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日蓮大聖人・池田大作

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8 至高の人間的価値  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 人間の行動の基準となる価値体系には種々のものがあります。たとえば、すべての価値は個人的な好みの問題であると主張する人がいます。また、社会体制のなかから生まれた価値の基準――財産、社会的地位、娯楽などの価値――を行動の規範とする人もいます。さらに、シュヴアイツアーが″生命への畏敬″と呼んだ概念に基づいて、貪欲の克服、愛、知識欲などを基準にすべきだという人もいます。
 私は、このシュヴァイツアーの考えにも相通ずると思いますが、生命の尊厳に至上の価値をおくことを、普遍的な価値基準としなければならないと考えます。つまり、生命は尊厳なものであり、それ以上の価値はありえないという考え方です。宗教的にも、社会的にも、それ以上の価値を他に設定することは、結局、人間性への圧迫をもたらすことになるでしょう。
 トインビー おつしゃる通り、生命の尊厳こそ普遍的、かつ絶対的な基準です。ただし、この場合、″生命″という言葉を、宇宙の万物から分離した、あるいは半ば分離した、われわれ人間をその一種とする″生物の生命″というものに限定してはなりません。宇宙全体が、そしてそのなかの万物が、尊厳性を有するという意味で生命的な存在なのです。自然界のなかの、いわゆる無生物や無機物もまた尊厳性を有するわけです。大地にも、空気にも、水にも、岩石にも、泉にも、河川にも、そして海にも、すべて尊厳性があり、もしわれわれ人間がそれらの尊厳性を冒すならば、われわれはすでに自身の尊厳性をも冒していることになります。
 私は、このことの真実性は、植物界、動物界、人間界はもちろんのこと、いわゆる無生の自然をも尊重するという古来の伝統をもつ日本人にとっては、きっと明白にわかっていることだと思います。この伝統は神道のなかに制度化されていますし、また、この伝統とともに日本人の強い美的感覚、鋭い審美眼がつちかわれてきたわけです。しかし、ほぼ百年前に西欧から近代科学技術を導入して以来、なかんずく、第二次世界大戦以後、驚異的な技術知識の増加、生産性の爆発的増大をみてからというもの、日本人も無生物的自然の尊厳を冒し始めています。
 今日、人間の技術がもたらした自然の汚染に対して、世界的な反発がみられます。現在の世代は、人間が自然の尊厳を冒すことによって、結局は自らの尊厳を冒しているということを知ったわけです。私の知るかぎりでの日本の歴史、日本人の尊厳観――これは日本人の生活の特徴であり、外国人には深い感銘を与えるものですが――から考えてみますと、日本ではすでに環境汚染に対する反発がきわめて強いものになっているか、さもなければ、すぐにも強烈なものとなるのではないかと思われます。
 池田 ご指摘の通り、日本における環境汚染は深刻な社会問題となっております。環境汚染への反発は、その地域の住民の抗議運動として表面化してきていますが、まだ法的には、汚染源に対する十分な取り締まりが実施されておりません。
 生物界、無生物界を含めた自然には、日に見えない″生命の糸″が、クモの巣のように張りめぐらされていて、本来は、全体として見事な調和が保たれています。人間といっても、その自然の一部であることには変わりなく、人間がその技術をもって無生の自然を傷つければ、それは人間自身を傷つけることになります。仏法では、このすべてを含んだ自然を――いな、大宇宙それ自体を――″生命″としてとらえているのです。
 ところで、カントは「目的の国では、いっさいのものは価格をもつか、さもなければ尊厳をもつか、二つのうちのいずれかである。価格をもつものは、何かほかの等価物で置き換えられ得るが、これに反しあらゆる価格を超えているもの、すなわち価のないもの、従ってまた等価物を絶対に許さないものは尊厳を具有する」(『道徳形而上学原論』篠田英雄訳、岩波文庫)と述べています。
 生命が尊厳であるということは、いかなる等価物をももたないということです。何ものも、それと代替することはできないのです。いま人々は各人各様の価値基準をもつようになり、価値の多様化が叫ばれています。これは、人間が、たとえば国家主義といった狭い枠の価値観から解放された点では、望ましいことです。しかし、その価値の多様化を認めても、それを包含する共通の基盤となるべき価値観が必要なのではないでしょうか。そうした基盤がなければ、人間相互の信頼と協調は成り立たなくなってしまうからです。こうした包括的な根本の価値観をつきつめていくと、それは結局、人間としての価値であり、生命の尊厳ということになると思うのです。
 トインビー 私はここでも、あなたの信条と仏教の生命観に共感をもちます。ただいまカントの著作の一節から引かれた、価格と尊厳の区別にも、啓発的なものがあります。価格とは相対的なものであり、価格をもつものはすべて、なんらかの等価物との交換が可能です。そこに貨幣の効用があることはいうまでもありません。
 これに対して、尊厳――名誉といってもよいでしょう――は、相対的なものではなく、絶対的なものです。いかに価値あるものでも、尊厳や名誉と代替しうるものはありません。人間は、財産や社会的地位を得るために、いな、たとえ自己の生命を守るためであっても、自身の尊厳と名誉を売るようなことをすれば、他人から軽蔑されるばかりでなく、自らも自身を軽蔑することになります。尊厳や名誉の喪失は、道徳的・肉体的怯儒の代償です。尊厳は、何ものによっても代替できません。ひとたび尊厳を失ったら最後、三度と再び取り返しがつかないのです。
 『新約聖書』の次の一節は、そのことを意味するものだと思います。「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買二戻すことができようか」(マタイ伝十六章二十六節、マルコ伝八章三十六〜三十七節)
 人間は、自己の尊厳を売れば、それを永久に失ってしまいます。また、他の人々の尊厳を重んじなければ、自己の尊厳をも失うことになります。つまり、他人に恥ずべき行為をとらせようとするのは、それが迫害によろうと贈賄によろうと、それ自体不名誉なことなのです。そうした迫害者、ないしは誘惑者は、倫理的に不条理な圧力のもとで、相手が自己の尊厳と名誉を守ることができようとできまいと、それにはかかわりなく、自分自身が尊厳と名誉を失うのです。
 池田 おっしゃる通りです。結局、どのような価値体系を支持するかによって、その人の、人生に対する考え方が決まってきます。したがって、確立されるべき価値体系のあり方、また、それをどう実現するかが問題です。
 トインビー 尊厳が、他の価値とは異なり、何ものとも代替できない絶対的価値であるという命題には私も同感です。さらにこの命題から、私は次のように結論したいと思います。われわれ人間は、自らの尊厳を自覚するならば、謙虚になるべきです。たしかに人間性は尊厳ですが、それはまだ不確かなものであり、決して完全ではありません。人間が尊厳であるのは、私心がなく、利他的で、憐み深く、愛情があり、他の生物や宇宙そのものに献身的である場合に限られます。貪欲で侵略的であるかぎり、人間は尊厳ではありえません。われわれは、人間の常として、貪欲で侵略的になりやすいのですが、これは恥ずべきことです。こうしたわれわれの倫理的行為における貧困は、技術上の業績の華々しさに比べるとき、一層屈辱的となります。
 池田 人間生命は、他にかけがえがないという意味において、それ自体、尊厳です。しかし、いま博士がおっしゃったように、その生命を真実に、そして事実上、尊厳なものとするためには、人間一人一人の努力が必要です。自らの尊厳に対しては、自身が責任を負っているというべきでありましょう。
 生命が他にかけがえのない尊厳なものであるという意識は、人間が高度な意識能力をもつ存在となった当初から、すでにあったと思うのです。ところが、現実のうえでは常に互いに憎しみ合い、傷つけ合う、醜い生命の葛藤の歴史を歩んできました。詮ずるところ、自己の生命の働きを、人々を傷つけるような醜いものではなく、すべての他の生命を慈しむ、美しいものにすることによって、事実のうえで人間生命を尊厳ならしめる以外にないと考えます。
 トインビー これまで、人間の倫理的行為の水準は低いまま、少しも向上を示しておりません。しかし、技術的業績の水準は急カーブで上昇し、現代におけるその速度は、記録に残っているどの時代よりも急速です。そして、その結果、われわれの技術と倫理の格差は、かつてなかったほど大きく開いています。これは屈辱的であるだけでなく、致命的ともいえるほど危険なことです。
 こうした現状に対して、われわれは恥ずべきであり、かつ、この恥辱感を忘れずに、尊厳性――それがなければわれわれの生命は無価値であり、人生もまた幸福にはなりえないその尊厳性――を確立するよう、一層努力しなければなりません。人間が熟達しているのは、たしかに技術の分野ですが、そこでは人間の尊厳は確立できません。人間の尊厳の確立がなされるのは、倫理の分野以外にありません。そして、こうした倫理上の目標達成は、われわれの行動が、どれだけ貪欲性や侵略性に支配されず、どれだけ慈悲と愛を基調としているかによって評価されるのです。

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