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何のための教育か  

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

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1  教育の目的
 松下 今日の教育においては、知識を教えることに重点がおかれ、人間そのものの教育といいますか、人間としていかにあるべきか、また日本人として何を考えるべきかという教育がどちらかというとおろそかにされているといわれております。そして、このことによって、知識はあっても、人間的にはどうも好ましくないといった姿も生まれるのではないかといわれておりますが、いかがお考えでしょうか。
 池田 教育の目的が、人間形成にあり、人間建設にあることは論ずるまでもないことのように思えます。また教育が、文化の発展、興隆に欠かすことのできない要因であり、また根本的な力であることも誰びとも認めるところでしょう。
 しかし、現実は、ご指摘のように、たんなる知識の詰め込みというか、いわゆる知識偏重の教育が行なわれているようです。これが、どれほど青年たちの創造性を歪めているか、文化の健全なる発展を阻害しているか計り知れないものがあると私は考えます。「教育は、書物を読むことができるが、どの書物が読む価値があるかを見分けることができない人口を増加せしめた」と、ある歴史家は語っていますが、知識・技術は与えられても、みずからの人間完成への道を切り開く人間教育が、おろそかにされてきたということでしょう。
 教育こそ、文化の原動力であり、人間形成の根幹をなすものです。したがって、教育は、国家権力からも独立した、独自の立場で組織され、学問的にも追究されるものでなければならないと信じます。
 そうした意味で私は、新たな概念と価値観をもって教育権の独立という構想を唱えてきたしだいです。
 さらに、世界各国から教師、父母、学生、学識経験者が集まって「教育国連」をつくり、人類的視野にたった教育の実現を図るべきである、と提案しております。
 教育が、どこまでも人間を対象とし、しかも多くが、未来を担う青少年の動向を決定するものであるだけに、それにたずさわるあらゆる機関も教師もあふれるばかりの情熱と、確固とした教育理念をもっていなければならないでしょう。そして教育理念とは、まずなによりも、人間に対する徹底して深い洞察と理解、そして愛情がその根幹となるべきものといえます。
 その原点を踏みはずしていては、いかなる教育技術も、制度も、ビジョンも、砂上の楼閣に帰するしかないと思います。
 さらに、ご指摘の″人間としていかにあるべきか″という問題も、ひとことでいえば″よき社会人、すぐれた職業人であるまえに、すぐれた人間であれ″″生涯、人間であることを目指せ″といった教育理念が貫かれなければならないということでしょう。また″日本人として何を考えるべきか″という問題は、世界人類のために、日本が、その民族の持ち味を、どう生かしながら貢献していけるかどうかという、地球家族の一員であるという自覚から出発したものでなければなりません。けっして偏狭な民族主義や、エリート主義であってはならないと思います。
 しょせん、いずれの課題も、人間さらには生命の尊厳という普遍的な次元から発し、またそこに帰する教育でなければならないというのが、私の一貫した考えです。
2  義務教育の基本的理念
 松下 今日、義務教育の在り方について、いろいろと論議されています。これは国民が義務として受けなければならない、言い換えれば、国家が義務として国民に与えなければならない教育のことですから、国民育成という国家的見地からみて、非常に大事な論議であり、その成果いかんによっては、国家の命運を左右するものといえましょう。それだけに、その教育は、次代を背負う国民に何を教え、何を与えるべきかが大切な問題になってきます。知識ある人間を育てるのか、人間として、また国民としての良心そのものを培養するのか、その基本的理念というものについて、ご高見をいただければ幸いです。
 池田 教育は、次代を担う人を育てること、あるいは、もっと根本的にいえば、次の世代の人びとを、次の時代を担うにふさわしい人間にすることを目的として行なわれるものです。
 したがって、生活の舞台が一つの家族という枠のなかで営まれていた時代にあっては、教育も、家族のなかの年長者が、新しい世代に、その家族を維持していくために不可欠のことを伝えるというかたちで行なわれました。わが国の徳川時代にみられたように、藩が生活の舞台であり、社会の基本的枠組みであったときには、藩校のように、その藩の長老、有識者が次の世代に教育を施しました。
 今日、国家が主体となって、国民に義務教育を施しているのも、そうした社会の発展のなかの、一つの段階を示すものとみるべきでしょう。それは、明治以来のわが国が経験し、世界的には近世以後のヨーロッパ諸国に育ったナショナリズムの風潮と結びついています。
 以上の点を踏まえて、生活の舞台、社会の基本的枠組みは、今後とも、従来のように国家であるのかどうかを考えてみますと、すでに現実は大きく変わりはじめていると思います。産業を取り上げてみても、国内で得られる原料で国内を市場とする考え方では、あてはまらないものが大半を占めるにいたっているのではないでしょうか。
 たとえば、日本人は、今後ますます、工業生産の原料を外国から輸入し、それを加工し製品にして外国へ輸出する方式によっていかなければならないでしょう。半面、食料については、どんなに農政に力を入れるにしても、全日本人口を養える食料を、日本国内だけでまかなうことは、不可能であり、世界各国からの輸入に頼らざるをえません。
 いわんや、現在の核開発による平和の危機、大気や海洋の汚染といった公害問題、あるいは情報の世界的交流という情勢等々をみたとき、これからの時代の生活の舞台は、一国の狭い枠をはるかに超えた国際時代となりつつあることは、疑う余地がありません。
 とすれば、これからの時代を担う人びとを育成するうえで、なにより求められることは、広く世界に視野を開いた展望と心情であり、それは、とりもなおさず、普遍的な人間としての自覚と英知でありましよう。
 ご質問は、知識を重点とするのか、良心のほうを重視するのかということですが、そのどちらにせよ、まず、教育における視野の拡大、基盤の転換を前提としなければならないと考えます。
 そのうえで、知識と良心という点について申し上げれば、これは、本来、両方そなわって初めて、正しく発揮されるものだと思います。どんなに知識のみが積み上げられようと、それを使いこなす人間の良心が確立されなければ、知識は、人間が本然的にもっているエゴイズムの道具として悪用されるのみです。この恐るべき結果は、今日の、技術産業によって流されている各種公害や、武器、戦争技術の発達にみられるとおりです。
 逆にまた、良心といっても、具体的現実に対する、広い知識、鋭い認識、正しい判断がなければ、良心から発する情熱が、思いがけない″悪″を生むことになりかねません。私たちは、歴史を振り返ってみるとき、誤った人間の良心が、いかに残虐さと愚かさを生みだしてきたかを知ることができます。
 ただ、今日の教育において、良心という問題があまりにも忘れられ、知識教育にのみ偏重しているのを是正するという意味で、良心の面が強調されることには異存がありません。
3  教育の改善すべき点
 松下 今日わが国の教育は、いわゆる知識を与えることに重点がおかれ、人間そのものを育てることがおろそかにされているとか、あるいは受験中心の教育になっているとかいった問題が指摘されています。教育というものは、やはり人間そのものを育てることが第一の目的だと思いますが、そういった意味から、今のわが国の教育において改善すべき点があるとお考えでしょうか。また、あるとすれば、それはいったいどういう点でしょうか。
 池田 この問題については、すでに教育の基本理念を取り上げられたご質問と重複するようですが、ここでは具体的な方策を考えてお答えしたいと思います。
 知識を与えることに重点がおかれすぎているというご指摘には私も同感です。もとより知識を与えることは重要であり、とくに今日の高度に発達した文明社会にあっては、どんなにすぐれた知恵、人格をもっていても、知識がなければ、その力を発揮することはできないでしょう。しかし、もっと大事なことは、知恵、人格の涵養であるという点については、すでにのべたとおりです。
 現在の日本において、学歴偏重の風潮から学校をますます「受験校」化して受験のための知識詰め込みに終始させ、それでも足りずに「塾」の流行を生んでいることは悲しいことです。根本的には、こうした社会の、教育への見方を改めなければならないことは当然ですが、そのために、教育者の側として具体的にできることを考えなければなりません。
 たとえば、生徒の生活相談や、人生上の諸問題と取り組む時間を、週に何時間か決めて義務化することとか、現在行なわれている道徳教育のようなものではなく、生徒と教師が将来の日本、世界、あるいは人生の諸問題について積極的に語り合う時間をふやしてはどうかと思います。現在行なわれているホームルーム等の時間はなおざりになっているところが多いようです。そうした時間を充実させるために、教師の間で研修する期間を設けて、どうすれば生徒の人格形成に寄与できるかを真剣に討議もすべきでしょう。
 さらに、人間教育ということを考えた場合、学校と家庭のつながりも軽視することはできません。教師は生徒の家族とみずからの責任において連係をとりあう必要があります。これはもちろん、家庭・父母の側にとっても同様であり、他人まかせの態度はよくないのはいうまでもありません。
 それから、これは教育者であった初代牧国会長の発想であり、さらに戸田第二代会長の念願であったのですが、半日学校制度という考え方があります。これは机上の知識に陥りがちな学校教育の弊害を取り除くため、学校生活の半分を知識の吸収に注ぎ、あとの半分を実生活に生かすための実習に使うという教育の方法です。野に働き、機械と汗して取り組むなかに、書物をとおして得た知識が、生き生きとした「生活上の知恵」として砂漠に吸い込まれる水分のように青少年の心のなかに吸収され、肉化していくでしょう。
 私が先日、中国を訪れたさい感じたことの一つは、この理念が、まさに実現されているということでした。青年たちはそれによって労働の尊さ、生産の意義を知り、あらゆることをとおして創造精神を学んでおりました。私はうらやましいと思うとともに、日本においても、一日も早く実施されなければならないと思ったのです。
 こうした基本的な教育論争が、どうして日本においてなされないのか、教育国というにはあまりにも恥ずかしいことだとも感じたのです。

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