Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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生命はいかに運動するか  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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1  生命のもつ可能性
 北川 最近、話題になった映画で『ジョニーは戦場へ行った』というのがあります。決して映画を宣伝するわけではないのですが(笑い)、生命のもつ不可思議さ、可能性というものを、鋭く抉りだしてくれたもののように思ったのです。
 第一次世界大戦で負傷した青年が、手術で両手を切断され、両足も切断されてしまう。耳も聞こえないし、目も見えない。もちろん口もきけません。顔面は、つぶれているのと同じなのです。そのような、もうたんなる肉塊としかいいようのない青年を、医学の技術は、死なさずに生かしてしまう。青年は、意識だけはもっているが、それを表現する手段をもたないし、感覚器官のほとんどを失っているわけです。
 そのような青年の話なのですが、人間が人間として存在しうるかどうかという、いわば極限の状態を描いており、強烈な反戦映画であるとともに、生命とは何か、を観衆に問い迫っている点で、強い衝撃を受けました。
 川田 アメリカの脚本家ドルトン・トランポの『ジョニーは銃をとった』の映画化ですね。第二次大戦の勃発直後に発刊されたそうですが、この小説の例にかぎらず、現代の医学では五体満足にそろっていても、大脳の働きが破壊されて意識さえもたない負傷者や、公害等に侵されてしまった、いわば「植物状態の人間」を、生かすことはできても治癒しきれない状態のまま、といったことがよくあります。
 そのような場合における人間とは、あるいは生命とは何か、という問題を含めて、これはまさに、もっとも今日的なテーマであるといえますね。
 北川 この小説、あるいは映画のような実例があるのかどうかはわかりませんが、視覚、聴覚、嗅覚、味覚などを奪われた存在というのは、どういう状態か想像もつきません。触覚も、ほとんど奪われているわけです。両手両足がないのですから……。
 ただ、体の一部にふれられたときの感覚だけをもっている。そして、自分の主体的な行動としては、少しでも体を動かす、ということしかできないわけです。事実、青年は、最初は空間の観念はもとより、時間の感覚さえ失っているのですが、やがて体に感じる温度の違いによって、太陽があたっているかいないか、すなわち昼か夜かを区別することができるようになり、時間の観念を辛うじて取りもどすわけですが……。
 池田 まさに生ける地獄としかいいようがないね。自分で自分をどうすることもできない、絶対不自在の世界に、閉じこめられてしまった状態です。人間が人間として、自由奔放にみずからを燃焼させるすべを失ってしまうということほど、悲しいことはありません。
 人間というものは、もちろん他のすべての存在物に依存して生きているわけですが、自分は自分以外にはありえないという、そして宇宙のすべては自分との関連のなかでとらえたいという、強烈な自我というか、自我意識がある。それをどう止揚させるか、また理想的な形で顕在化させていくかに、私たちの課題があるわけだけれども、その手段のほとんどを失うということは、絶対的なハンディを負ったことになる、といってもよいでしょう。
2  川田 この話に関連して思い出したのですが、これは、夢を見ているときの状況と少し似ていますね。夢というのは、身体の各器官の反応が低下し、あるいは外界からの刺激がほとんど遮断されている状態で、精神だけが活動している状態、これを逆説睡眠というのですが――といっても、起きているときの精神活動とは違っていますが――そういったときに起こる現象と考えられますが、この青年の場合も、それに近い。
 青年にはいろいろな妄想、思い出が、夢のように次々とあらわれています。そして、最初のうちは、外界からの刺激も、それを受動的に受けとめているだけだから、体をネズミに食い破られる、という妄想をもってしまうわけです。
 もっとも、のちには外界の刺激を理性的に分析するので、そういうことも少なくなるのですが……。たとえ夢を見ていなくても、外界の刺激を遮断してしまうと、夢を見ている状態に近くなることは、実験でも示されています。
 被験者を水槽の中に入れ、人工的に無重力状態にし、また一切の光、音波もなくしてしまう。被験者が自分の体をさわったり、動かしたりすることも、不可能にする。すると、まるで夢を見たように、さまざまな想念が映像化されて、目に映るというんです。
 ですから、負傷した青年が、自己をたもとうとし、外界との接触を大事にし、分析、推理する能力がなかったら、夢を見つづけるといったような状態で、日々を過ごさなければならなかったかもしれません。
 北川 ところが、青年は、看護婦が、自分の体の上に書いてくれた文字を、理解するようになる。最初は看護婦の手さえ、ネズミの襲撃と思いこんでいたのですが、「メリー・クリスマス」と書かれた文字の意味を理解し、激しく頭を枕にぶつけて、それを訴えようとするのですね。そしてモールス信号で、意志を伝えようとする。それがやがて相手に伝わり、意志の交流が生まれる。
 なんといっても、この場面が圧巻だと思います。青年は、ギリギリの状況で、みずからを激しく燃焼させたわけですね。
 池田 人間、右手がなくとも左手があり、両手を失ってもまだ足がある。その両足を奪われても、目や耳があり、口がある。そしてそのすべてを剥ぎとられても、広大な心の世界を含んだ生命自体、という絶対の価値がある。そしてそれこそ、生命を根底から揺り動かす広大な潮流です。
 その青年は、身体のほとんどすべての機能を失いながら、その極限において、生命の深層にある生命のエネルギーを、激しく噴出させたのでしょう。いったん地獄のただなかに落ちこんだ生命が、そこからはいあがり、みずからの状態を鋭く見きわめ、その環境のなかで、自己を変革しようとした、まさに生命勝利のドラマだ、といってもいいでしょうね。
 しかし、考えてみれば、これは、現代社会への痛烈な警鐘にもなっています。巨大な管理社会、大衆社会の状況は、一個の人間を、機械の部品のごとく扱ってしまう。みずからの自由意志で動いているように思っていても、いつのまにか情報洪水に乗せられて、行動してしまっている場合も多い。一人の人間の力が、途方もなく小さく感じられ、自己表現のすべも見いだせない。脱社会、脱体制、あるいは脱サラリーマンなどといってみても、それ自体が流行で、はたして主体性ある行動かどうかは、疑わしい状況です。
 そういった大きな単位のなかで人間をみれば、まさに、両手両足を奪われ、日、耳、鼻、口なども失った青年の状態と、変わるところがない。五体満足なようでいて、時流に流されている不自在の境涯を認識できないことは、ある意味では、この青年よりももっと悲惨である、といえるかもしれない。みずからの状況を把握することさえ知らず、主体性を失ったまま人生を過ごすことほど、人間としての価値を失った人生はない、ともいえるからです。
 こういう社会状況にあってこそ、人間の、みずからの内にある財宝の発掘が、もっとも大切なことであるといわざるをえない。内なる変革は、外から見えないようでいて、かならず、とどめようもない力強さで外界にあらわれてくる。そして、やがては、環境を大きく変革してしまうものです。
 外界とふれあう生命が、いかに能動的に動き、また環境を積極的に取り入れ、そしてさらに自己運動を繰り返していくか、その点の解明が必要になってきます。
 「十界論」「十界互具論」について考察してきた私たちは、次に、この十界が、いかなる事実相として顕現し、またいかなる運動法則にもとづいているのか、といった分析を、仏法の「十如是論」を手がかりにして行っていきたいと思う。
3  生命の本体――相・性・体
 北川 「十如是」は、有名な「法華経」方便品にその名目が明かされています。「唯、仏と仏とのみ、いまし能く諸法の実相を究尽くじんしたまえり。所謂諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり」(妙法蓮華経並開結154㌻)とあります。このなかから、「十如是」だけを取り上げて論議していきたいと思います。
 池田 この文のなかにある「如是」というのは、「是くの如し」ということで、中道実相という意味をもちます。真実の姿、生命本然の姿ととらえられるでしょう。
 私たちの生命は、先に話しあったように、一瞬一瞬、十界それぞれの姿を現じている。地獄界なら地獄界が、生命のすべてを覆っている。菩薩界が生命を支配しているときもある。慈悲以外に生きようがない、生命それ自体も、行動も、そしてその結果も、慈悲という言葉でしか表現できないようであれば、その生命は、仏界に住しているのだといってよいでしょう。
 さて、その十界それぞれを現じている一瞬の生命の「本然の姿」「ありのままの姿」をとらえたのが、十如是という原理です。私たちの生命には、十界のすべてがもともとそなわっている。それがどのようにして、あるときは地獄界、あるときは天界としてあらわれるのか。一瞬前には冥伏していた地獄界の生命が、その次の瞬間には顕在化してくる。そしてまた天界なら天界という生命が、冥伏から顕在へと変化すると、地獄界の生命は、冥伏へともどっていこうした変化には、どのような要素がからみあっているのか。それを明らかにしたのが「十如是」であるともいえるね。
 川田 この「十如是」のうち、最初の三如是、すなわち如是相、如是性、如是体と、あとの七如是は、少し内容が違います。
 といいますのは、最初の三如是は、運動する生命それ自体をさしています。それに対し、あとの七如是は、どちらかといえば、その生命にそなわっている機能的な側面を説いたものと考えられるからです。生命の、いわば運動法則といっていいと思います。
 もちろん、あとの七如是のなかでは、如是本末究竟等は少し様相を異にしており、全体的、統合的な原理になると考えられます。
 北川 そこで、まず最初の三如是のうちの「如是相」ですが、日蓮大聖人の「十如是事」の文は、本でも引用しましたが、そのなかに「如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり」とありました。また「一念三千理事」には「如是相は身なり玄二に云く相以て外に拠る覧て別つ可し」とあります。このなかに「玄」とあるのは、天台大師の『法華玄義』ですね。
 さて、如是相とは、人間生命においては、その外面、現象面にあらわれた姿をさすわけですから、肉体すなわち心身のうちでは「身」の立場になるのですね。
 池田 この如是相と次の如是性、如是体の三つについては、すでに「三諦論」のところで、少し論じてきたところです。すなわち、生命の如是相を見ていくのが「仮観」であり、如是性を見ていくのが「空観」、如是体を見ていくのが「中観」ということになります。この相、性、体の三つを総合的に見きわめてこそ、生命の全体像が正しく把握できるのであり、三観三諦の円融が説かれるゆえんです。
 「十如是事」の「我が身の色形に顕れたる相を云うなり」という表現のなかに、この考え方がすでに含まれている。生命というものは、色形、すなわち現象面、物質面でとらえることのできる範囲がすべてだというのではない。その内奥に、それを顕現させている広大な生命の実在がある、ということです。

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