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日蓮大聖人・池田大作

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自己変革の道  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
1  体験三題
 川田 十界論をひととおり終えましたので、次に「十界互具」という仏法の原理を取り上げたいと思いますが、このあたりで、少しばかり、いままでとは趣向を変えてみます。
 といいますのは、十界論については、十界それぞれの境涯とか、実感とか、変化相などを、どちらかというと、生命を客観視する立場から追求してきました。それに対して「十界互具」という原理を考えるには、むしろ、私たち自身の生命活動を、実践的にとらえたほうがわかりやすいのではないか、と思うからです。
 つまり、いくつかの体験を取り上げて、そこに「十界互具」という原理がどういうふうに見いだせるか、といったようなことから始めたいのです。
 池田 そのまえに、十界と十界互具の関係について、少し述べておきたいことがある。じつをいうと、いままで述べてきた十界論も「十界互具」の原理というか、また、方程式という言葉を使ったほうが適当なこともあるが、そのうえに繰り広げられたものです。このことを、一つの例をあげて説明してみよう。
 テレビでも、映画のフィルムでもかまわないのだが、画像を見ていると、瞬間的に止まることがある。まあ、種々の効果をねらって止めているのだが、相撲の解説のときなどに、投げの瞬間とか、土俵ぎわのせり合いなどの、いわば決定的瞬間です。そこが固定されて、一枚の静止した写真として映されることがある。
 また、百メートル競走の判定などにも、写真が使われている。このような操作をすると、私たちの目には止まらないでも、写真の判定で、一着はだれだとか、相撲はどちらが勝ったか、といったようなことが明らかになるものです。
 北川 相撲ですと、そこに解説者が顔を出して、きまり手は上手投げだとか、体が死んでいるとか、いやまだ生きているとか――むろん、相撲のうえのことですが――素人でもわかるように説明してくれます。そのあとで、もう一度、実際に相撲を思い返すか、または、ビデオテープを見ますと、納得のいくものですね。
 こういった画面の分析は、ボクシングにもありますし、また、競馬の着順を決める″きめ手″にもなります。これには、莫大な金がかかっていますから、一枚の写真が、人の運命を左右することにもなります。(笑い)
 それから、コマーシャルにもとり入れられています。コマーシャルの一コマずつを少しずつ固定して、三つか四つの場面を映す手法もあります。そうしますと、流れとしては映りませんし、ぎごちない感じもしますが、各コマのありさまが、はっきりと認識できることだけはたしかでしょう。ところで、この分解写真――ストップ写真ともいうそうですが――それと、十界論はどう関わりあうのでしょうか。
 池田 つまり、十界論というのは、私たち自身の生命の動きの分解写真みたいなものだ、と考えてはどうかということです。
 人間をはじめとするすべての生命的存在は、一瞬も休むことなく、それぞれの生を営んでいる。私たちがいままでに使ってきた言葉で表現すると、生命の流れは、たとえ、その速度が弱まってしまうことはあったとしても、それでも何らかの働きをなしつつ、変転しているわけです。
 この生命の流れを、いわば人工的に止めてみると、分解写真みたいになるでしょう。だからといって、現実の生命の流れが、その瞬間に、ちょうど、凍りついたように停止してしまうということではないのだが……。
2  北川 魔法の力で、すべての生命活動を一時期、凍結させるといった架空の物語などはあります。まあ、現実にはありえないことです。でも、人間の思考で描きだすことはできますね。
 池田 もし仮に――ずいぶん、SFじみてくるが――このいまの瞬間、宇宙の時の流れが止まったとしてみよう。外観からすれば、道を歩いている人もいるし、ちょうど、午後三時のおやつ時で、大きな口を開け、食べものを運んでいる人もいる。原稿用紙に一つの文字を半分書いたところで、ストップがかかった人もいよう。体操をやっているスポーツマンだと、空中に跳びあがったまま、停止してしまっているかもしれない。
 外から見た客観的な姿は、それこそ千差万別で、一人として同じ様相を示すものはいないだろうが、それらの人々の生命の実感から分類してみると、十界という種類を出ていなかった――まあ、それが十界論だったね。
 たとえば、同じく道を歩いている人でも、苦悩にうちひしがれた地獄の境涯の人もいれば、足どりも軽く天界の「我」を満喫している人もいるだろう。また、歩道のかたすみに咲く雑草にさえも心をよせる、四聖の境地にひたっている人も、見いだせると思われる。眼前にあるヤキイモを欲するのは、餓鬼界だろうかね。文章をねり、思索を深めているのは、まず二乗界だし、空高く跳びあがった体操選手は、文字どおり、天界にいるかもしれない。いずれにしても、十界のうちのいずれかの境涯をあらわしているはずです。
 川田 生命の分解写真の、十界論による判定ですね。
 池田 さて、次の瞬間、宇宙の時の歩みにかけられた″魔法″がとけたとしよう。客観的に見ると、歩道で半分ほどおりかけていた右足が大地についたとか、食物がようやく口に入ったとか、一つの文字を書き終えたとか、さまざまな現象が繰り広げられよう。
 だが、これらの現象をかもしだす各人の生命感を調べてみると、地獄界の人もいれば、餓鬼界の人もいる。また、二乗界に住する生命もある。こうして、さらに次の瞬間にも、地獄界とか、人界とか、天界とか、そういった境涯を判別できるはずです。
 北川 一人の生命の「我」の実感をとってきて、その変動を追っていきますと、たとえば、地獄界から天界に変わり、また地獄界に帰ってくるとか、また、人界から天界、そして菩薩界とか、それこそ無限のバリエーション(変化)を示しているでしょうね。
 池田 だが、それぞれの生命の「我」が瞬間ごとに変転し、かぎりない変化相をつくりだしているにしても、その変化のなかに、何らかの法則性が見いだせないだろうか。
 たとえば、地獄界の次には餓鬼界がくるのだろうか、畜生界だろうか。また、人界とか天界だろうか、それとも、どんな境涯でもあらわれうるのだろうかといった疑問が生ずる。さらに、地獄界ではなく、天界の場合はどうだろうか、ということも問題になりうる。
 まあ、こういったことのなかに、一つの法則みたいなもの、いいかえれば方程式のようなものを発見したとする。そうすれば、その方程式にのっとって、生命の流動が織りなされる。つまり、生命に関する一つの原理ですね。その原理を仏法では「十界互具」と説く。では「十界互具」とはいかなる原理なのか、ということを考えてみたい。
3  川田 そこで、どういう体験を取り上げれば、わかりやすくて、しかも普遠的かを考えたのです。あまり、特殊な例でもいけませんし、そうかといって、いつまでたってもぜんぜん変化が見られないのもおもしろくありません。また、人権侵害ではありませんが、個人の明かしたくない秘密を守ることはとうぜんの義務でもあります。
 いろいろ模索しているうちに、ふと思い出したことがあります。それは、劇的な体験ではありませんが、いまだに、私の心に美しい光を投げかけている一人の医師の話です。その話を、もう一度たしかめようと、それが掲載されていたはずの新聞をひっくりかえしていたとき、ちょうど、そういつた体験が本にまとめられていることを知りました。ここにある二冊の本ですが、『生きる』と『新・生きる』(ともに聖教新聞社社会部編、聖教新聞社)という題がついています。
 この話は『新・生きる』のなかに収められていました。私の記憶に残っていたのは、約十年あまりも前にさかのぼりますが、医師会が一斉休診のストに入ったとき、一人の辺地の医師が、その指令――つまり、ストの指令ですね――を一蹴して、黙々と村人の生命を守りつづけたという事実が、鮮烈に私をとらえていたからだと思われます。
 池田 人間の生命を慈しむ医師としての使命感が、すべての事柄に優先したのでしょう。医師たちのストにもたしかにいいぶんはある。だが、医師が、きょうはストだから病人には関係ありませんとか、そういったことが起きた日には、日本の医療自体が、崩壊してしまいかねない。いや、もっといえば、人間失格の医師というべきではないだろうか。
 川田 私もまったく同感です。いま、便宜上、その医師をA氏としておきますと、A医師の行ったことは、医者としてとうぜんの義務というか、責任を果たしたまでのことのように思えるのですが、それが、その地方の新聞に美談として書きたてられたそうです。するとどういうわけか、A医師は、恥ずかしさで心がうずいたといいます。
 池田 ほう。実直な方ですね。ともすれば、人間の心というのは、他人から褒められると、ましてマスコミなどに書きたてられると、慢心を起こして、つい、得意になってしまうものだが……。
 川田 A医師は、自己のありのままの姿をごまかすことができなかったのだと思います。というのは、お父さんのあとを継いで医者になったものの、辺地の開業医には過酷な日々が連続します。″でも教師″という言葉がありますが、″でも医師″、つまり、金をもうけるためとか、いちおう、豊かな社会的な地位も割合に高いとされている医者にでもなっておこうか、というので医学部に入った人々ですね。そんな医者では、とうてい務まりません。
 夜中にたたき起こされたり、積雪三メートルの道を泳ぐようにして患者さんの家にたどりついたりで、よほどの信念というか、使命感がなければ務まらない職業でしょう。そういったとき、どうしても腰が重くなる。不満が頭をもたげてくることもある。遠い患者さんには、つい足が向かなくなってしまう。だから、新聞に紹介されると、人知れず苦しんだというのです。
 池田 しかし、自己の生命と真っ正面から対決したことから生じる、こういった性質の苦しみは、かならず、人間の心の深さを増し、同時に、医師としての成長の糧にもなるものだと思う。
 川田 医は仁術という古くからの格言がありますが、そして、この格言は、いかに時代が変わっても不動の真理でもありますが、その仁術を可能にする哲学を、A医師は探し求めました。そして、苦心の末に探りあてた哲学を体得するにつれて、先ほどの苦しみ――つまり、心の葛藤――を乗り越えました。体験談の最後のほうには「利害を忘れてそこに没頭できるようになった自分がうれしい」と語ったA医師の言葉が記されています。
 池田 実感が出ているね。人間的使命を遂行できるという、心の奥からの歓びがあふれた言葉です。みごとな人間革命の実証です。

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