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日蓮大聖人・池田大作

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人生問答 現代文明への反省

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

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1  科学の進歩に欠落していたもの
 松下 今日、科学技術は進み、いわゆる文明文化の歩みは、お互いのより豊かで便利な暮らしを約束しているようにも思えますが、はたしてそれだけが進歩というものでしょうか。そのほかに精神的な進歩ということも考えられますが、人類の総合した望ましい進歩とは、いったいどういうところに求めたらいいのでしょうか。
 池田 科学文明に裏打ちされた進歩の神話は、いまや崩壊しつつある、といわれます。これが科学技術の成果にあずかる現代人の心の叫びとして深刻に表明されているところに問題の根の深さを感ずる昨今です。
 そこで、今日、あらためて進歩とはいったい何か、はたして、これまでの物質的繁栄というものが進歩の名に値するものであったかどうか、を根源的に問い直す必要があります。
 そして、ご質問にある″人類の総合した望ましい進歩″というような究極的な指標から見直せば、おそらく現代の、いわゆる進歩というものには明らかに偏りがあるといわざるをえないと思います。では具体的に、どこに進歩の指標を求めるべきかということになりますが、それには、これまでの進歩思想に欠落していたものは何であったかを考え直すのが妥当な方法でしょう。
 人類は、人を使い、道具を生みだし、科学を発明し、発展させることによって、今日まで前へ前へと進んできたわけです。いわば、人間の英知を外に向けて発揮していくことによって推進されてきたもと考えられます。
 こうした科学の進歩の陰で忘れさられてきたのは、人間自身の変革という問題でした。その結果、現代文明の、一見、華やいだ賑わいのなかで、人間疎外が無気味に進行しているのです。人間の生命力の衰え、時代の衰微を、今日、感じとらない人はほとんどいないと思います。
 私は、かねてから二十一世紀は″生命の世紀″にしなければならない、と叫んできました。人間生命のトータルな伸展を抜きにした物質文明の繁栄は、かえって人間のなかにある豊かな感情や感覚を退化させてしまうことになりましょう。人類が全滅した後に地上でコンピュータだけが働いていたというような現代の戯画(カリカチュア)が現実とならないためにも、あらゆる進歩の基軸に人間生命の尊厳の思想をおき、真実の進歩とは調和であるとの考え方が必要であると思います。
2  科学の発展にともなう矛盾
 池田 科学、技術が豊かな成果をあげていけばいくほど、科学者、技術者は、ある特定の領域の専門家になってしまうことは避けられないでしょう。というのは、いわゆる″専門バカ″になってしまうことで、他の領域について、正しく理解し、みずからの専門領域の確かな位置づけをするということも、困難になってまいります。現に、自分の狭い視野からの発言しかできなくなっている専門家が多いといえます。しかし、それでは、真に科学、技術を人類のために正しく発展させていくことはできません。
 こうした科学、技術のジレンマを解決する道というのは、はたしてあるのでしょうか。科学、技術者の生き方がどうあるべきかという問題とあわせて、ご意見をおうかがいしたいと思います。
 松下 科学、技術の発展というものは、まことに目覚ましいものがあり、しかも、その進歩の速度は、時とともにますます早まっています。私も長い間、会社の経営にたずさわってきましたが、このごろでは、工場をみたり、話を聞いたりしても、技術的なことはほとんどわからないというのが実情です。
 そのように、進歩発達が盛んになればなるほど、お説のように、だんだんと専門、細分化され、科学者、技術者の人びとも、特定の狭い分野について、深く専門的にこれを究めていくという傾向が強くなるでしょう。したがって、ともすれば自分の専門にとらわれ、広い視野にたっての判断ができなくなってくる危険性も大きくなると思います。もちろん、自分の専門分野で立派な業績をあげつつ、しかもなお、高い見識をもって、幅広い活動をして社会に貢献しておられる科学者の方も少なからずおられるわけですが、一般的には、そうでない場合も多いと思います。
 ですから、やはり科学者、技術者の人びとが、常に視野を広げ、自分の専門だけにとらわれることのないよう、助言、警告していかなくてはならないと思います。そういうことを他からいわれなくても、自分でそれを自覚できる人はそれで結構ですが、やはり人間というものは、他人の注意、忠言を得て、初めて気がつくという面もあるわけです。ですから、科学者がご質問にある″専門バカ″の弊に陥らぬよう、その専門の知識だけにとらわれることなく、自分の技術、自分自身を客観的にみる習慣、習性を教えるというか、そういう導きをしなくてはならないと思うのです。そういうことを、為政者の立場から、教育者の立場から、あるいは一般の指導階級の人びとから、絶えず注意することが大切だと思います。
 そういう注意が適当になされていけば、おっしやるような弊害も、絶無にはならないまでも、ずっと少なくなり、心配はいらないようになると思います。
3  心の豊かさを生みだすには
 松下 昨今のわが国においては、物質的な面は非常な豊かさをみせるようになっていますが、しかしその半面、精神的な面の豊かさが不足しているように思われます。ところが、物は生産すればそれだけ豊かにもなってくるのに反し、心はそうはいきません。しからば、心の豊かさを生みだしていくためには、最も大切なことはどういうことでしょうか。
 池田 物質文明の発展に比して、人間の精神的な面の開発が忘れられ、むしろ、物質的な豊かさの増進とともに、精神的な面は貧弱化してきているということは、残念ながら事実と認めざるをえません。現代文明が豊かな自然を遠ざけ、はては破壊してきたように、物質偏重の考え方は、人間自身の心のなかからも、思いやりとか、誠意とか、愛情とかの、人間固有の豊かさを排撃し、押しつぶしてしまっております。
 この現状を変革するには、発想そのものを、物質中心から人間中心へと転換し、引き一戻すことが、まずなによりも大切なことと私は考えます。現代文明の底にある人間自身の発想をそのままにしておいて、ただ心の豊かさだけを取り戻そうと努力しても、それは激流に抗してボートを漕ぐようなもので、徒労に帰することでありましょう。その一点の変革のうえにたって、人間精神の開拓ということを考えるならば、そこには無限の可能性が開けてくるはずです。
 われわれが使用可能な物質は有限であり、物質的豊かさは、必ずいつかは、それ自身において行き詰まりがくるであろうことは、多くの言葉を費やして語る必要はないでしょう。しかし、これに対して、人間精神の世界、さらには、精神活動と肉体活動とをともに起こしている生命の世界は、大宇宙と等しく壮大な広がりをもった無限の宝庫です。
 この無限の宝庫から、限りない宝を取り出すためには、人類が物質の世界の開拓に惜しみなく労力を費やしたと同じように、一人ひとりの労作業の積み重ねが要請されるといえましょう。なぜなら、″心の豊かさ″を生みだす作業も、一つの創造作業だからです。
 そして、個人の生命開拓という創造の働きを、実りあるものとするには、どうしても人間生命自体を解明した哲理と、そこから実践への道を明瞭にさしじめす宗教が必要不可欠の条件として要請されるのではないでしょうか。
 私たちの生命のなかにあるものは、たんに、理性、知性とか、物質的豊かさを希求する衝動だけではありません。むしろ、これらの心的機能は、宇宙大の広がりをもつ生命の大海の表層に浮かぶ波しずくのようなものと考えられましょう。
 こうした欲望や理性の奥には、家族、隣人、民族、人類をも包み込んで、万物へとおもむく深い情愛もあれば、自然美に感動する心情もあります。さらに、あらゆる人びとの生命の底流には、宇宙そのものと共鳴しつつ、宇宙森羅万象の生死をささえる慈悲と英知の本源的なエネルギーがたたえられているのです。
 個人の生命の内面を探索し、その奥底にまで直入しえた哲理と宗教は、あらゆる人びとの生の内部にたくわえられた、ありとあらゆる生命の″宝″を嚇しだし、それを、現実生活の場へともたらす具体的な手段を保持しています。
 したがって、人びとが、真実の宗教にもとづきつつ、みずからの生命を開拓し、変革への努力をつづけるならば、物質至上の文明によって窒息し、失われてしまったかにみえる、あまりにも豊かな心情と知恵と、慈悲のエネルギーが、くめどもつきぬ清水のように噴出してくることが可能でありましょう。
 一人の人間の生の内奥からわきいだす慈悲に満ちた聡明な知恵は、殺伐とした現代砂漠をうるおすばかりでなく、他者の生命を開くための触媒の役目を見事に果たしていくのではないかと、私は信じます。
 こうした一個の人間の主体的な自己変革の引きおこす波動が、万波を呼びつつ、やがては、社会そのものの基底部まで揺り動かす力となりうるであろうことは、あらためて強調するまでもないと思います。
 私は、こうした生命の開拓に向かうことこそ、真の創造性であろうと考えます。

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