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世界平和のために  

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

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1  真の世界平和とは
 松下 今回の石油問題で、日本の見せかけの繁栄が露呈され、厳しい反省が行なわれていますが、考えてみれば、今日の世界情勢下にあって、今われわれが享受している平和というものも、実は見せかけの平和のうえにたっているのではないかという意見もあります。
 日本としては世界平和のうえにしか生きていく道がないと思いますが、はたして真の世界平和は望みうるものなのでしょうか。また、それはいかなる姿において実現するとお考えでしょうか。
 池田 戦後日本の繁栄が、実は見せかけの平和のうえに築かれたものであるというご所見に、私も賛成です。
 この三十年間、日本の国土を主戦場とした戦争は、たしかにありませんでした。明治以来、わが国はほぼ十年単位で対外戦争にかかわってきた歴史からすれば、戦後の三十年間は「平和」であったかもしれません。
 しかし、日本もその一員であるアジア全体をみた場合、第二次大戦後のアジア民衆は、まさに戦乱に次ぐ戦乱に巻き込まれた犠牲者であったといっても、けっして過言ではないと思います。しかも日本は、朝鮮戦争の時も、またベトナム戦争にさいしても、戦争の一方の当事者であるアメリカ軍に基地を提供し、武器・弾薬の補給や、経済的な面での協力を行なったことによって、アジアの民衆から非難される対象になりました。とりわけ日本経済の奇跡的な繁栄は、そうしたアジアの戦争を背景にして初めて可能であった、といわれます。その意味で″平和国家″としての戦後日本の繁栄が、実は見せかけの平和のうえに成り立つものであった、といわれるのでしょう。
 では、真の世界平和は、はたして望みうるものなのか、どうか――という趣旨のご質問ですが、私は平和は「望みうる」ものではなく、むしろ、みずからが主体的に創出すべきものであると思います。
 平和は、みずからが戦争に巻き込まれないようにしていれば守れるというものではありません。世界の平和を実現するということは、積極的創造的な努力を必要とするものです。たしかに、戦争を起こす一部の権力者を除いて、世界中の誰もが平和を待望していることにはまちがいない、と思います。そうした民衆の素朴な願望と連帯の輪を広げていくならば、けっして真の世界平和、人類の恒久平和は不可能ではないはずです。
 だが、平和を願う心さえあれば平和が得られるかというと、けっしてそうでないことは、今日まで、人類は真の平和を待望しつつも、なお野蛮な戦争を繰り返してきた事実によって余りにも明らかです。その本源的な原因を追究していくならば、最後には人間の「生命」の問題に行き着くはずであります。それは、あのユネスコ憲章に謳われたような「心」の問題もさることながら、心のもっと奥にある人間の生命を本源的に変革する哲理をもって、この地上に真の世界平和を築くことが、私たちの絶対の信条であり、かつまた実践の目標でもあります。
 しかし、ここで誤解されないように付言しますが、われわれが生命の変革を第一に掲げるからといって、それは観念論的な範疇に属する平和論ではない、ということです。一個の人間生命の変革は、やがて社会の変革を促し、ついには一国の宿命をも転換しうることを、私は小説『人間革命』等で強調してきました。
 すなわち、私が想定する世界平和へのプログラムは、これを制度的な面からいえば、まず近代から現代にかけての戦争の主体であった「国家」のエゴを乗り越えることです。そのうえに、世界連邦政府といった機構を創設することによって、永久に崩れざる真の世界平和を確固不抜のものとしたいと念願しているのです。
2  人類の平和を築く道
 松下 人類全体が平和のうちに生きていくということは、人間誰しもの願いであり、また理想とするところではないかと思いますが、しかし現実には、人と人との争いや、国と国との戦争が繰り返し起こり、人間の不幸をもたらしています。こういった不幸な姿を起こさぬよう、人類の平和を築き保っていく道はないのでしょうか。もし、そういう道があるとするなら、その道の根本をなすものはどういうものでしょうか。
 池田 人類全体が平和のうちに生きていくことが、人間誰しもの願いであり、理想とするところであるというご高見に、私もまた賛成です。しかし現実には、人間と人間が争い、国と国とが戦争を繰り返してきたのも、また偽らざる歴史の事実です。
 では、なぜ人間は、一方では平和を望みながら、現実には人と人とが争うのでしょうか。しかも、いったん戦争になると、人間と人間とが殺し合うことが、公然と認められ大量殺人が合法化される。これほどの不条理はない、といえましょう。
 人間と人間が争うのは、それは人間が欲望をもつ存在だからだと思います。一個の人間の欲望というものは、それを無制限に追求していくと、必然的に他人の利害得失とかかわってきます。したがって、まず各人が自己の野放図な欲望を制御することから始めて、制度的には富が公平に配分されるような仕組みを考える必要があると思われます。
 人間がみずからの欲望をコントロールすることについて、最も深く討究した教えが私は仏教であると思っています。インドに生まれた釈迦以来の仏教の歴史というものは、幾多の先達が人間のもつ欲望に対して、真正面から対決した歴史ともいえるのです。なかでも大乗仏教の系譜においては、小乗仏教の出家の僧侶たちが欲望を否定し、断滅しようと苦闘したのに対して、人間に本然的な欲望を明らかにみて、それを使いこなしていく実践活動を重視した。すなわち、とくに在家の仏教者たちは、むしろ人間の欲望を発条として、それを善の方向に向け、社会の繁栄と平和に寄与する人間共和の世界を目指したのでした。
 このように、まず人間の生命に内在する欲望を制御するには、最も鋭く人間の内面を解明した哲理によるとしても、それをさらに社会的に保障するものが必要となってまいります。近代社会の法体系というものは、人間と人間との争いが物理的暴力をもって行なわれることを禁じ、どこの国でも殺人に対しては死刑などの厳罰をもって臨んでいるのが一般です。しかし、近代から現代にかけての国家というものは、一方では物理的暴力による私刑や殺人を禁止していながら、他方では国家自体が物理的暴力の装置をそなえ、国家の自衛権とか交戦権と称して、互いに国家主権を主張して譲らず、人間と人間とが殺し合う戦争行為を合法化しているのです。ここに、人類が平和を希求しながら、現実には戦争を繰り返してきた歴史の不条理の根本的な原因が潜んでいるといえましょう。
 そこで私は、まず人間生命の根底的な変革の必要性を主張するとともに、制度的にも人類が真の平和を築いていくため、人間が人間を殺す行為である死刑の廃止と、戦争を準備するためのものであるいっさいの軍備の撤廃を一貫して提案してきたのです。むろん、その道は険しいかもしれません。だが、一方では殺人を禁じながら、みずから他方では殺人を合法化しているという現代国家のもつ根本的な不条理は、すでに誰もが気づいているところであります。この簡単しごくな論理を、人類の英知をもって実現しえないはずはあるまい、というのが私の考えであり、確信です。
3  世界平和を目指す実践
 池田 真の世界平和は、望みうるかどうかを、座して論じてもはじまりません。なぜなら、ごく一部の権力者を除いて、全世界の大多数の民衆は、平和を待望しているからであります。問題は、どのようにして平和な世界を築くかにかかっていると思います。
 平和は、待望するだけでは実現できません。真の世界平和を目指しての実践こそ尊いと考えます。そこでおうかがいしたいのですが、そのような世界の平和に対して、具体的に何を目指し、かつ実践なさっておられるでしょうか。
 松下 おっしゃるとおり、平和というものは待望しているだけでは生まれないと思います。それにふさわしい働きを各国民がしなければならないと思います。しかし、一国の国民がそういう働きをしても、他の国の国民がそれに反対していたのでは、平和は生まれないでしょう。全世界の国民が平和を愛好すると同時に、その平和にふさわしい実践をしなければならないと思うのです。
 しかし、必ずしもそのとおりになっていないのが現実です。戦争や争いが絶えないのが、世界の一つの実情です。この実情を踏まえて、一歩一歩、平和を築いていくのは相当時間のかかることだと思います。しかし、いかに時間がかかろうと、平和への実践は必要です。
 世界各国の指導者が、平和を願い実践していることは事実だと思います。しかし、平和を願っている半面に、自国の繁栄ということを考えています。そこにいろいろのとらわれもあって、さまざまな問題をかもしていると思われます。そういうとらわれのないように、指導者は自戒しなければならないと思います。そして、平和を一歩一歩築き上げていくことに、絶えまない努力を注ぐ必要があります。また国民は、そういう指導者に対して、好意と助成の働きを寄せていくことが大切です。
 そういった姿を、一国だけでなく、世界全体として進めていく必要があると思うのです。先生の指導しておられる創価学会が、その思想を広く世界に普及することによって世界の平和に貢献していこうとしておられるのは、まことにうれしく、賛成です。
 私の関係した事業は、今私は第一線にたってはいませんが、今まで数十か国に会社、工場などをつくってきています。そして、それらの会社、工場は、常にその国のためになるかならないかを自問自答しつつ建設しています。ですから、各国それぞれに物の考え方は異なりますが、今までのところ、おおむねそれらの会社、工場は、その国において是とされているのです。また範とされている面もあります。
 そういうことで、世界各国に経済的にいささかの寄与をし、また私は私なりに平和的な思想を多少なりとも提供していると考えていますが、最近、しだいにそういうことが認識され、感謝されるようになってきたように思います。
 とはいえ、私ども一部だけの力では、とうてい世界平和を助成することができないのはいうまでもありません。各国すべての人びとが思いを同じくして、絶えず世界の平和と繁栄を口にし、実践していくことが大事だと思うのです。

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