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宇宙と生命と死  

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

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1  死をどう考えるか
 松下 死を恐れ、死を忌みきらうのは人間の常ですが、しかし、どうしても死をまぬがれないのが人間の定めでもあります。とすれば、たんにこれを恐れ、忌みきらうというだけでなく、死というものに対して、より意義ある積極的な解釈はできないものでしょうか。できるとすれば、それはどういうものでしょうか。
 池田 古来、人類の遺産のなかには、死と直面し、死との対決において苦悩し、考えた人びとの感動的な記録がちりばめられています。これらの人びとの苦闘のなかには、死の恐怖と不安から逃れようと試みたものもあれば、死との対決をとおして豊かな生涯を築きあげた貴重な体験もあります。
 の問題には、必ず人間生命の生死をどのように考えるかといった生命論の中核テーマが関連しており、この生命論の掘り下げがなければ、生死についての考察も、その究極の目的を全うすることはできないでしょう。
 しかし、ここでは、死に対する種々の取り組み方を、古今の哲人、思想家などのなかから、若干の分類をしながら、代表的なものを取り上げ、いったいどのように考えるべきかをのべてみたいと思います。
 さて、死についての考察を、死後の生命の有無という点から分けてみますと、一つは現世だけでいっさいは無に帰するという考え方があり、他は死後の生命存続を認めるものに分類できるでしょう。
 第一の考え方は、人間の生命は死によって消滅、断絶すると主張するもので、したがって、この世は一回限りの人生を営む場であり、死はすべてを奪いさる働きとなります。そこから出てくる死生観の一つは、この一回限りの生をできるだけ貪りたいとする快楽主義となりましょう。また逆に、現在のいかなる努力も結局は空しいものだとするペシミズムに陥る場合もあるでしょう。
 こうした人たちは、自己の生存権を奪いさる死の恐怖と不安におびえつつ、その生涯を閉じざるをえないと思われます。たとえ、死によって現世の苦悩から逃れられるのではないかとのはかない願いを託そうとしても、生命内奥からの生存欲の胎動をどうすることもできないでしょう。
 しかし、この現世限りという考え方も、その人の取り組み方によっては、生を豊かにし、見事な結実を社会にもたらす場合も少なくはありません。つまり、一回限りの生であるがゆえに、全力を投入して、貴重な人生を送ろうと決意した人たちのことです。この場合、ある人は、自己の生命を超えた永遠なる実在に、生死を託そうとするでしょう。
 自己の仕事――芸術作品として、文学として、また、社会への貴重な貢献の足跡として――を、子孫へ、人類へと託すべく、使命感に燃えて戦いおわり、安らかに死を迎えようとする人びとです。
 また、ある人は、いつ訪れるかもしれない死を受け入れるべく、現在、瞬間の生のなかに、永遠なる生命を体得する努力を重ねるかもしれません。
 故・岸本英夫博士(宗教学者、文学博士、一九〇三年〜六四年)は「世界を忘れ、人間を忘れ、時間を忘れたかのような境地に没入する時、人間の心の底には、豊かな、深い特殊な体験がひらけて来る。永遠感とも、超絶感とも、あるいはまた、絶対感ともいうべきものである。この輝かしい体験が心に遍満する時、時の一つ一つの刻みの中に永遠が感得される」(『死を見つめる心』講談社)とのべています。このような境涯のなかには、死が暗い影を落とすこともないでありましょう。
 しかし、瞬間に永遠を会得する境涯は、いわばひとにぎりの人びとに可能なのであって、普遍性をもちえないのではないかと考えます。また、こうした一種の三昧境を会得した人びとであっても、その激動が生命産財を変載し、生涯を彫どうるか磁かとなれば、必ずしもそのようになっていないと思うのです。
 次に、生命がなんらかの形で存続しうると考える人びとのなかには、天国とか、西方浄土とかを想定する考え方があります。だが、死後のこのような世界を、現代人は信じられなくなっているようです。
 生命の永遠性を求める哲理のうち、宇宙生命のリズムとともに生死を輪廻すると考える東洋思想の精華があります。その究極の姿を、私は大乗仏教のなかに発見しうると思うのです。
 仏法では、人間の生は、宇宙の脈動にささえられて豊かな内容を開き、そして、死にいたれば、みずからを生みだした母体ともいえる宇宙生命に帰っていく。しかも、その死は、新たなる蘇生への力をみなぎらせて、生命あるものとしての姿を再びこの世界に顕在化すると説き明かしています。
 したがって、死は生の断絶ではなく、宇宙生命のふところに帰っていく、いわば、新たなる生への始まりであります。
 仏法では、死も生も「本有」のものであり、現在の生の充実は、そのまま死と未来の生をかざり、逆に、愚かな生涯は、やがて到来するであろう生死輪廻を苦悩の色に染めずにはおかない、と主張します。
 こうした仏法思想を会得し、自身に肉化すれば、死の不安と恐怖を乗り越えるのみならず、みずからの将来を充実させるためにも、現在、瞬時の営みをも、けっしておろそかにはできないという心の底からの決意に立脚できるのではないでしょうか。ここにおいて、初めて、死という現実が、この世の生を充実させ、人間らしい生き方を求めようとする根源的な力となりうるのではないかと私は訴えたいのです。
2  死に臨む覚悟
 池田 大変ぶしつけで失礼な質問かもしれませんが、人間として、根本的な課題でありますので、あえてご質問するしだいです。貴方は、いま死に直面するとしたら、不安はないかという問題です。安祥として死に臨む覚悟が、できておいででしょうか。同じ一個の人間として、また一信仰者として、おたずねすることをお許しください。
 松下 私自身、死に臨む覚悟ができているか、というご質問をいただき、じつは、ハッとする思いがしたのです。自分は死に直面したらどうするかというようなことを、深く考えたり、十分自覚するといったことは、正直のところ今まであまりありませんでした。
 今回こういうご質問をいただいて、初めてこのような問題について、はっきりした一つの諦観をもたなくてはならないということを痛感したようなしだいで、私にとってはいわば予期せぬ突然のおたずねですので、今日ただいまの心境をそのまま申し上げてお答えに代えさせていただきたいと思います。
 いま死に直面するとして考えてみますと、現実には悔いを残すような問題も、考え方によってはあるように思います。いろいろな問題について、いつ死んでもいいように十分な整理がしてあるかといえば、必ずしもそうでない面もあります。
 そう考えてみますと、いま死んでは大変に困るということはないと思いますが、かりに三日先に死ぬということがわかったら、その間にあれはやっておかなくてはならない、あるいは十日先であればどういうことをしておきたいといったことは、やはりたくさんあるように思われます。
 しかし、それが何日も先のことではなく、日前の瞬間に迫っているというのであれば、そんなことは考えないでしょう。従容として死ぬか、あるいはうろたえるかは、実際は、その時になってみないとわからないことで、どちらとも申し上げられません。
 けれども、少なくとも二、三日の猶予があれば、こういうこともしておいたらいい、といったものはたくさんあるように思われますから、そのような姿で死に直面したら、できるだけのことはやってみたい感じがします。
 実際に三日先なら三日先に死ぬと知ったら、その瞬間はハッとすることでしょう。それを聞いた瞬間は動転するかもしれません。しかし、次の瞬間には、これはやはり覚悟しなくてはいけないということになると思います。そしてその次には、この二日の間にしておくべきことはしておこう、いっておくべきことはいっておこうと考えるだろうと思うのです。
 いま現在では、以上のように考えておりますが、はたしてそのとおりにできるかどうかは、やはり実際に死に直面してみなくてはわからないというのが正直な心境です。
3  死後の生命
 池田 現代の人びとの多くは、死による肉体の崩壊をもって、生命は″無″に帰すと考えているようであります。しかし、死んでも、実体としての霊魂は不滅であるとする″霊魂説″も、全く否定されたわけではありません。
 私は、死による″生命断絶説″にも、また、いわゆる″霊魂説″にも同意することはできません。仏法では、人間生命は死によって″空″という状態になると主張しています。つまり、個々の生命は、大宇宙という生命体に融合し、融和してしまうと考えるのです。
 ちょうど、この空間に、各種各様の電波が流れ、しかも、独自の波長を保っているように、死の状態における個の生命は、大宇宙と渾然一体となりながらも、個としての特性は保ちつづけています。″空″という状態を説明するための一つの譬えでありますが、少なくとも、私は、死後の生命を考えるうえにおいて、肉体崩壊による″断絶説″、″霊魂説″とは異なった第二の説として、仏法の死後観を提示しうるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 松下 死後の生命は全く消えてなくなってしまうとか、あるいは霊魂として個々に存続していくというような考え方については、私も賛成したくありません。
 私の考えるところは、仏教でいう個々の生命は死後、大宇宙という生命体に融合し、融和するという考え方にやや近いのです。ただ、個々の生命が大宇宙という生命体と渾然一体となるのであれば、個性はもはや失われてしまうと考えたほうが妥当ではないかと思います。
 仏教では、生命の個性は存続し、再びそれがこの世に生まれ変わって出てくると考えるようですが、それは、現世の行ないによって来世の姿が良くも悪くもなるから正しい行ないをせよ、という一つの教化の方法として説かれたものではないかという気がします。しかし、こういう説き方では、現代人には多少理解しにくいものがありはしないかと思うのです。
 生命は肉体が滅ぶことにより宇宙という生命体に帰納するが、そこではもう個性はない、と私は考えます。それは個々人というものは全くあとかたもなくなってしまうのかというと、そうではありません。個々人が生きている間の思い、行ない、実績というものは、この世に永遠に残るのです。現に今から二千年も前になくなられたお釈迦さまの思い、行ない、実績というものは、今日も立派に生きつづけています。また、お釈迦さまでなくとも、すべての人が生きている間の足跡、実績、思いを残すわけです。そしてそれが現実の事実として残されるのです。
 したがって、もし教化するのであれば、善きにつけ悪しきにつけ、個々人としての実績は残るのだから、この世でよりよく生きなさい、というように説いてみたらどうかと思います。それと同時に、個々の実績を後々まで残し伝えていくために、個々人が死んだら、その人の履歴書、功績書を作成し、それを保存していくことにするのも一つの方法だと思うのです。
 新しい生命は大宇宙の生命体から出てきます。そして個々の肉体に結びついて新たな個々人が生まれるのです。たとえば、同じ鉄でつくられているものでも、クワもあればナイフもあります。ところが、それらが使えなくなると、熔鉱炉に入れられて再び同じ鉄になります。そこでは、クワとかナイフといった個性はありません。しかし、その熔鉱炉の鉄によって再びクワもナイフも新たに作られるのです。
 死後の生命が帰納する大宇宙の生命体というものは、あたかもこの熔鉱炉のようなものと考えられはしないかと思うのです。
 死後の生命については、このように宇宙の生命体に帰納し一体となり、個々にはもう存在しない、というように私は考えているのです。

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