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日蓮大聖人・池田大作

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人間らしい生き方〈2〉 十界論をめぐって 

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
1  欲望にひそむ魔性
 川田 昭和三十六年(一九六一年)というと、もう十年ぐらいも以前になりますが、そのころもてはやされた「浪費を刺激する戦略」ということについて、話を聞いたことがあります。″消費″ではなくて、″浪費″なんです。十ヵ条ほどあるのですが、そのうち、二つか三つあげてみます。
 第一の作戦は、ストレートに「捨てさせる」というのです。第二の作戦は、「無駄づかいさせる」ときます。エアゾール式の容器などだと、ちょっと押すと大量に出てしまうようにつくられている。一度出たものはもとにもどせない。その次に「セカンドとして持たせる」。これは客間用のテレビと寝室用のテレビとかいった具合にです。
 まだあります。「旧式にさせる」という戦略です。少しだけ外形を変えて、消費者に旧式だと思わせて、買い換えさせるのです。このぐらいにしておきますが、この戦略はいまでも、十分に活用されているような気がします。
 池田 まあ、いまあげたぜんぶのことが事実かどうかはわからないが、さまざまな欲望が交錯する現代文明の一断面を抉っていることだけは、疑えないだろうね。
 社会と私たち人間の間には、生存欲をはじめとして、本能的欲求から、名誉欲、物質欲、所有欲、権力欲、支配欲、便利さを求める欲望、虚栄心などが渦巻いている。庶民の生命を軽んじ、軽蔑しきった増上慢の自我もあるし、逆にあくどい戦略にひっかかる愚かな心もないとはいえまい。これらの欲望がからみあって、私たちの住む現代という時代を彩っているように思われる。現代文明をつき動かしているのは、究極的には欲望であるとされる所以です。
 川田 だが、各種の欲望が、その充足を求めるところに、文明の原動力もあり、それが巨大な物質文明を築きあげてきたという側面もありますね。
 池田 たしかに、日本の戦後史だけをひもといてみても、ほぼ五年ぐらいの単位で、一つ一つの欲望を満たそうとする努力がうかがわれる。たとえば、戦後、まず食を求める時代が到来しているね。「飢えの時代」といってもよかろう。
 北川 性のイメージが変わったのも同じころですね。
 池田 性の解放が昭和二十五年ぐらいまでつづいて、その後に衣を求める時代がくる。ナイロンやビニロンが登場するね。
 北川 「真知子巻き」の流行が、たしか、二十九年の暮れです。
 池田 衣料がほぼ出そろうと、耐久消費財だね。「三種の神器」のキャッチフレーズが飛びかったのは、昭和三十五年ごろを頂点としている。それからは、高度成長の波が押し寄せ、レジャーが拡大し、欲望中心主義の思想がさらに深く人々の生命の奥に根をはっていく。
 北川 その欲望、おもに物質欲とか、所有欲とか、それにともなう虚栄心や慢心ですね。それらを駆りたてようとして、″消費″ではなくて、″浪費″をさえ呼び起こすような商売戦略が考えだされます。つまり、人間の自然の欲望を充足させるというよりも、それをとっくに通りすぎて、こんどは欲望を人為的に合成する時代への突入です。こうなると、貪欲の合成といってもいい。いまも、その延長線上にあるわけです。
 生存欲から、食欲、性欲、衣への欲望、それから他の物質欲、所有欲へと、欲望の多様化は、戦後の日本の歴史を見ても、じつにいちじるしいものがありますね。
 池田 欲望の充足と、その質的な変化にしたがって、私たちの生命の「我」も、地獄界や餓鬼界を現じるよりも、畜生界とか修羅界をあらわすことが多くなってきたようにも思われる。むろん、ごく大ざっぱに、日本人の全体の状況を示しているにすぎないがね。
2  川田 そうしますと、豊かな社会、つまり物質文明が爛熟期に入ろうとしている世の中では、人界や天界の境涯を現出できる可能性も増大していると考えられますね。
 池田 戦後の一時期からすれば、消費どころか浪費をすすめられるのだから、天界を示す人々の「我」も、総体的には増えているだろう。各種の欲望の、かぎりない増大をひきおこす物質文明は、仏法の観点からすれば、天界を現出させることに、目標を定めていたということもできる。それが、たとえ無意識であっても、天界を一種の理想郷として描いていたことはたしかでしょう。
 北川 西洋物質文明がめざしているのは、科学技術や地球上のあらゆる資源を使っての「官殿」づくりですね。
 池田 未来論が、人類の行く末をバラ色に染めていたころには、そういった試みも成功をおさめるかに思われた。だが、戦後、四半世紀をかけてつくりあげようとした「宮殿」も、所詮は砂上の楼閣にすぎず、昭和四十五年あたりから、つまり、一九七〇年代への突入を境にして、その根底から崩壊の危機に瀕している。
 豊かな社会は、物質的欲望の充足とひきかえに、人の生命から、心の豊かさを奪い去っていった。また、核戦争の恐怖は去らず、公害が一挙にふきだし、地球という大自然も狂い始めている。自然も、社会も、文化も、そして人の心情までが、死の静寂をたたえて凍りつこうとしているようだ。
 たとえ、ある時期、天界の「宮殿」に遊んだ人も、いまでは、その廃墟に呆然とたたずまざるをえないのではないだろうか。天界の夢は幻のごとく消滅し、あとには、かつて脱け出たはずの地獄の苦悩や餓鬼の飢餓感が待ち受けている。人々の心は貧しく、争いの渦を巻き起こしていく。これが、現代の、また、少なくとも私たちが向かおうとしている未来の世相ではないだろうか。
 北川 そうしますと、欲望の充足を至上命令とした物質文明が、すべての生命の「我」を、三悪道や修羅界にひきずりこもうとしている根源というか理由を、どういったところに求めればいいでしょうか。つまり、文明に内在する悪ということですが……。
 池田 ここで、ふたたび、仏法に説く欲望論に目を向けてみよう。前章でもふれたことだが、もう一度、要約すると、仏法では、欲望の性質やその充足の段階に応じて、六つのカテゴリーに属する生命の境地を示している。地獄界から天界の欲望までです。
 ところで、仏法の欲望論の特色の一つは、欲界の頂上に、第六天の魔王が住む、と明記していることだと思う。魔王などというと、先入観念がわざわいして迷信めいて受け取られやすいが、現代的にいう「欲望の魔性」とでも呼びうるのではないだろうか。
 北川 権力に巣食う魔性を権力の魔性といいますし、資本そのもののもつ悪魔的性格を資本の魔性と呼んでいます。また、科学の魔性を指摘する人もいます。こういったことから考えますと、欲望そのものに内在する悪の性質をさして、「欲望の魔性」と定義できそうです。
3  川田 ところで、仏法で説く欲界の頂上とは、他化自在天のことですね。
 池田 そう、そこに、第六天の魔王が住んでいるというのです。″他の化作したものを自在に受けるという″ごとく、欲望の魔性は、他の生命的存在を支配し、所有し、自己の思うがままにあやつり、そのこと自体に喜びを感じるのです。
 川田 私たち自身の生命のなかにも、自然や他者を支配下におさめ、自由に動かし、悪魔的な喜びにひたろうとする欲望がうごめいていますね。
 池田 そういった意味では、すべての欲望が、魔性をおびがちであるとも考えられる。だが、もっとも顕著に、生命の魔性が姿をあらわすのは、支配欲であり、権力欲であるように思われる。
 川田 物質に向かう所有欲、人間関係では自己顕示欲とか名誉欲などにもひそんでいますね。
 北川 この点について、ニーチェが権力への欲望を、人間のあらゆる欲望の根本においたのは、高く評価されるのではないでしょうか。アドラーは、精神分析の立場から、権力への意志を追究していますが……。
 池田 仏法の見識に近いと思う。
 北川 フロイトも、一般には性欲中心説のように考えられており、また、たしかにそう受け取れる面もありますが、彼の晩年の学説では、生の本能とともに死の本能を見いだしています。死の本能とは、生命を破壊に導く本能です。
 池田 死の本能も、また、マルクーゼの提示する死の衝動なども、欲望の魔性の働きの一面だと思う。他者を奴隷のごとくあつかい、生命本源の力を奪いつづけるのが、他化自在天の本性だからです。
 川田 まるで、西洋の吸血鬼みたいですね。
 池田 仏法では魔性とは何かということについて、ずばり「奪命者」とある。生を破壊し、生きる力を抜き取っていく、そして、すべての生命的存在を地獄の苦悩におとしいれる、そういった働きを魔性と表現したのです。
 さて、仏法の欲望論は、権力、支配、所有などの欲望の、もう一歩深いところにまでおよんでいると推せられる。つまり、これらの欲望にその姿をあらわす第六天の魔王の正体は何か、ということを人間存在そのものの内奥に追究していったのです。
 日蓮大聖人の「治病大小権実違目」には、「元品の無明は第六天の魔王と顕われ」とあります。欲望のもつ悪魔的性格をもたらす本体は、「元品の無明」であるというのです。「元品」とは、生命存在の根本にあり、本然的にそなわっているという意味だと思う。「無明」とは「明らかなること無し」という意味で、生命の本質に昏いことをさしています。
 では、「元品の無明」とは具体的にはいかなるものかといえば、私は、生命の「我」自体に本来的に内在するエゴイズムの実体であるといえると思う。また、欲望の魔性との対比からすれば、それは、生命そのものの魔性であるともいえるでしょう。
 この生命の魔性が、欲望の魔性としての形をとり、それは同時に、人間の自我にくい入って、利己的で、排他的で、独善的な自我としての姿をとるのであろう。したがって、欲望も自我もともに、エゴイスティックな性質をあぎやかに示すにいたるのです。

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