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豊かな人生  

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

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1  運命とは何か
 松下 私どもの人生には、人間の力ではいかんともすることのできない大きな力、いわゆる運命というものが働いているようにも思うのですが、私どもはこの運命をいかに考え、これにいかに対処していけばよいのでしょうか。″人事を尽くして天命をまつ″という言葉もあれば、″運命は服従すべきものではなく、開拓すべきもの″ともいわれます。この運命について、ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 私たちが人生の風波を受けつつ生きていくなかで、どうしても運命の存在を感じることがあります。貧富の差、顔の美醜、病気の有無などはもとより、性格の特徴や、事業の好不調にいたるまで、自分の手に負えない巨大な力として、人生のコースを左右しているように思われます。逆説的にいうと、そうした自分の努力によってはどうしようもないものを、人間は″運命″と名づけたということができます。人間はその知恵と努力によって、かつては″運命″として諦める以外になかったものを、変革し支配する力をもつようになりました。しかし、今なお人間の力のおよばない領域は、おのおのの人生において広大な広がりをもっており、相変わらず、私たちの人生は運命という風のまにまに漂う小舟のような存在であると考えることもできましょう。
 しかし、私たちの行動の一つ一つにいたるまで運命のなせるわざだと考えるのは明らかに行き過ぎであるといわざるをえません。なにか一つの事業をやろうとしても、それが成功するかどうかは運命に帰せられ、事業に踏みだすことを決意するのもしないのさえも運命によって決定されていると考えるならば、そこからは諦観か逃避的な楽観主義といったようなものしか出てこないでしょう。「人事を尽くして天命をまつ」ということと、運命を開拓するということとは矛盾しないと思います。自分としてできる範囲については最善を尽くすというのが「人事を尽くして天命をまつ」ということであり、この、最善を尽くすということのなかに、今まで不可能と考えてきた領域を少しでも狭めようという努力は含まれますし、それが「運命の開拓」にほかならないからです。運命それ自体、根底的には、みずからがつくりだしたものにすぎません。つまり、自分以外の誰か――たとえば神のような存在――が自分の運命をつくったり定めたりしたのでなく、自分の運命は自分がっくったのです。
 このことは仏法の三世――過去、現在、未来――にわたる因果論によらなければ説明はできませんが、手近な例をとって考えれば、顔の美醜という動かしがたいように思われるものさえ、その人の行動、姿勢の集積である場合があります。若い時はあまりすぐれた容貌にもみえなかったが、年を経るにしたがって、その人の誠実な人柄がにじみでて、中年に達するころには、人を引きつけずにはおかない魅力をもった人になる場合もあれば、美しい容貌で人にうらやましがられていた人が、すさんだ生活でいつのまにか「ケン」を含んだ顔になる場合もあります。リンカーンは、人は四十になると自分の顔に責任をもたねばならない、といったそうですが、人の行動の集積が、知らずしらずに肉体の微妙な部分まで変えてしまうのでしょうか。
 仏法では「我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん」「人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる」等と説いております。運命を仏法では宿業ともいっておりますが、業とは人の行動の集積であり、それが運命を構成しているとするのです。
 このように考えれば、運命とは、一瞬一瞬の行動、精神の軌跡がつくりだしているものといえます。とするならば、運命は、私たちの生命の働きによって開拓されていくものでもあります。運命の巨大な力を認めつつ、それを転換させていく、より大きな力を、人びとの生命のなかに発見し、それを発掘していく作業が、運命開拓へと通じているのであると私は訴えたいのです。
2  人生コースのモデルは
 池田 古代インド社会では、ことにバラモン階級についていえることですが、自己の人生コースを四期に分けて考えていたといわれます。
 第一が学生期、第二に家長期、第三に林棲期、第四に遊行期です。学生期は、七、八歳になると当時の最高の学問であったバラモンを学ぶ時期で、ふつう十二年間ぐらいとされていました。ひととおり修学すると、次に家に帰り、結婚して家長としての務めを行なうのが第二の家長期で、二十歳から五十歳ぐらいまでの約三十年間ぐらいといわれています。そして、家長の任を終え、跡継ぎを得て、今度は林棲期に入り、閑静な林野に入って、五十年の人生を省察し、自然のなかで自己の人格を完成します。その修行に区切りがつくと、林野を出て、無一物となって、各地を托鉢遊歴するのが、最後の遊行期です。
 現在、私たちの人生においても、第一、第二にあたる時期はありますが、第三、第四の、哲学的、省察的な人生の完成期というものは、ほとんど明確には意識されていないことが多いと思います。
 現代とインド古代の時代では、社会環境も、生活条件も、いちじるしく異なっていますから、これと同様の人生コースをすべての人がとることはできないと思いますが、やはり、いかなる時代であれ、一個の人間として、それなりに理想としては、これに類した自己完成への人生コースが考えられてしかるべきだと思いますが、いかがお考えでしょうか。
 かりに、こうした人生コースを考えるとしたら、どのようなモデルを望まれ、理想とされますか。
 松下 人間がよりよき人生を歩んでいくうえで、このような自己完成への人生コースを考えるというのは、まことに好ましいことだと思います。こういうことを昔の人が考え行なっていたというのはすばらしい知恵だと敬服させられます。今日は時代が違うため、その形態には当然差異はありましょうが、しかしお互いの人生のうえでそういう心持ち、そういう区切り、転換期については、これはあっていいというより、むしろ昔より今日のほうが必要とされているのではないかと思います。
 どのようなモデルがいいかということについては、私自身、これというものを持ち合わせませんが、ご質問に示された四つに分ける分け方も非常に興味があります。ご指摘のように、今日では哲学的、省察的な人生の完成期といったものがほとんど意識されていないのが実情でしょう。ですから時代が違うため、このとおりにはいかないでしょうが、そういったものを好射しつつ、このモデルのように四つなら四つに分けるということを一人ひとりが考えてはどうかと思います。
 ただ今日では、あらゆる面に多様化が進み、人さまざま、それぞれに異なった人生の歩み方をしています。ですから、昔のように、すべての人にあてはまるような人生コースといったものは考えにくいし、考える必要はないと思います。それぞれの人が、人生の意義ということに思いをいたしつつ、それぞれの人生に即した人生コースを考えていったらいいでしょう。そういうものを考えていくひとつの手がかりとしても、ご質問に示されたモデルはよき参考となるものだと考えます。
3  普遍的な生き方
 池田 現代は価値の多元化の時代といわれております。その影響もあって、今日、人間の生き方の問題も、さまざまに分裂しているようです。「人はどう生くべきか」などといえば、たちまち若い人たちから反発をうけそうな状態です。しかし、人さまざまに生き方があるにせよ、人間としてこれは踏みはずしてはならないという普遍的な基準はやはりありますし、それを無視しては、人間らしさをこの社会、文明から失うことになるでしょう。
 こうした普遍的な人間の生き方の基準についてどうお考えでしょうか。
 松下 今日の社会は、いわゆる不信感に満ちみちているような感じがします。そういうところから、たとえば青い物でも、それを素直に青いと見るのでなく、赤い物と見るといったような錯覚に、お互いが陥っているわけです。そのような姿が好ましくないことはいうまでもありません。
 やはりお互いがもっと冷静になって、なるべく相互に信頼しあい、だまされることはあっても、だますことのないといった姿を生みだすための基本的な心がけというものをもたなくてはならないと思います。
 その基本的な心がけはどこに求めたらいいかといいますと、結局、人間がお互いに人間を尊重しあいつつ、共同生活にプラスしていくということではないかと思います。こうしたことは、きわめて平凡というか当然のこととも考えられますが、その当然のことが行なわれていないのが今の社会です。人間尊重が盛んに叫ばれながら、むしろ反対に人間が軽視され共同生活の調和向上が妨げられているのが実情です。ですから、真の人間尊重とはどういうものであり、何が共同生活のプラスになることかが、正しく見極められなくてはならないでしょう。
 それと同時に、そういうことの前提なり基礎として大事になってくるのは、自由な活動ではないかと思います。それが与えられなくてはならないと思うのです。
 もちろん、その自由な活動というものは、他を不自由ならしめるとか、他をおとしいれるようなものであってはなりません。しかし、そうでないかぎり原則として自由な活動が許される社会でなくてはならないと思います。そういう社会におかれていないとすれば、普遍的な活動、普遍的な生き方というものも、やろうと思ってもできないのではないでしょうか。
 良心の命ずるところといいますか、普遍的な良識のもとに自由が許されるという状況においてのみ、普遍的な生き方ができるのであって、そういう自由が制約されていたら、そこにおける生き方は普遍的とはいえないと思うのです。
 ですから、良心にもとづく自由が妨げられることのない社会、そういう社会をつくるということをまず心がけなくてはならないと思います。そのようなところから、初めて真の人間尊重なり、共同生活の向上も生みだされてくるのではないでしょうか。

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