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時間の謎  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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1  万物は時を刻む
 北川 時の流れというのは不思議なもので、同じ一年が数十年以上も経過してしまったように思われることもあれば、逆に一瞬のうちに過ぎ去ったように感じられることもあります。そのように「時」というものは、とらえどころのないほど奇妙というか、おもしろい存在ですね。存在といっていいかどうか、わかりませんが……。
 川田 時の多様さということで思い出す、ある学者の次のような言葉があります。「この世の中にあるものすべてのうちで、もっとも長く、もっとも短いもの、もっとも速くてもっとも遅いもの、もっともこまかく分けられながら、しかも、もっとも長くのばされるもの、それが時間である」。
 スフインクスの謎みたいな言葉ですが、よく味わってみると、時間のもつ性質を、みごとにあらわしていると思います。ちょっと″ナゾナゾ遊び″みたいですが……。
 池田 おもしろい表現だね。時の本質をずばりといいあてている。
 たしかに、楽しみの時は一瞬に過ぎ去り、苦悩にあえぐ時間は、なかなか進まない。恋人とのデートの時間などは、この世の中で、もっとも速く過ぎていく類ではないかね(笑い)。逆に、病の苦痛にさいなまれる時間は、無限につづくかと思われるほど長い。時計の針の、のろのろした動きがうらめしく思われるにちがいない。
 北川 時計の示す時間は同じでも、それを感ずる長さは、私たちの生命状態によって、さまざまに変化するわけですね。
 池田 長くもなれば、短くもなる。速くもなれば、遅くもなる。同じ時間でありながら、なぜこのように千変万化に感じられるのか。ここに時間を生命論のうえから考えるポイントがあるといえるね。
 川田 ギリシャの哲学者アリストテレス(前三八四年〜前三二二年)は「時間とは、万物の運動をはかる基準である」と定義しています。
 たとえば、新幹線ひかり号が、時速二百キロぐらいのスピードで走っている。そうすると、一秒前と一秒後とでは、ひかり号の位置が違いますね。つまり、ひかり号は運動したわけです。どれぐらい位置を変えたか、つまり、運動したかを、時間単位で知るわけですね。そこで秒速いくらとか、時速いくらといった表現ができる。
 また、カントによれば、私たちが、こういう認識ができるのは、人間には時間と空間のワクをとおして、万物を見る力がそなわっているからだということになります。つまり、時間とか、空間もそうですが、人間の意識に、もともとそなわった心の能力であると……。
 池田 そのような人間の能力が、時間の感覚をもたらし、また、時計のあらわす″時刻″をつくりだしたといえよう。このような″時刻″は、天体の運行、あるいは振り子などといった規則的な運動体によって、人間がつくりだした、いわば時間の「ものさし」であるわけだ。
 むろん″時刻″は、社会生活を営むにあたっては、きわめて便利で貴重な代物だと思う。その実用価値は、はかりしれないほど大きい。しかし、時間のすべてを考察しようという場合には、″時刻″としてあらわされる時間の奥に、私たち自身の生命が感じている、時間のさまざまな姿を見ることが要求されるでしょう。
 北川 それと、時間の考察にあたっては、とうぜん、空間のことも念頭におかねばなりませんね。
 池田 そう。私たちは、時間とか空間などを、実在するものとして考えがちだが、実在しているのは、運動し変化している宇宙、物体、生命である。その宇宙の運動、物体の変化、生命の生生流転を認識する枠組みが時間であり、空間なのです。
 つまり、この両方のからみあいによって運動や変化を知るのですから、もともと、時間と空間は、ともにからみあい、融合していると考えられる。空間を排除した時間も、時間のない空間も観念のうえではありえても、実在の世界ではありえないと思われる。
2  北川 さて、ものの順序として、まず、時計の成り立ちから考えてみたいと思います。時計が示すのは「時刻」ですが、この「時刻」は、どのようにしてつくりだされたかということですね。
 現在まで、時計の原型であり、基準としての役割を果たしてきたのは、いうまでもなく、天体の運行です。私たちの使っている一年という単位は、地球が太陽をめぐる公転を意味していますし、一日は、地球の自転を単位にしています。その一日を、二十四時間のリズムに区分し、細分して、時間、分、秒の単位をつくりだしましたが、これらの「時刻」は、すべて、天体の周期的な運動から割りだされたものです。
 ところが、一九五〇年(昭和二十五年)ごろからは、量子論という学問に基礎をおく原子時計が脚光をあびています。おもに、秒以下の時間の測定に使われるのですが、高精度の原子時計が発明されています。セシウムという原子の固有振動、つまり、規則正しい運動を利用して、一秒間をきわめて正確に決めることができるようになったとされています。
 川田 すると、地球の自転を基準として割りだした「一秒」と、原子時計の刻む「一秒」との間に、食い違いはないのですか。
 北川 ごくわずかですが、ギャップが生じています。いままでは、地球の自転を単位にした一日を、八万六千四百分の一に区切って、それを「一秒」と決めていたのですが、原子時計での「一秒」とくらべると、ほんの少しだけ長くなっているのです。
 その原因は、地球の自転速度が遅れてきたことにあります。具体的な数字をあげれば、一九五八年(昭和三十三年)から七一年(昭和四十六年)末までの十四年間で十秒、一年に直すと〇・七秒だけ、地球の自転が遅れてきているのです。
 川田 最近は、原子時計が基準ですね。そうすると、一年間に〇・七秒だけ足さないと地球の運動で測った「一年」にはならない……。
 北川 ええ、そういうわけです。そこでこの二つの「時刻」を調整するために考えだされたのが、「うるう秒」で、一九七二年から二回ほど実施されています。
 一回目は一九七二年の七月一日で、午前八時五十九分五十九秒のつぎに、五十九分六十秒がくるのです。そのつぎに六十分、つまり、午前九時〇分〇秒となるのです。「一秒」だけ、人工的に加えて、原子時計の「時刻」と、天体の運動を基準にした「時刻」を調整するというわけです。「うるう秒」が加わると、なんだか、「一秒」だけ得をしたような、といっても、変わりがないような……。(笑い)
 池田 ずいぶん、精密な話だね。原子時計の開発によって、こんごもますます、天体をはじめとする万物の運動が、正確に測られるようになるだろうね。
 川田 ところで、私たちが、時刻を具体的に知るのは時計です。その時計は、振り子や原子の周期的な振動を基準にしてつくられていることになりますが、時計というのは、文字盤の上を、長短各種の針が動いているだけですね。
 物理的に考えると、四角や丸の空間を、長針と短針が、それぞれの運動を繰り返しているのが時計です。一定空間を一定速度で動いているというこの運動の規則性から、時間の経過を規則的に知ることができるようにしているわけです。
 このようにつきつめてみると、時計の示す「時刻」と、時間そのものとは、まったく別のもののように思えてきます。
 池田 「時刻」というのは、物理的、客観的な時間をさし示すものといいなおしてもよいでしょう。その「時刻」を具体的に示す道具が時計だが、時計の生い立ちからもわかるように、時間とか、分とか、秒といった物理的な時間の単位は、天体や原子の規則正しい運動を観察して、そこから、人間の英知が考えだしたものだね。
 では、どのようにして、人間の頭脳が、太陽や地球や原子の運動から、人工的な「時刻」を考えだしたかというと、一口でいうと、だれにでも見える自然現象のなかで、もっとも規則正しく時を刻む天体の動きを、振り子と歯車による空間運動に移しかえたのだね。
3  北川 そうですね。たとえば、いまでも、よく公園や学校の校庭などに日時計があります。中央に一本の棒を立てておくと、その影が、西から東へと動いていく。影の動きによって「時刻」を知ることができるわけです。
 この、日時計と地球の自転の関係は、日時計の棒の影の動きは、地球の自転速度をそのまま反映しているわけで、つまり、地球がその回転によって示している時の歩みを、一本の棒の影の動きという運動に移しとったのが、日時計の原理と考えられます。
 現在、私たちの使っている時計も、原理的には同じことなわけです。原子の運動を、腕時計や柱時計などの、秒針や長短の針の動きで示し、一定空間内の運動としてあらわしているのですから。
 池田 だから、時計を穴のあくほど見つめても、そこには時間そのものは存在しない。ただ、時計の文字盤というのは、空間を固定化することによって、そこに運動する針の位置が、一目瞭然に時間の経過を示すようにしたものといえるでしょう。
 北川 しかし、このように天体などの物質の規則的運動によってとらえた時間は、客観的な「ものさし」にはなりうるにしても、決して、それが時間の本質をとらえたものではないと思えるのですが。
 池田 物理的な時間は、天体や原子などの無生の存在が織りなす機械的運動の規則性によってとらえたものだ。したがって、天体の運動を基準にしようと、原子のリズムを基準にしようと、そこにとらえられる時間体系は、そのまま空間化して認識することができる。
 こうした太陽や地球や原子、素粒子などの運動によってとらえられた時間は、ふつう″物理的時間″と呼ばれるが、それは、客観化された時間概念といえます。
 つまり、これらの天体運動の規則性は、少なくとも地球上に生存しているあらゆる人々にとって、等しく観察されうるものであり、また原子や素粒子の運動の規則性は、どこで観察しても同じ結果を示すがゆえに、時間の経過を見るための客観的な「ものさし」になりうるのです。
 こういった客観的な運動と違って、生命体の内には、それ自体の独自の変化が絶え間なく行われている。肉体上の生理的変化は、外界の影響に左右されやすいから、生命の生成以来、繰り返されてきた四季の変化に対応し、それと同じリズムで変化を繰り返している面がある。
 私たちの生命も、太陽系の一員である地球の上に生息している以上、その生命活動の大きな部分が、大自然の律動にのっとって営まれていることは、とうぜんです。人間生命は、宇宙万物の動きに適応し、そのリズムを取り入れているのだからね。
 ちょうど、大海に生きる魚が、塩水をはなれて生きられず、体液の成分に種々の塩類を取りこんでいるようなものだ。だが、魚の体液は、海の水とまったく同じではない。各種の塩類を吸収しつつも、それを自分なりにつくりかえて、その魚独自の体液を形成している。
 これと同じように、人間生命も、自然のリズムにひたり、その荒波にもまれながらも、生命独自の流れを築いているのです。
 川田 そうしますと、生命の刻む変化のリズム性には、客観的時間と対応するところもあるのですね。

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