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人間について  

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

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1  人間としての役割
 松下 個々の人間の一生は、だいたい七十年。その人間としての生活体験は、長久な人類の過去、そして未来からみれば、ほんの一瞬ともいえるほどの、つかのまの年月といえます。
 しかし、いわば瞬時ともいえる個人の一生も、人類の過去から未来をつなぐ大事な一コマであり、われあればこそ人類の永遠性も保たれるということになると思います。いいかえれば、人間は誰しもが、人類の長久な流れのなかの、過去と現在をつなぐ重要な存在であるといえます。その意味において、すべての人間は過去をしのび、未来を思う責任というか、権利と義務というものがあると思いますが、ご高見をいただければ幸いです。
 池田 すべての人間生命は、他の何にも代えることのできない尊貴な存在です。
 ご質問のなかでも明記されているように、一個の人間生命生誕の基盤には、長久の人類の歴史が脈うっています。さらにさかのぼれば、宇宙、地球、生物進化の営々とした流動にまでつながっていくことでしょう。
 現代に生を享受する私たちの生命は、こうした、地球、生物、人類の過去のすべての遺産にささえられて初めて、この世界にうぶ声をあげ、人間として生きることが可能となっているのです。つまり、発祥以来の人類の努力の結晶とそれが集大成した現代社会、また、地球流転が四十六億年にもおよぶ年月をかけてつくりあげた大自然のささえが、一人の人間の生存には必要不可欠であるとの意味であります。
 私たちは、こうした過去と現在の人類と自然の恩恵を満身にうけて、かけがえのない生涯を開くベく、この地上に出現したといえるでしょう。
 逆に未来を考えるならば、私たち現代の人間の賢明な所作が未来の人類の歴史を開拓していくであろうことも事実です。したがって、現代の人びとの人間としての働きがなければ、未来の人類の繁栄を招来することもできないでしょう。
 そうした意味からすれば、おっしゃるとおり、一個の人間生命はそれ自体が尊貴であるとともに、未来永劫の人類社会を開くべき重要な役割が、私たち自身に課せられていると考えるべきです。
 とすれば、現代人が過去をしのぶのは、たんなる郷愁や知識の集積のためではなく、みずからをささえる基盤に目を開き、過去と現在の人間社会と大自然への感謝の心をはぐくむとともに、過去の遺産のなかから、人類の永遠性を保証するための貴重な知恵と素材をくみあげる努力を忘れないことが肝要でしょう。
 過去からくみとった教訓、知恵は、自己の生命と現代社会の変革を通じて、未来の人類の道を開く偉大な力となりうるはずです。そうした営みと決意のなかにこそ、未来を思う責任と義務が生じてくるのではないでしょうか。
 未来を思うとは、人類の輝ける永遠なる社会を築くべく、自分なりの努力を尽くすことでありましょう。自己をささえてくれている基盤の計り知れない恩恵に開眼しない人の心が、未来人類の行く末を案じることもありえないでしょう。
 未来のための人間変革、社会改造に全力を投入する人の行動からのみ、やがて生をうけるであろう子孫たちに人類社会の永続性を保証すべき権利が受け継がれていくと思うのです。
2  人間内面の法則
 池田 人間は他の動物と異なり、知恵ある人として特色づけられています。その結果、飽くなき自由を求め、創造性を発揮すべく活動しています。一見すると、一人ひとり、無制限に自由と創造性が与えられているようにも思える面があります。今日の人びとは、むしろこの考え方に立って、その生を謳歌しているかに見受けられます。たとえ制限を加えるものがあったとしても、他の人間の自由との衝突、ひいては社会秩序との軋礫など、あくまでも外部的な制約がその原因と考えられています。
 そこで、お聞きしたいのですが、人間一個の内面で、精神の自由と創造性をコントロールする、なんらかの力なり働きなり、あるいは肉眼には見えないが厳として実在する法則なりがあるとお考えですか。もし、あるとすれば、それはいかなるものとお考えでしょうか。
 松下 人間のなかに、目には見えないが、みずからをコントロールする力なり法則なりが働いているかどうかというご質問ですが、私はそういうものはあると思います。
 一般の動物をみましても、そういったものをあるていどもっているような感じがいたしますが、人間はそれをはるかに高度に広い範囲で働かせていると考えられます。
 それはどういうものか、的確には申し上げられませんが、精神的良識と申しますか、人間的理性と申しますか、いわゆる良心といったものではないかと思います。良心というものは、教えられて初めて身につくものだという考え方もできるかもしれませんが、私はそうではなく、生まれながらにしてもっている、いわば天与のものとしてそなわっていると思うのです。ですから、それを意識するとしないとにかかわらず働いているわけで、その意味では、いわゆる善人という人だけがもっているのではなく、悪人も悪人なりの良心をもっているといえましょう。そういうものが、その人のもつ判断力などと総合されて、そこに自制、コントロールがなされてくるわけです。
 もちろん、そういった良心のあらわれ方は人により時代によって異なってくるでしょう。非常にそれが強く働くという立派な人もあれば、あまり働かずに、ともすれば自制ができず悪に走りがちになるという人もあると思います。社会全体として、人びとの良心の働きが盛んであるという好ましい時代もあれば、きわめて低調だという時代もありましょう。そういうことを考えてみますと、私は、良心を導き育てる教育、良心を培養する政治というものがきわめて大事になってくると思います。つまり、人間のなかに本来そなわっている良心をいかに引きだし、涵養するかということが教育のうえで最も重要なこととして考えられなくてはなりませんし、また政治のうえにそういう配慮がなされなくてはならないということです。もちろん、教育にしろ、政治にしろ、本来、人間のなかに良心というものがないならば、これを植えつけるのはきわめてむずかしいことでしょう。けれども幸いにして、そういうものがあるのですから、そのことを正しく知って、いかに適切にこれを培養するかを考えたらいいと思うのです。
 ご質問にもあるように、今日は非常に自由や創造性が伸びのびと発揮されている時代だけに、それをみずからコントロールする良心というものの自覚と培養は、きわめて大事だと思います。
3  人間の本質
 松下 一千年後、人間の本質というものは、大きく変わっているでしょうか。変わるとすれば、どう変わっているでしょうか。また、変わらないとすれば、なぜ変わらないのでしょうか。
 池田 ご質問にお答えするにあたって、まず、人間の本質とは何か、ということについて考えをはっきりしておく必要があります。
 古来、多くの人びとによって、人間の特徴とか、人間のまさに人間たるゆえん、根拠についての考え方が提示されてまいりました。思いつくままにあげてみましても、「道具を使う生物」「社会的動物」「遊ぶ人」などの名称もあれば、リンネのつけた学名では「ホモ・サピエンス(賢い人)」となっています。シャルル・リシエのように「ホモ・ストゥルトゥス(愚かな人)」と皮肉たっぶりに呼ぶ人もいます。
 東洋においては、梵語で、人間を「末奴沙まぬしゃ」といいますが、これは「思考する者」との意味です。もっとも、この呼び名は、ドイツ語の「メンシュ」、英語の「マン」、フランス語の「オム」等と共通しています。私は、人間の人間たるゆえんの一つは、やはり、理性をそなえ、知性の発動をなしゆくことであると考えます。他の生物と人間のなんといっても最も大きい相違点は、理性、知性の有無にあるとするのが妥当だと思うからです。
 また、理性とともに良心、愛なども、人間の根拠となりましょう。愛情は、他の動物とも共有する面もありますが、人間らしい聡明な精神的愛は、人間生命特有のものと考えざるをえません。
 しかし、人間生命と他の生物との相違は、逆説的なようですが、人間行為の愚かな側面にも見受けられます。つまり「ホモ・サピエンス」であるとともに「ホモ・ストゥルトゥス」でもあると、私は思うのです。その愚行の本源を、ニーチェやアドラーは「権力への意志」「権力欲」等ととらえていますが、私も、全くそのとおりだと思います。
 二十世紀後半に入ってからは、大脳生理学の成果が、人間の前頭葉をそのよりどころとする「殺しの血潮」を指摘しています。前頭葉の発達は、人間の肉体上の生理学的な特徴の最たるものであり、理性の働きは、ここを主たる場としていることは、ひろく認められているとおりです。それとともに、権力意志にかられた殺戮への血潮は、たしかに人間生命内在の特質の一つとしてあげることができましょう。
 人間は、今をさる数百万年の昔からこれらの特徴をあらわし、一方では生命の内に理性、知性、意識、良心、愛をはぐくみつつも、同時に、殺戮への魔性をいだいて、この地球上に、独自の生命体としての足跡を刻みはじめたのです。
 理性、知性、良心、愛の胎動が、道具の使用、社会生活の形成、技術の進展、哲学、科学の成立をも可能にしたと考えられます。しかし、同時に、権力意志、生命内在の魔性を引きずりだし、他の生物にはみられない殺戮の無残な愚行を繰り返すことにもなったのです。こうして、人類の歴史は明と暗のしじまを織りなしつつ、二十世紀後半の現代におよんでいます。
 その間、外面的な社会、経済、風俗、習慣、制度などは、各々の民族によって、また時代の変遷によってめまぐるしく歴史を彩ってきました。時代により、場所によって理性や良心などの発現の仕方は変わり、その強度も千差万別でありましょう。また、人類の足跡が、地球上のいずこであろうと、血なまぐさい戦いの惨事に染められたことのない場所はないといってよいほどです。
 このような歴史をとおして、人間の本質に考察の焦点をあてるとき、今後一千年たとうと、善悪をともに内在している人間生命の基底、根拠が大きく変化するとは考えられません。もし、人間としての特質が消滅することがあったとすれば、それは、人間生命そのものの断絶以外には考えられないでしょう。
 一千年後の世界の様相、政治、経済、習慣などは、現在の私たちには想像もつかないほどの変化をみせているでしょう。だが、人間が人間である以上、本質的部分は、おそらく変わらないであろうと思うのです。なぜなら、人間の人間たるゆえんを形成している善なるものと悪なるものとは、そのあらわれ方の違いであって、いわば表裏一体のものであり、一方のみをなくすことはできないからです。

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