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日蓮大聖人・池田大作

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生命をとらえる眼  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
1  夢の話
 川田 少し前の話になりますが、夏目漱石の小説『夢十夜』に出てくる夢の話、あれは本当の夢のことを書いているのか、それとも創作なのかで話題になっていたわけですが、それが大脳生理学で「本当の夢を書いたものらしい」ということになって、注目されたことがあります。
 徳島大学の松本淳治教授が研究した結果なんですが、「真白な頬」「大きな赤い日」「闇だのに赤い字」など文中にあらわれている色をはじめ、視覚、聴覚、嗅覚などの頻度も、通常の夢と同じ分布をしていることなどから結論したそうです。(『眠りとはなにか――眠りと夢の世界をさぐる』講談社、参照)
 文学の世界にまで大脳生理学が乗りだして分析するとなると、いくぶん詩的興趣が失われて、芥川龍之介の『侏儒の言葉』(岩波文庫)のなかにあるように「地球は何度何分回転し」といったふうになってしまうような感じがしますが、それとは別に、作家の思わぬ心の内面がうかがえることもあって、また違ったおもしろさが出てくる可能性もあります。
 そういったこともあって、『夢十夜』をもう一度読み返してみたんですが、そのとき「夢」というものは、まったくおもしろいものだ、とつくづく感じました。
 非常に現実から離れた展開を示しますし、飛躍ばかりする。『夢十夜』の場合は小説ですから、ある程度の脚色はあるようですが、現実の夢に一貫性を見いだすことはむずかしいですね。それでいて、妙に心の奥底まで見透かされているというか、内面に隠れている、あるいは隠しておきたい部分があらわれているようです。といって、覚めてしまえば、現実生活とは、ほとんど関係がない……。と、まあ、こういってしまえば、フロイトの『夢判断』に書かれたことなどをあげて、反対する人もいるかもしれませんが……。
 池田 眠っているときにも、外からの刺激には反応しているのだろうね。
 川田 はい。たとえば、フロイトのあげていることですが、鼻の先を筆や羽毛でくすぐると、拷問の夢を見たとか、ハサミでピンセットをたたくと、夢のなかで鐘の音が聞こえたりするそうです。(フロイト著作集2』所収、高橋義孝訳、人文書院、参照)
 こういった関係は、いちおう成り立つそうです。でも、現実に起こっていることと夢の内容は、まったく違いますね。また、ときには、心の中で、無意識にですが、ずっと執念深く(笑い)想っていたことが、ちょっびり夢のなかに顔を出すこともあります。まあ、それでも、事実そのものではない。その想いが、まさしく現実になることはあるでしょうが……。
 北川 私は、あまり夢を見たことはないんです。といっても、脳波を検査すると夢を見ていないのではなく、夢は、だれでも見ているのだけれども、それを記憶していないだけらしいのですが、夢というのは、とにかく奇想天外ですね。
 ただ「うつつ」と比較されて、現実味のない典型とされる「夢」が、じつはその「寤」ともっとも縁の深いものであることを、フロイトが明らかにしだしてからは、夢が、心の深層部分を垣間見させてくれる格好の材料だとわかったわけです。
 しかし、覚めてしまえば、現実生活とはほとんど関係がない。生命のもっとも深い部分と密接していながら、日常には、ほとんどあらわれてこない。いったい、夢というのは、どういうものなのか、きわめて不思議な事柄のような気がします。
 池田 今回は夢談義だね(笑い)。たしかに、夢というのは、ちょっと常識では理解できないことが多いが、これも夢に限ったことではないと思う。
 たとえば、人間の意識とか心というもの自体、とらえどころがない。「身体と心」の章でもふれたが、人間の精神作用は、肉体をその発現の「座」にしていることは疑いない。
 では、そのなかのどこにあるのか。「心の内」とか「腹黒い」とかいっても、心臓や胃にあるわけではもちろんない。では脳細胞にあるのか。脳細胞そのものが、意識とか心であるとはいえない。脳細胞はそれらの発現の「座」であり、場であるにすぎない。意識、心そのものは、身体のどこを探しても、どこにも存在しないでしょう。しかし、身体を離れては一瞬も形成されない。
 川田 身体を座としていながら、そのもの自体を明確につかむことができないという意味では、夢における心とか精神の働きも、寤におけるそれらも同じだということですね。
 池田 寝ていて身動きしない自分が本当なのか――といっても、夢を見ているときには、眼球なんかはぐるぐる動いているそうだが――夢のなかで自由に動き回っている自分が本当なのか。夢は睡眠中の精神活動だから、幻のようなもので、関係がないといってしまえば、それまでだが、そうばかりとはいいきれない。
 また夢のなかでの自己は、苦しんだり、喜んだりしている。外見はどうあろうと、生命の起伏は厳然としている。
 仏法には空という概念があります。有か無かを超えた考え方ですね。夢という現象は、この空という概念を理解するための糸口になると考えていいでしょうね。
 川田 夢が、通常の概念でとらえきれないということは、いいかえれば、時間・空間の物差しでは、とらえられないということにもなりますね。常識的に考えても、夢には、時間とか空間という枠組みはないわけです。といっていいすぎならば、少なくとも崩れている。時空概念に秩序だてられる以前の混沌の状態ともいえます。
 では、そういう状態を、どう把握すればいいのか。夢という象徴的な事柄から話が始まりましたが、生命現象の一切を解明するのに、仏法の知恵は、どのような物差しを考えているのか、ここでは、こういったことを中心に話しあっていきたいと思います。
2  変転きわまりなき世界=仮=
 川田 空という概念が仏教独自のものですので、その空とか、また、その他の仏法の認識方法を述べた日蓮大聖人の著作から、参考になる個所を選んでみました。
 そこでまず「十如是事」には「我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く如是相(中略)如是本末究竟等文、初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり」とあります。
 だいぶ、仏教用語が入っていますが、このなかで「仮諦」と「空諦」と「中道」という言葉に着目して考えていきたいと思います。「中道」は「中諦」ともいいますから、この二つを合わせて「三諦」というのですが、ここにあらわされている空仮中の三諦が仏法の認識論の根本的なものですね。
 池田 「諦」というのは「審諦しんたい」ということで、″あきらか″という意味です。空・仮・中の三つの立場からものを見るとき、生命の本質、さらに広くいえば、宇宙の森羅万象の実相がことごとく明らかになるということでしょうね。これはおもに天台が確立した真理観だけれども、仏法がものを見るのに、固定した視点からすべての現象を判断しようとするのでなく、柔軟な姿勢でものを把握しようとしたことがうかがえるね。また、そうでなければ、生命のような、不思議なものの本質を見きわめることはできないということです。
 北川 少し余談になるかもしれませんが、数学においても、いまいわれたようなことがいえます。たとえば、ユークリッド幾何学の有名な「直線外の一点を通って、その直線に平行な直線は一つあって一つに限る」という第五公準は、長い間、人々に絶対の真理と考えられてきたわけですが、それも空間の一つの見方、立場であったわけです。平行線は無数にあると考えても、一つの幾何学ができあがるし、また、逆に一つもないと考えてもよい。
 たとえば、球の表面を平面と考え、球の大円――つまり球と球の中心を通る半円とが交わってできる円――を直線と考えた場合は、直線外の一点を通る平行線は一本もない。逆に、馬の鞍のような平面を考えると、平行線は無数にあることになります。非ユークリッド幾何学がそうしてできあがっているわけですが、それが立派にアインシュタイン(アメリカ〈ドイツ生まれ〉の理論物理学者。一八七九年〜一九五五年)の一般相対性原理の証明などに役立っているわけですね。現代数学、物理学などは、非ユークリッド幾何学なしには考えられなくなっています。
 というより、現実の宇宙空間自体が、非ユークリッド空間ではないかとさえ考えられている。たとえば、アインシュタインは「有限ではあるが限りがない」という奇抜な四次元空間が、この宇宙の実像だといっています。まっすぐ上へ上がりつづけると、宇宙の「縁」をまわって、もとへもどってくるというのですね。
 川田 私、よく、やさしく書かれた物理学の書物を見るのですが、そこに、この有限ではあるが、しかも限りがない、ということを説明するための図が描かれてあります。それを見て、宇宙というのもこんなものかな、と少し実感がわいたのですが、その図では四次元より一つ次元をおとしまして、三次元で説明してあります。四次元だとちょっと図に示すことがむずかしいんでしょうね。
 それは、ちょうど、風船玉がありまして、そのうえを一匹のアリがはっていく。アリは、その風船玉の表面を一生懸命に歩いていく。とうぜん、ひとまわりすれば、もとのところへもどっているのですが、それでもまだ歩いていく。いくらでも前へ進めるのですね。だから、限りがない。しかし、もとにもどって何回も同じところを回っていますから、有限なんですね。アリには、それがわからない、といったようなことです。
 北川 そういう図がよく示されていますね。まあ、一つの参考にはなるでしょう。ところで、数学とは少し違うかもしれませんが、とくに生命、宇宙といった本質的なものを的確につかもうとすれば、固定的な見方ではとらえきれないものがあるのではないでしょうか。
 川田 たとえば、緑色のかかったサングラスをかけている人には、世界全体が緑がかって見える。もちろん、そんなことはないでしょうが、もし生まれ落ちたときからサングラスをかけられていたら(笑い)、その子は、世界はそういうものだと思いこむはずです。それでも立派に一つの世界観が構成されていくわけですが、それでは世界を通常の色彩でとらえてはいない。
 同じように、ある一面の見方だけで宇宙や生命について、一つの概念を構成したとしても、それが宇宙と生命の全体的な把握といえるかどうかは疑問ですね。精神とは脳神経細胞の様態であると考えたり、森羅万象をすべて分子、原子の状態に分割して考えたりしても、それはそれで一つの世界像は構成されるとしても、あくまでも一面の真理であって、総合的な把握とはいえないと思うのです。
 池田 これから空・仮・中のそれぞれの見方を話しあっていきたいと思うけれども、仏法のこうした柔軟な見方が、これまでは、逆に「あいまい」であるとして、軽んじられたり、非科学的だとして、排されてきた傾向があるね。とくに、仏教経典では、神秘的、詩的、抽象的、譬喩的な表現が多く用いられているため、そうした本質がよく理解されなかった面があるのではないだろうか。
 その点、西欧哲学や科学の、イエス・ノーのはっきりしている厳密な論述の仕方は、あいまいさがなく、明快なところから、より強く受けいれられてきたともいえるような気がする。しかし、こうした特質をふまえたうえで、仏法の柔軟な、多面的なものの見方というものが、そろそろ見直されていかなければならないのではないかと思う。科学の発達が、生命・宇宙のますます複雑微妙な諸相を明らかにしていきつつある現状は、東洋的とくに仏法的なものの見方、知恵を強く要請していることを、私は痛切に感ずるのです。
3  川田 それでまず「仮」ということですが、先ほどの「十如是事」には「我が身の色形に顕れたる相」とありますね。「色形」とは、私たちが現実世界に「延長」としてとらえることができるもの、いわば空間的な広がりとして把握できる側面をいうと考えられます。
 北川 もちろん、色形といっても視覚に限られるのではなく、科学の「眼」でとらえられるもの、たとえば、電子顕微鏡では、原子の単位まで観測しうるようになっていますが、それらも含まれているわけですね。
 川田 いや、それだけではないですね。音波としてとらえられるものなども、色形と考えてよいのではないでしょうか。
 池田 それらを含んで「量」として測定できるものすべてを「色形」と考えていいでしょうね。それを「仮」と見るのが、仏法の考え方なのです。つまり「変化」という見方ですね。あらゆる現象が変化してやまない、仏法的な表現をすれば、″因縁によって仮に和合している″のだ、という認識の仕方です。
 北川 「仮」と見るのが、おもしろいですね。
 池田 そう。現実相を見るのが仮だけれども、その奥に真実があるという発想が、この「仮」という表現にあらわれているね。
 しかし、たしかに宇宙、森羅万象の現象は、ことごとく移ろいゆくものであることは疑いない。これは、人間生命とても同じです。成住壊空、生住異滅、生老病死、それぞれ一瞬もとどまることのない世界・生命の諸相を分析している。なのに、それが変わらないものだと思いこみ、執着するところに不幸の原因がある、というのが仏法の思想です。そこで一切は転変つね無きものだとしても、この無常の世界にどう対処するかが問題です。
 それをどう乗り越えていくか。逃避するのか、挑戦するのか。以前、書いたことがあるのだけれども、諸行無常というのは、人生のはかなさ、栄枯盛衰を示す諦観主義だと、現在では受け取られているが、本来は、変化してやまない森羅万象の動きの本質を見つめるところに、真実の幸福への鍵があると説いた卓見なのです。
 北川 そういえば、諦という字も、「あきらめる」すなわち、明らかに見るという意味であるにもかかわらず、放棄するとか逃避するというように考えられていますね。明らかに見た結果、自分が無力であることがわかって逃避したのでしょうか。(笑い)
 池田 それはともかく、仏法においては、そのように、宇宙の森羅万象を「仮」であると見ながら、しかもそれが「和合」していると認識している。衆生というのは、五陰が仮に和合した姿だというのですね。
 川田 「身体と心」の章で、放射性物質を使ってのデータをあげたことがありますが、人間の身体は、一瞬一瞬、新陳代謝を繰り返していることは事実ですし、たえず外界と接触し、外界のものを受けいれ、こんどは外界へ働きかけていく。
 したがって一つ一つの細胞、つまり、原形質と核とからなっている総和が一個の人間を形成していると考えると、一瞬一瞬、人間は変わっていくと考えざるをえない。仏法では、これを五陰仮和合というのですけれども、この五陰とは、色および受・想・行・識という外界からの受容、それに対する発動という精神面の働きも含めて、それらが和合して衆生をつくる。つまり人間とか生物なんかをつくるという、一歩思索を深めた考え方です。
 ですからAならAという人間があれば、それは五陰、すなわち色受想行識が、仮に和合している姿だというのですね。しかし、その五陰そのものについては、この鼎談のなかで、また、くわしく取り上げたいと思いますので、ここではさらっとふれておきます。
 この五陰という考え方は、衆生、つまり、人間生命をはじめとして、一切の生物体をつくりあげている要因になるものだと思いますが、その和合体がAという一個の独立した生命をつくっている。しかし、それは「仮」に和合したものですから、つねに変化しているわけですね。
 池田 宇宙そのものさえも、刻々と変化しゆくものであることは、現代の天文学が明らかにしていることです。だいたい、現在の宇宙は、三百億年ぐらい前から膨張を始めたというのが、定説になっているね。G・ガモフ(アメリカ〈ロシア生まれ〉の物理学者。一九〇四年〜六八年)などは、そうした爆発説をとっている。そのほか振動説もあるが、それとても現在の宇宙が膨張しているということは否定のしようがない。
 一時、話題を呼んだ定常宇宙説は、こうした爆発や振動を否定し、絶え間ない物質の創造によって、宇宙は定常状態をたもつと主張したけれども、難点も多いし、この宇宙論でも、大宇宙が固定した、まったく動かない存在だということはいっていない。絶えず流動し、膨張しつつも、大局的に見れば、大宇宙は変化しないと説くだけだからね。

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