせますと、人間生命を中心にしてですが、生命というものの全体像が、かなり鮮明に浮かび上がってくるようです。
 池田 そこで、本章では、少し、重複する個所が出てくるかもしれないが、これまでのことをまとめながら、また、それを基盤にして、仏法が解明している生命哲理をさらに深く探ってみることにしよう。
 さて、十界というのは、生命の「我」の実感を基準にして、その生命体のあらわす境涯を分類したものと考えられる。別の見方をすれば、生命の変化相ともいうことができる。私たちの生命も、一瞬をとらえれば、かならず十界のうち、いずれかの境涯をあらわしていて、その生命の内奥には「空」の状態として、他のすべての境涯を包含している。いいかえれば、十界のすべてに、他の十界をそなえているということであり、それを十界互具の方程式と名づけてきた。
 川田 十界互具のことを百界ともいいますが。
 池田 数量的に表現すれば、たしかに百界になる。十界のそれぞれに、十界をそなえているのだからね。だが、百界といった場合も、その意味は、十界が、一つの生命体において、融和し、一体となりながら律動しているという事実をさすことに変わりはないようです。
 北川 この百界に十如是を組み合わせて、仏法用語では、百界千如といいあらわしています。これは、百界のすべてに十如是がそなわっているから千如是になる、といったようなことでしょうか。
 池田 計算すればそのとおりだが、そういった数字が、いったい何をあらわそうとしているのかを、明らかにする必要がありそうだね。百界千如の意味するところを、一つの具体例をあげながら考えてみよう。
 たとえばよく知られるベトナム戦争の報道写真がある。戦火で、もはや息も絶えた幼児を、腕も折れんばかりに抱きしめている母親の姿が写されている。もし、仏法の十界論を知った人が、悲しみにうちひしがれた母親の姿を見れば、身も心も、いや、生命全体が地獄の苦悶にあえいでいると断言してはばからないにちがいないと思う。
 北川 つまり、如是相も、如是性も、そして、如是体そのものも、苦悩の極致を実感しているといえますね。
 池田 では、その女性が、この世のものとも思われぬ地獄の責めを味わわなければならないのは、どうしてだろうか。
 北川 それは、子どもを殺されたからです。
 池田 流れ弾に当たったか、大量殺戮のとばっちりをうけたか、そのあたりはさだかでないにしても、幼児の死が、母の嘆きを呼びおこしたことだけは明らかです。
 つまり、幼児の死が「縁」となって、一人の女性の生命の奥から苦悶の「因」が呼びさまされ、その生命のもっている「力」が「作」となって働き、そこに、生死流転の「果報」を生みだしていく。しかもそれらが、一瞬の生命に「本末究竟等」として組み込まれ、たがいに関連しあいつつも、融合して、苦しみの生を織りなしていく。少なくとも、一枚の写真から、これだけのことは読みとれるのではないでしょうか。
2  北川 地獄界を顕現した実例をあげられましたが、他の境涯についても同じように考察していけばよいわけですね。
 池田 もし、その写真の女性が、将来、ベトナムの大地に真実の平和が訪れて、まことに人間らしい生を享受することが可能になったとしよう。そのときには、仏界とか、菩薩界とか、人界などと、それにからみあった十如是の脈動を顕在化することも不可能ではないと思う。
 その女性ばかりではない。すべての人に、いや、すべての生命的存在に、十界が互具し、しかも、それに関わりあつた十如是が渾然一体となって組み込まれている。このような事実というか、実相をさして、百界千如と表現したのだ、といっておきたい。
 川田 そうしますと、百界千如というのは、どの生命体にも組み込まれ、また、いかなる瞬間にも見いだせる原理と考えられますね。
 池田 そういった意味では、普遍性をもった原理と称していいね。
 川田 ところが、現実の私たちの目前にある生命体は、どれ一つとして同じ機構をもったり、働きを示すものはありません。ぜんぶ、それぞれ独自の個性をもち、特質を示しています。たとえば、ベトナムの女性と同じように、ある瞬間、地獄界をあらわしている生命体を考えただけでも、ほとんど無限に近い差別の姿を示しています。
 職業柄、どうしても直面するのは疾病ですが、急激な胃痛とか、腹痛に襲われて、七転八倒している青年がいるとします。この青年の、この瞬間の境涯は、まぎれもなく地獄界で、それに関連した十如是のすべてが働いています。このあたりまでは、十界互具論と十如是論を組み合わせますと、明瞭に描きだすことができます。
 でも、たとえ、これだけのことが明らかになったとしても、子を失った母親と、疾病に責められる青年の具体的な相違点は、どこにも浮かび上がっていません。どちらの生命も、苦しみにあえぎ、地獄の「因果」がひきずりだされ、生命の力がほとんど失われてしまっている、などといった共通の面を説明できるだけです。にもかかわらず、この二人には、ちょっと考えただけでも、男と女の違いがある。苦しみの内容がまったく異なっている。まあ、こういった事実に気づくわけです。
 こうして考えてきますと、百界千如が生命の普遍的な原理であるにしても、ただ、それだけでは、生命の全体像をとらえきれていないのではないか、と思われてくるのです。少なくとも、個々の生命体の間に見いだされる相違点というか、差別の姿を解明するような一つの原理が不足している。
 池田 そこのところが本章のポイントになる。原理的にいうと、どの生命も百界千如をそなえているから無差別と考えられる。しかし、この宇宙にあらわれでた生命像は、たしかに、無限の差別相を見せています。
 ここで、少し注意しておきたいのは、私たちが、この生命論で使う「差別」という言葉ですが、これは、あくまで、個々の生命体にそなわった個性とか、特質にもとづくものであって、たとえば、社会的な差別観とか、人種差別などという場合の差別とは、言葉は同じであっても、その内容は異なっている。私たちが使う場合には、生命そのものに本然的にそなわった差別であり、個々の生命体の間の特質を示すような相違点とでもいったもののことです。
 さて、本筋にもどって、私たちの生命は、普遍的な原理を含みながらも、現実世界においては、それぞれの個性に立脚した差別の姿を示している。この事実に盲目であることは許されまい。
 とすると、現実世界で繰り広げられる、ありとあらゆる生命活動の間にある差別相は、どういうところから生ずるのか。つまり、原理的には、まったく無差別の実在である生命は、いかなる法則、いかなる方程式にのっとって、個性豊かな事実存在へとあらわれでるのであろうか。
 私は、百界千如という普遍の法則が、個々の生命体における差別相へと顕在化し、開かれていく様相を解きあかすための原理を「個性化の原理」と名づけたいと思う。
3  北川 つまり、個性化の原理にのっとって、あらゆる生命的存在における個性が顕現し、特質が開花し、種々の相違点が生まれるというわけですね。
 池田 そこで、この原理というか、法則を見いだすための手がかりとして、先ほどから話題にのぼっている二つの実例を、さらに考察してみよう。
 さて、こんどは、私のほうからの質問だが、死せるわが子を抱きしめた母親と、ベッドのうえで苦吟する若者とは、具体的な面で、どういう違いが目につくのだろうか。
 川田 生理学的には、男性と女性です。もっと一般化しますと、肉体自体が一人一人ちがいますから……。
 池田 仏法用語を使うと、色心不二という場合の「色」になるね。これは、人間の生命でも、草木でも、石ころでも、すべて違っています。いいかえれば、独自の特徴を描きだしている。
 北川 色心不二の「心」のほうも、その内容を探りますと、明瞭な差異があります。たとえば母親ですが、彼女の心は、幼児の死を痛いほど感じとっています。だからこそ、その女性のたとえようもない悲しみが訪れるのです。
 池田 その後の、母親の心を、もう少し描写してみよう。
 悲しみとともに、最愛の子どものすべてが、母の生命に焼きついていく。あどけない顔、かわいい小さな手、いまはすでに閉じられた目など、死せるわが子の姿は、そのまま母の心に受けいれられていると思われる。
 すると、ほんの一瞬前までのほほえみが浮かび上がり、父と子と母との楽しい過去の思い出がよみがえってくるであろう。そして、また、父を戦死させ、子を失っても生きなければならない未来の苦痛が、その女性の心にあふれているにちがいあるまい。
 だが、たとえ、わが子の息が絶えても、愛と力のつづくかぎり、ひとときでも長く、わが胸に抱きとっていたいと決意するのも、人間本来の母性愛ではなかろうか。
 北川 その決意が、永劫にわたって、この子をはなすまいとでもしているような、一枚の写真に結実しているのですね。
 池田 これで、母親の心を分析したわけだが、同じような観点から、病に倒れた若者の場合を考えてみることにしたい。
 川田 まず、青年は、胃とか、腹部が痛むという事実を了解しています。いや、痛みが襲ってくるのは、胃の上部であるとか、もう少し右のほうだとか、自分なりに分別し、考えているといったほうが適切でしょう。
 それから、青年の心は、その痛みをぜんぶ、そのまま受けいれます。この場合は、外界ではなく、若者の生命の「我」自体が、自己の肉体の変化を感じとっているのです。
 池田 そうすると、青年の心に、じつに多様な想いが去来するだろうね。呼びにいった医師はもう到着するころだろうとか、胃壁が大部ただれているかもしれないとか、もしかすると胃癌ではないかとか、そういったことが、とめどもなく若者の心を駆けめぐるであろう。
 その想いが、もう少しの辛抱だから、できるだけ痛みを少なくするために、身体を極度に曲げていようという意志をひきおこし、青年の筋肉を動かしていく。
 川田 激痛をやわらげるための七転八倒ですね。こうして、二つの実例を並べてみますと、その違いがはっきりするようです。同じ地獄の境涯を顕現しているといっても、その内容はずいぶん違うものですね。
 池田 だが、もう少し精密に、この二つの例を比較してみると、たしかに生命活動の内容はまったく異なっています。にもかかわらず、心の働きの種類というか、活動性の性質には、共通の要素が発見できるのではないでしょうか。
 具体的にいうと、母親にも、若者にも、まことに人間らしい分別の心がある。自分の直面する事柄とか、対象の意味するところを、判断し、思考する働きが見いだされます。
 それから、わが子の姿であれ、自己の肉体であれ、生命の「我」の対象とするものを受けいれる働きがある、と同時に、さまざまな想いを描き、その想いが、意志をとおして身体の行動につながっていく。
 こういった生命の活動性を、仏法用語で、きわめて端的に表現すると、最初が「識」、その次が「受」、それから「想」と「行」の働きがあり、肉体的行動が「色」ということになりましょう。この、五つの、私たちにとって主要な活動性を、仏法では「五陰」と称しているのです。

1
1