Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

身体と心  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
1  生命の不思議な姿
 川田 最近、アメリカの科学者たちの書いた『生命の秘密』(G・ウォールド他、岡本彰祐。永井静江訳、白揚社)という本を読んだのですが、そのなかに、次のような一節がありました。
 「この世界に″三つの謎″――しかも根本的な三つの謎があるという。それは、一つは宇宙とは何か、二つには物質とは何か、そして第三には、生命とは何か、という謎があるという」との書きだしで始まっているのです。
 この本は、これら三つの謎のうち、生命とは何かという課題に挑んでいるわけですが、あらゆる現代科学の粋――生化学の成果を中心にしてですが――を集めて、ひとたびは「20世紀後半の科学者たちは、生命が、すでにその″神秘性″を失ったことを、生命の神話は遠く歴史の坐に去ったことを宣言する」といいながら、そのあとがおもしろいんですね。「しかもなお、生命の秘密は、新しい装いのもとに、深く、遠い」とつづくのです。
 そして、そのあとでもう一度、科学者の自負心が顔を出すのですが、私には生命の神秘に立ち向かった科学者たちの深い嘆息が聞こえてくるように思われます。
 池田 生命は、どこまでいっても神秘に包まれ、むしろ、知れば知るほど、その神秘さは、深まりと広がりを増すということでしょうね。
 北川 たしかに、科学者たちが苦闘し、科学が、発展を遂げれば遂げるほど、生命は、その明らかになる部分が増すとともに、その不思議さも増していくようです。
 科学は、生や死の秘密を解決するのではなく、さらに、不思議な種々の様相を取り出してみせるために進歩しているような気さえしてきます。
 私たちの周囲には、草木あり、小動物あり、また、目には見えませんが無数の微生物ありで、それらが、独自の個性を発揮しつつ生命活動を営んでいます。そのような生き物たちのなかには、人間の想像もおよばないような生存の形を示すものがいます。
 たとえば、東京大学の微生物学者たちは、油田の中から石油を食べて生きる細菌を発見しています。これら地下の住人は、地中深く二千メートルの暗黒の世界に住んでいました。とうぜん、酸素などはないわけです。では、どのようにして呼吸をしているのかというと、硝酸という劇薬を分解して、そこから酸素を摂取しているというわけです。
 また、最近、新聞でも報道されましたが、ソ連の地球物理学者チュジノフ博士が、二億五千万年前に形成されたカリ鉱石の中から、ある種の微生物をよみがえらせています。おそらく、二億五千万年もの間、鉱石の中に閉じこめられてきたであろうその微生物が、培養液の中に入ると、動きだし、増えだしたと報告されています。
 このような生き物の存在を見つけたのも、科学の進歩のたまものであるわけですが、そういう事実を知れば知るほど、生命とは、なんと不思議なものだろうと思わずにはおられません。
2  川田 微生物といえば、近ごろ話題にのぼっているのが、水銀を食べる細菌ですね。発見者は、外村とのむら健三博士ですが、その細菌には、ほそ長いべんもうがあるといいます。オタマジャクシのシッポを長く細くしたような形をしています。「細菌K62」という学名がつけられました。水銀化合物は人間にとっては猛毒で、とくに、メチル水銀は、水俣病の原因となる物質です。このような猛毒を食べて生きているというのですから、変わった生き物がいたものです。
 そのほか、鉄やマンガンを食べる微生物もいます。鉄を食う細菌、つまり″鉄細菌″は、鉄鉱山や鉄分の多い川や沼にいますし、マンガンを食う細菌は、火山灰でできた土地の水の中にいます。
 こういう生物を科学者たちは「ゲテモノ食い」と呼んでいます。人間にも変わったものを食べる人がいますが、これらの細菌の食欲にはかなわないですね。(笑い)
 細菌よりも小さいウイルスとなると、おもしろさも、いちだんと増してきます。ウイルスというのは、生物としての反応を示すわけですが、同時に状況に応じて、食塩と同じような結晶にもなるのですね。結晶は、完全に無生物ですから、ある状況下では、ウイルスは、無生物と同じ様相を示すわけです。ところが、その結晶を栄養分の入った液にとかして、植物や動物の細胞に植えつけると、のこのこと動きだして、さかんに増え始めるのです。
 スタンレー(アメリカの生化学者、ウイルス学創立者の一人。一九〇四年〜七一年)という学者が、世界で初めてタバコモザイク・ウイルスを発見したときには、当の本人がわが目を疑ったといいます。
 これはタバコの葉にタバコモザイク病という病気を起こさせるウイルスなんですが、結晶と生物の間を行ったり来たりしているわけです。
 雪の結晶や食塩と同じような無生物だとばかり思っていた物質が、生物としての活動を始めたのですから、驚くのも無理はない。ウイルスは生物とすべきか、それとも無生物と考えるべきか――ハムレットにも劣らぬ悩みに襲われたと思います(笑い)。考えあぐんだすえ、ウイルスは条件に応じて生物にもなり、無生物にも″変身″しうることを、ありのままに認めようということに落ち着いたそうです。(川喜田愛郎『ウイルスの世界』岩波新書、参照)
 池田 生命は、じつに多様なあらわれ方をするものです。科学が長足の進歩を遂げるにつれて、ますます、複雑にして多彩な生命の姿が、浮き彫りにされていくと思う。そこには、物理学的次元でとらえられる現象もあれば、それとはまったく異なった生物独自の営みもあるでしょう。また、人間生命のように精神の特有な働きもある。
 私たちは、生命活動といえば、ただちに、酸素を吸ったり、筋肉を動かしたり、おいしいものを食べたりすることを考えがちだね。恋人とデートすることだけが、生命活動だと信じている青年もいるかもしれない。(笑い)
 だが、それらは、多彩な生の営みの一つの現象にすぎない。いろいろな生物のなかには、いかにも私たちの常識を超えたものがあるが、所詮、それらすべてを包含したのが、ありのままの生命の姿なのです。
 植物が、地球上に降りそそぐ太陽のエネルギーを利用し、大気中の炭酸ガス、水、無機養分などから、有機化合物と酸素をつくりだす光合成を行うのも生命の働きであれば、マメ科の植物の根に寄生する微生物が、根からエネルギーを得ながら大気中の窒素を集めて窒素化合物をつくるのも、生のあらわれにほかならない。
 春の訪れとともに、草木がかれんな花を咲かせるのも、秋が深まって果実がたわわに実るのも、大地と自然のリズムにもとづいている。ヒグラシが夏の終焉を告げるのも、澄みきった秋の空を渡り鳥の群れが横ぎっていくのも、魚が水に戯れるのも、それらすべてが多様な生の姿です。
 また、身近な例をとれば、私たちがベートーヴェン(ドイツの作曲家。一七七〇年〜一八二七年)の旋律に生の歓びを呼び起こされるのも、あかね色に染まった富士の秀麗な雄姿に心を洗われるのも、人間としての生命の発動の一つだと思う。森羅万象が織りなすあらゆる変化相が、そのまま生命の真実の姿であると考えられますね。
3  北川 宇宙の変転そのものが、広い意味では、底知れぬ不思議さを秘めた生命の活動体だと思われます。昔の人々は、天座にかかる恒星は、永久に変化しないと考えていた。太陽と同じように、みずからの働きで輝いている恒星は、その名が示すとおり、不変の星だと考えられていたわけですけれども、四季を彩るこれらの夜の星にも、生と死の運命が待ち受けていることを、いまでは天文学が証明しています。
 人間や他の生物と同じように、私たちの太陽も、五十億年ほど経てば、光をなくし、死を迎えるときがくるといいます。このいまの瞬間にも、宇宙のどこかでは、新星が産声をあげているし、また、他のところでは、強烈な閃光を残して消滅していく星もある。
 このような、大は恒星から、小は流れ星にいたるまでの数々の星の運命をいだきつつ、現在の宇宙は、不思議なことに、巨大な速度で膨張をつづけているという。宇宙全体が、壮大な生と死のドラマを演じているようです。
 池田 宇宙の営みは、空間的にいえば、小さいところでは、電子、中性子などの素粒子や、それによって構成される原子といったものから、ウイルスや細菌を経て、大きくは、恒星やわれわれの太陽系を含んだ銀河系宇宙、さらに果ての知れない大宇宙そのものにまでいたるといえる。また、時間の観点から考えると、素粒子のように、瞬時にして消えていくものから、星や星雲のように、百億年を超える寿命をもつものもある。
 こうした、さまざまに繰り広げられるすべての活動が、壮大な宇宙生命の神秘を奏でているといえるでしょう。
 宇宙、物質、生命の謎は、どこまでも広く、また、目もくらむほど深い。過去と現代の哲人が、その深さにとまどい、多くの科学者が、嘆息をもらすのも、無理のないところと思いますね。科学者たちは、森羅万象の種々の姿を、ある者は物理化学の法則にあてはめて、また、他の研究者は、生理や心理の現象として探究の手を伸ばしていくであろうし、その努力はまことに尊い。
 しかし、生命の探究において、もっとも重要なことは、あるときは、物理現象や生態現象として、またあるときは、生理や心理の現象として顕現する生命の働きを、ただ直線的に追うだけでなく、まさに、それらの現象を現象として成立させている根源の原理を知ることではないかと思う。
 多彩な生命の種々相を生みだし、生命を生命として顕在化させている根源の実在は、いったい、どのようなものであるかを真に突きとめたとき、宇宙と物質と生命の謎は、一挙に氷解してしまうのではないだろうか。最初に話が出た、世界の三つの謎というのも、三つが、それぞれバラバラなのではなく、じつは共通の謎なのですね。
 生命を探索する哲学と宗教の役割は、あらゆる生の底流にいたり、生命を生命として顕現させる各種の原理と、そこにある源泉を探りあて、それを、人々の生活に反映させ、生の歓喜と創造をもたらすことです。
 私たちの、生命についてのこの論議は、過去の偉大な知性を尊重し、その成果を生かしつつも、それにとどまらず、宇宙と生命の根源的な実在にまで、探究の思索を伸ばしていくのでなくてはならないと考えているが、どうだろうか。
 川田 まったく同感です。この鼎談の目的とその方向と特性が、明瞭になったような気がします。

1
1