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宗教・思想・道徳  

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

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1  人間の本質と宗教
 松下 宗教と名づけられるものは、人類の歴史のうえにおいて、非常に古くから存在しているようですが、これはいったい人間のいかなる本質から生みだされてくるものでしょうか。また人間の本質から生みだされてくるものならば、今後も人間とともに、いわば永遠に存在していくものでしょうか。
 池田 結論から申し上げれば、宗教は人間が存在するかぎり、人間とともに、永遠に存在しつづけていくものです。これははっきりと断言してはばかりません。
 なぜかといえば、宗教は人間の本質というより、人間存在のおかれた条件から必然的に生みだされるものであるからです。
 では、その条件とは何か。大きく分けて、二つあります。人間は生まれたと同時に、この二条件によって、ある意味では支配されていくといえるでしょう。
 その一つは、生まれた以上、いつかは必ず死ななければならないというような、自然の必然的な法則です。
 この法則については、仏教の開祖・釈尊は、生・老・病・死の四苦というかたちで明快に示しました。これだけは、どんなに富を積んでも、才能に恵まれていても、あるいは栄燿栄華をきわめていても、誰びともいかんともしがたい絶対にまぬかれることのできない法則であり、しかも人間はこれを意識することができるのです。否、意識しないではいられない存在なのです。
 それともう一つは、第一の必然的な法則に支配されているにもかかわらず、人間は無限に自由を求め、欲望を最大限に解放しようと努力しつづける存在である、という条件です。この二つは互いに相反し矛盾しあう条件ですが、人間存在に、誕生と同時に刻印された根本的なものです。
 そのうえに、人間はホモ・サピエンスといわれるように、他の動物とは異なり、この矛盾をみずからの知性でよくわきまえている動物であり、この矛盾をなんとか統一しようと努力するわけです。
 昔から人間が飽くことなく求めたように、不老長寿を得ようとしての空しい努力も、人間存在に必然的にともなう二つの条件がぶつかりあった結果です。
 宗教とは、まさにこの矛盾を解決するために人間が生みだしたものといえます。逆にいえば、人間存在の根本にある二つの条件を合致させようと願った結果、人間自身の限界、つまり有限性を深く自覚するとともに、ある永遠なる力や存在に対する信仰心が宗教を生みだしたともいえるのです。
 同じ宗教といっても、多種多様な形態や内容をもっており、どの宗教が人間にとって理想的な宗教であるかについても論じなければなりませんが、ご質問に求められているところからは逸脱しますので省略いたします。ただ次のことだけはいえるのではないでしょうか。
 人間の生存の条件について、真剣に熟考すればするほど、人間にとって宗教は先天的なものであることがますます明らかになるとともに、「人間は宗教的存在である」といった識者の言がずっしりとした重みをもって迫ってくるといえましょう。
2  宗教と人生の関係
 池田 宗教をアヘンであると否定しさる人、またその必要性は認めつつも、精神修養的役割しか宗教に課していない人等、さまざまです。ところで、宗教と人生の関係をどのようなものとしてお考えでしょうか。またご自身にとって宗教はいかなる意味をもっていますか。
 松下 を不教の意義につきましては、先に私のほうからご質問申し上げましたところ、事理を尽くしたお答えをいただきましたことを、まずもってお礼申し上げます。
 要約すれば、「宗教は人間が存在するかぎり、人間とともに永遠に存在するものである。すなわち、人間は生・老・病・死といった自然の法則から逃れられない一方、無限な自由を求め、欲望を最大限に解放したいと願うという矛盾した存在であり、そうした事実を直視しつつ、これを解決するために生みだしたものが宗教である」というご趣旨だと思います。私は、宗教というものについて、これまでこのように明確な考えをもってはいなかったのですが、お答えを拝見し、全くこのとおりだと感じたしだいです。
 宗教は人間が存在するかぎり必要なものであり、宗教をもたないという人でも、日にみえないところで、大きく宗教に影響され、動かされていることは否定できないと思います。ですから、もちろんアヘンとして否定しさるべきものでもなく、たんなる精神修養的な役割を超えるものでしょう。
 そういうところに宗教の重要性があり、また同時にそこから責任性が生まれてくると思うのです。それは、宗教は日に新たでなくてはならない、時代の進歩に即した在り方が常に考えられなくてはならないということです。宗教の停滞は人間の進歩の停滞になります。それでは、宗教が人間に幸せを与えるものでなく、逆に幸せを損ずるものにもなりかねません。そこのところがきわめて大事だと思うのです。
 私は、宗教の意義を高く評価し、また宗教にそういうことを望むと同時に、そのような宗教に対する信仰心を自分も養いたいと思っていますが、今のところはどの宗団・宗派にも属しておりません。
 ただ、私は私なりに、宇宙の根本の力と申しますか、人間発生の原点とでもいうべき、宇宙の根源力といったものを想定し、毎朝「きょうもこうして無事にご挨拶できることはたいへんにありがたいことです。きょうも無事でいけるように、安らかに過ごせるように、心に疑うことなく、憂うることなく、悲しむことなしに、和顔、和言をもって人に接することができますようにお願いします」といった意味のことを心のなかで唱え、いわばご挨拶するといったことをしております。また、夜は祖先の位牌を前にして、同様のご挨拶をしているわけです。もっとも、そうはいっても、実際には、なかなかそうはいかず、和顔、和言どころか、なにかと腹をたて、心を乱すという状態で、信仰三昧的な境地とはほど遠い姿にあることを残念に思います。
3  宗団・宗派はさまざまでよい
 松下 宗教における宗団・宗派というものは、究極的には一つであったほうがいいのでしょうか。
 またさまざまにあったほうがいいのでしょうか。
 一つであったほうがいいとすれば、それを一つにする道はあるのでしょうか。また、さまざまあってもよいとすれば、その共存は可能でしょうか。ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 結論的にいえば、信仰の自由は絶対に守られるべきであり、したがって、必然的にさまざまであってよい。いや、さまざまであらざるをえないと考えます。
 もちろん私自身は、究極の真理は一つであり、その真理への迫り方は種々ありうるにせよ、現代の時代に、地球人類にとって、最も有効な道を教えた宗教を選ぶべきである、そして「最も有効な」という以上、それは一つであると確信しております。
 しかしながら、選ぶのは民衆であり人間であって、それはどこまでも選択者の自由意思に委ねられるべき問題です。選ぶべき道が最初から制限され、一本化されてしまった場合には、選択の余地はないし、人間の自由意思を奪ってしまいます。自由意思の奪われた信仰などは、真の信仰とはいえません。それは形式、形骸にすぎないでしょう。
 その意味で、私は、宗団・宗派は、さまざまであってよいと結論いたします。そして、民衆は、そのさまざまにある宗団・宗派のなかから、いずれが真理を最も深く究め、示しているか、そして、いずれが自己の人生のなかで実践するのに適しているか、人生として生きていくうえでの指標を与えてくれるか、現代の社会と文明のなかにみずみずしい生の息吹を蘇らせていく源泉となりうるかを判断し、選択していくべきです。
 また、宗団・宗派自体も、本来、自宗のもっている教義、哲理、理念というものが、いかにして現代の人間および社会・文明の課題にこたえうるかという観点から、互いの優劣を競い、明確にすべきです。そして、たんに本来もっている教義・哲理のなかに没入するのでなく、それを基盤として、どのように応用化し実践化していくかを模索しなければならないでしょう。こうして、宗団・宗派と民衆の間、宗団・宗派同士の間に、絶えまない競合、切磋琢磨が行なわれていくとき、宗教は真にその生き生きとした生命を保ち、文化・社会・人間に対して限りない創造の養分を提供していくことができるのです。権力によって固定化されたり、一本化されて安住してしまった宗教は、それ自体も、血の通わなくなった身体の組織のようにやがて腐っていきますし、その毒は全体を侵すにいたるでしょう。人間・社会・文化もまた、その最も尊い創造の源泉を失って固定化し、腐敗し、死滅していくのです。
 ちなみに、ご質問のなかで″共存″という言葉を使われましたが、宗団・宗派が、いかなる権力とも結託せず、また権力によって抑圧・支配されることなく、精神の自由のうえにたって、平等の立場で論争し、競合する姿は、これ自体″共存″であると思います。それは、自由主義経済における企業の在り方の場合と同じであると思います。あるいはまた、公正なルールにのっとって行なわれるスポーツ等のゲームとも同じです。さらに、あらゆる生物は、互いに競争しながら、共存しているのではないでしょうか。

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