Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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宇宙の源流  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
1  宇宙はどういう姿をしているか
 北川 前章では、過去、現在、未来という時間的な流れについて、少しく考察を加えてみたわけですが、こんどは、われわれを取り巻いている「空間」について取り上げてみたいと思います。
 空間は、とくにわれわれの住んでいる世界そのものであるところから、過去や未来といった茫漠としたものでなく、たしかな「手応え」といったものがある。いわば「触れる」ことができる対象と関連づけられやすい。そのため、空間の性質は幾何学等の発達に見られるように、比較的早くから探られてきたように思います。
 「宇宙」は、われわれを取り巻く「空間」の極大の像であるといえるでしょうが、これについても、人類は古くから手探りしながら、その真実相を見きわめようとしてきた。どんな民族でも、独自の宇宙像を描いており、それが、それぞれの民族の生き方、哲学の一部を形成してきました。
 人間が、地上からほんの十メートルさえ跳びあがることもできなかった時代から、宇宙という未知の世界に深い関心が寄せられ、天文学という一つの分野を築いてきました。とくに近代においては、望遠鏡やロケットの開発によって、宇宙のベールが少しずつはがされて、その姿が徐々にわかってきた。アポロによる月旅行は、その力強い第一歩であったともいえます。
 天動説と地動説の対立に見られるように、地球が宇宙の真ん中にすわっている、というような宇宙観も、長い間、支配的であったわけですが、途中でどんどん淘汰されていった。このようにして、現在では、二大宇宙論が残っています。
 池田 進化宇宙論と定常宇宙論だね。
 北川 そうです。もちろん、分け方によっては、進化宇宙論は、爆発説と振動説に分けられますが、本質的には宇宙を「進化」という観点でとらえるか、「定常」状態としてとらえるか、の二つの立場と考えてよいと思います。
 川田 宇宙論で、なんといっても、一番の大きな転換点は、地球が動いているということを発見したことですね。コペルニクス(ポーフンドの天文学者。一四七三年〜一五四三年)が地動説を打ち出し、ガリレオ(イタリアの物理学者、天文学者。一五六四年〜一六四二年)がそれを確定づけたわけですけれども、それまでは、地球が宇宙の中心的存在というか、不動のものであるとして、だれも疑わなかった。
 ところが、地球こそ太陽の周りをまわるものであり、その太陽も、中天に輝くたくさんの星々と、なんら変わることのない恒星の一つであること、さらに、太陽系自体が銀河系宇宙では、ごく端っこにあること、銀河系それ自体も、大宇宙に点在する多くの島宇宙の一つであること、などがわかってきたわけです。その知識への出発がコペルニクスであった。
 いまでは、なにか革命的な発見や転換が行われると、″コペルニクス的転回″と表現されるほど、この発見は画期的なものだったわけですが、それと匹敵する大きな発見が近代天文学史上で行われた。それが膨張宇宙論ですね。この発見が二大宇宙説の源流となっています。
 アインシュタインでさえも、ずっと、宇宙は静的なものとして考えてきた。ところが、ハップル(アメリカの天文学者。一八八九年〜一九五三年)がスペクトルの赤方偏移を発見して、宇宙像はまったく変わってしまったわけです。ハップルの発見したことを、かんたんにいいますと、星がぐんぐん遠ざかっているときは、その星から出る光の波長が長くなるのですね。ということは、色が赤くなる。そして、この波長のずれは、ちょうど、星が遠ざかっていく速度に比例している。ハップルの法則というのは、まあ、こういったことでしょうか。
 北川 そうですね。遠くの恒星ほど、その光が赤いほうへずれていることが観察されたわけです。つまり、波長が長くなっているわけですが、これは、たった一つの説明しか、現在ではできない。それはドップラー効果です。
 たとえば、電車と電車がすれ違うと、警笛が高い音から低音に変わっていく。これは両者が遠ざかるときには、音の波長が長くなって聞こえるからで、これと同じように「星がこの地球から見て遠ざかりつつある」と考えるしかない……。
 川田 静かで悠久なものだと思っていた宇宙だが、おたがいに恐ろしい速度で離れつつある、いいかえれば「膨張している」というわけです。そこで二つの考えが生まれた。
 一つは、それだけ離れつつあるというのは、それをさかのぼって考えれば、むかし、ある時期には、全宇宙は、ほとんど一点に集まっていて、そこから急に爆発したのだろうという説。そしてもう一つは、宇宙のあらゆる場所で一定の割合で、物質――つまり水素――が創造されていて、宇宙の膨張と相殺しており、宇宙は定常状態をたもっているという説です。
 池田 爆発説によると、宇宙は、だいたい三百億年ぐらい前に、急に爆発を始めたことになりますね。そうすると、どうしても、三百億年前という時点に特異点を認めなければならなくなる。そこで急に爆発を起こして、現在ある各種の元素など根本的なものは、最初の三十分ぐらいで、できてしまったということになる。
 では、その前は、となると、それはもう、物理学の手に負えないということになっていますね。非常に不思議なことだけれども、それを認めるしかないというのが、爆発説のようです。
2  北川 そこで、振動説という説明が出てくる……。
 池田 そう。現在ある膨張が、だんだん速度をゆるめて、端のほうで収縮を始め、やがて、ふたたび全宇宙は収縮する。そして、また膨張するというように、宇宙は一種の脈動を繰り返しているという説だね。これも現在、収縮が始まっている兆候が見られないという点が問題になる。
 川田 定常宇宙論では、物質が創造されるということが、いまの物理学の常識を超えたものとして受けいれられていませんね。
 池田 この定常宇宙論というのはおもしろい発想です。かぎりなき創造によって、泉のごとく、つねに波紋は外に広がっているが、全体として見れば、つねに同じ状態をたもっているという考えは、宇宙の無始無終への願望みたいなものを感じますね。
 しかし、この定常宇宙論をはじめ、進化宇宙論のいずれも、決め手となるものをもっていない。一時、定常宇宙論が誤りであるという観測事実が示されたこともあるが、それも決定的でないともいわれている。したがって、どれが正しく、どれが誤っているというのは、現在では決められない状況です。
 現在の観測手段では、まだまだ、遠い空間のことはわからない。また、わかったとしても、三百億光年ぐらいになると、星がほとんど光速で遠ぎかっているとなれば調べようがありません。
 したがって、物理学的宇宙というのは、直径二百億光年の球、時間的には三百億年前までのものをいうともいえるね。この数字は、途方もなく大きいにはちがいないが、あくまで有限です。いかなる宇宙論にせよ、この範疇を出ることはない。それ以上のことは、想像する以外にないわけです。
 たとえば、以前にもいったことがあるが、現在、膨張しつつある宇宙というのも、さらに大きな単位の宇宙の一つかもしれないわけです。そこでは、どんどん収縮しているかもしれない。また反物質ばかりでできている宇宙も別にあるかもしれない。ともあれ、境界というものは、どこまでいってもない、といわなければならないでしょう。
 北川 仏法では、そうした無限性を暗示していますね。
 池田 そうです。たとえば、三千大千世界という考え方がある。これを述べると長くなるが、日、月、四州、六欲梵天をもって、一世界、あるいは、一小世界とし、それが、千個あるいは一千万個集まって一小千世界、そのまた千個の集合体が中千世界、さらにこの中千世界が千個集まって大千世界(三千大千世界)となる。
 これを現代の宇宙についての常識で考えると、一世界は一つの恒星を中心とした世界と考えてよい。そうすると、小千世界は銀河系のような島宇宙、中千世界ともなれば、星雲団として考えなければならない。となれば、大千世界は現在知られている大宇宙全体の規模で考えることが必要となる。「法華経」の「寿量品」にいたっては、五百千万億那由佗阿僧祗の三千大千世界と説いている。これは宇宙の無限を、可能性として認めていることです。
 しかも、この三千大千世界の考え方というのは、宇宙が無秩序な空間であることを否定しているところに特色があるといえる。一つの世界は、さらに大きな世界の構成員となり、それはまた、より大きな世界を形づくっていくという、一種の「階層性」を示しているわけです。
 惑星が太陽系を構成し、恒星の集まりが島宇宙、そして星雲団、大宇宙へという現在の宇宙観と、仏法の発想は、まったく同じだといってよい。
 何千年も前に説かれた経典だから、科学的知識それ自体は古めかしいとしても、宇宙をとらえる直観的な洞察力は卓抜しているといえるのではないだろうか。
3  川田 それに、先ほど述べたように、かつては地球を宇宙の中心と考えていたけれども、それがどんどん打ち破られてきた。そして大宇宙という規模で考えれば、地球は、その片隅にあるちっぽけな星であることがわかってきたわけですが、仏法においては、十方の仏土観というものを説いているわけですね。仏土というのは、生命論からすると、私たちのような知的生物が存在する世界といえましょうか。むろん、形とか、物理的・化学的な構造などは、私たちと異なるかもしれませんが……。
 十方というのは、四方八方と上と下ですね。つまり、三次元的な全方向をさすわけですから、宇宙的規模において、仏土を考えていたことになる。「仁王経」という経文には「大王吾が今化する所の百億の須弥・百億の日月、一一の須弥に四天下有り」(大正八巻832㌻)とありますが、どの世界においても四天下を考えていたということになると、その宇宙観の雄大さには目をみはるものがあります。
 池田 そうですね。宇宙というものが、途方もなく広大な空間でありながら、微細な塵埃にいたるまで、みごとな秩序をもって構成されている。しかも、それぞれが、成住壊空、生住異滅の変転を繰り返しながら、全体としての大宇宙は、無限の広がりをもって脈動している。こうした実相を見とおした仏法の宇宙観には、現代人のわれわれも剖目すべきものがあるといえるのではないだろうか。
 北川 星というのは、だれでも虚空に浮かんで不滅の光を放つ存在だ、といちおうは考えます。しかし、一瞬一瞬、激しい変容を繰り返しながら、星が誕生し、成長し、安定し、そして老いて崩壊へとその一生をたどる。こうした成→住→壊→空の″法″を、どの存在もまぬかれることはできません。
 現在、地球は安定した″住″の期間、すなわち、壮年期にあることは、だれしも認めるところですが、将来、太陽がいまの安定した状態から崩壊期に移るとともに、それに呑みこまれて破滅するであろうことも、同じく疑いありません。星よりさらに大きな星雲にあっても、そうした変化を繰り返している。仏法は、こうしたさまざまな変化をあらわしている″法″を考え、それが大宇宙に厳然として常住していると考えるわけですね。
 池田 仏教が他の宗教といちじるしく違う点は、こうした覚めた法の眼で如実知見、つまり、ありのままに見ようとしたところにある。仏でさえも、その法を知った″覚者″としてとらえられている。その点、自身がそのまま法として君臨する″絶対神″の思想とは根本的に違うところだね。それがそのまま宇宙論にもあてはまるということでしょう。
 この成住壊空の考え方は、一見すると、日蓮大聖人の「観心本尊抄」の「三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり」という文と矛盾しているように見える。しかし、ここでいわれている意味は、「妙法」という法は、三災とか四劫というような現象の変化を超えて常住していくということでしよう。
 三災というのは、仏法では、水災、火災、風災といって、成住壊空の流転のなかで、壊劫という時代の終わりに起きるとされている。つまり、大地も、海も、大空も、すべてが壊れ、焼けただれ、破壊されてしまうことだね。
 また、四劫とは、成劫、住劫、壊劫、空劫の四つの劫をさす。つまり、成住壊空だね。一切の世界、どんな星も、この二災、四劫という変化をまぬかれることはありえない。われわれも地球に住んでいて、いつまでも繁栄しつづけるというわけにはいかない。″壊″の時代がくることはとうぜんです。
 しかし、「妙法」という法は、地球が、どう変化しようが、常住であり、それは宇宙のいたるところで輝きを放っているはずだ、と私は思うのです。
 川田 これは仮定の話ですけれども、もし、他の天体に高等生物がいたとして、われわれとどの部分が一致するか。数学や物理学、化学などの自然科学が共通し、政治、経済、芸術等の人文、社会科学は共通しえないのではないかというのが通論ですが、私は、生命の普遍的尊厳を中心とした哲学の分野に関しては、共通しうる面があるのではないかと考えているのですが……。
 池田 おもしろい意見だね。仏法が世界的、宇宙的普遍性をもった哲学であるというのはたしかです。また、そうでなければならないというのが、われわれの確信であり、だからこそ、この仏法の理念に生きる私たちは、地球上から低次元の抗争を止揚し、克服して、恒久平和の社会を築きあげねばならないのです。

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