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日蓮大聖人・池田大作

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7 愛の領域の拡大  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 女性の顕著な特徴として、その愛がきわめて純粋であるとともに、それゆえにまた、独占欲もきわめて強いということがよくいわれます。この独占欲は、もちろん男性にあっても否定できない側面であり、一部の男性の場合、女性のそれよりも一層強い形であらわれる例もありますが、一般的には、男性と女性を比べると、とくに女性に顕著な傾向であるといえましょう。
 トインビー 一般に女性の愛と独占欲は男性のそれよりも強いという点については、私も異論がありません。ただし、私は、女性の特質として、その二つのほかに忍耐力を付け加えたいと思います。忍耐力は、独占欲とともに、愛に本来付随するものです。この忍耐力は、女性にとってプラスの資質であり、育児だけでなく、母親としての仕事以外の職業にも生かされるものです。
 女性が、かつて男性の領分であった職業のいくつかに進出してきたのは、つい最近の出来事ですが、すでに仕事によっては、女性のほうが男性よりも優位に立っているものもあります。その成否が細かい注意力によって左右されるところが大であるため、忍耐力が貴重な資質とされるような仕事がそれです。たとえば、考古学、それに結晶学と呼ばれる学問、また秘書や電話交換手などの仕事がよい例です。私は、秘書の仕事を召使い的な仕事とみなすべきでないと思っています。秘書は――その雇い主が男性であろうと女性であろうと――常にその実質的な母親のような存在たりうるものです。
 女性にとって、独占欲はたしかに潜在的なハンディキャップです。母親業そのものにあっても、女性は、もはや親の保護が子供の養育に必要でなくなり、むしろ窮屈さを与えるような段階に入っても、まだ子供を手放すことに困難を感じることがよくあるものです。母親が、いつまでもこの不当な独占欲にとらわれ、そのなすがままにされるとき、すでに彼女の愛は、悲しいことに、貪欲へと変容していきます。この貪欲にとらわれた母親は、ときには、自分の子供がその人生において、すでに配偶者や子供たちに注意や愛情を振り向けるべき段階に入った後も、なおかつわが身のほうにそうした感情を要求しがちなものです。こうした強要的な態度をとることによって、その母親は、結局、子供の人生を台なしにしてしまうことがあるわけです。この独占欲に傾きやすい性向のため、女性は、母親業以外の職業においても、管理機構のなかで扱いにくい存在となることがよくあります。
 池田 私は、女性特有の強い愛にこそ、女性が社会に対して働きかける力の本源があると考えています。博士は、女性の特質として、愛に付随する忍耐力と独占欲をあげられました。たしかに忍耐力は、愛を具体的行動にあらわすのに、このうえない助手となって働きます。そして独占欲は、一つの対象ヘ向けての愛情を強めると同時に、反面、その愛を偏狭なものとしていきます。
 そこで問題は、この愛の純粋性を堅持しつつ、なおかつ、それによって狭い視野に目をふさぐのでなく、それをいかに社会のなかに広く反映できるか――ということにあるといえましょう。ここにこそ、女性が自らの主体的な行動によって、新しい自己の像を創造していく出発点があるように思われます。
 私は、それを可能にするのは、結局、女性が自らの愛のめざすものを、個人的な枠を超えて、普遍的な目で見ていくことだと思います。つまり、なにゆえに、自分は夫を、子供を愛するかというところまで掘り下げていく必要があるのではないでしょうか。
 そういった本質的なことをつきつめて考えていきますと、女性には、生命というこの世で最も尊い存在を守り、防衛していこうとする、本能的なものがあるという結論が得られましょう。女性は生命を生み出すがゆえに、その生命を男性よりもいとおしみ、生命を破壊する闘争・戦争を、より嫌うという特質がそなわっているように考えられます。女性の愛を支えるものは、ここに見いだされるのではないでしょうか。そして、ここに立ち至るとき、その愛は普遍的なものになっていくと思います。
 トインビー 女性の愛はより強く、闘争心はさほど強くないものだとのご指摘には、私も同感です。この女性の美徳は、人類が近い将来に到達しなければならない目標のうち、少なくとも二つを達成するのに役立つ、最も重要な要素となりましょう。それらの目標とは、一つは戦争の廃絶であり、もう一つは攻撃的な競争心の抑制です。
 女性が男性よりも戦争を嫌うことは、周知の事実です。女性自身、伝統的に兵役を免除されてきたということもありますが、むしろ女性本来の傾向として、夫や息子が戦争で殺されたり、重傷を負わされるのはこのうえない残虐であり、それは自国の戦勝がもたらすどんな利得によっても償えるものでないことを、感じ取っているのです。この点、自分たちの息子を死の戦地へと駆り立てたスパルタの母親は、その振る舞いが女性としてきわめて不自然であったため、悪評を買っています。また、組合労働者の妻には、ストライキによる賃上げ要求に夫ほど熱心でない傾向がみられます。ストライキは、一時的にせよ家族を困窮させるものですし、ときには家計の収入源である企業自体をも破産させ、その結果、家族を長期的に困窮させることもありうるからです。
 以上二つの場合には、女性の独占欲と愛の深さが一緒に作用して、戦争よりも平和を、そして経済闘争よりも経済協調を、女性に選ばせることになるわけです。
 池田 そうした女性本来の、生命の尊厳を守り、育み、大事にしていくという特質は、それ自体、人類にとり、人間社会にとってきわめて普遍的な重要性をもっているといえます。
 女性が狭い個人的愛から、そうした、世界へ開かれた普遍的な愛に根ざして進んでいけば、私は、それが、地道ながらもきわめて大きな、反戦平和への潮流になっていくに違いないと思います。そして、女性がこの本来的な自らの使命に生きるところに、真実の女性解放があると信ずるのです。
 トインビー ええ、まさにおつしゃる通りです。女性の独占欲は、女性の視野を家族への関心に限る傾向がありますが、これに反して女性の愛は、本来普遍性があるものです。なぜなら、普遍性こそが愛の本質をなすものだからです。愛とは、自己を捧げること、つまり、自己のために奪うことの逆を意味します。愛は、宇宙大とはいかないまでも、独占欲(貪欲)と同じく、限りない広がりをもっています。
 かつて中国の哲学史において、人間の愛の正しい配分のあり方について、論争が繰り広げられました。孔子の立場に論拠をおく儒家の哲学者孟子は、愛の差別的配分を主張しました。孟子によれば、自分の家族に対する愛は、それ以外の人々への愛に優先させなければなりません。家族以外はすべて他人であり、外部の人間とみなされたわけです。この孟子説に反駁したのは墨子でした。彼は、人間の愛はあらゆる人々に平等に及ぼされるべきであるという立場をとりました。
 こうした愛の問題は、人間生活に常につきまとう基本的な倫理的・社会的問題の一つです。しかもそれは、今日、火急の課題となっています。いまや人類が単一の家族として、ともに生きる道を体得しなければならないことは、きわめて明白です。距離が抹殺され、原子力が兵器に利用されている今日の状況下にあって、人類が集団自殺を免れる道は、それ以外になくなっているからです。まして、現代社会の動向は、技術上の諸成果が要求している情勢とは、まったく逆の方向へと人類を引き込んでおり、そのため、この愛の問題は差し迫った課題となっているのです。
 すでにナショナリズムはますます偏狭さを帯び、人類はより小さな単位へと分化して、それぞれ地域国家としての主権を主張しています。また、それらの国家のなかでは、家族構成の規模がますます縮小されつつあります。かつて伝統的な人間の家族にあっては、一つ屋根の下に両親と子供たち、それに祖父母たちが一緒に住んでいたものです。ところが、都市化の進行につれて、家族構成は夫婦とその子供たちだけへと縮小する傾向にあります。家庭にはもはや祖父母の居場所はなく、子供は成人するにつれて親に対する義務を負わなくなってきています。
 こうみてくると、家族関係に本来そなわる義務を説いた儒家の主張が、今日ほど適切となった時代は、いまだかつてないのです。同時に、普遍的な愛を義務づけようとした墨子の説は、すでに技術面での統合をみながら心情的な統合がなされていない現代世界にあって、さらに当を得た主張といえます。
 池田 儒家の愛は、父子・君臣の関係を中心として、親疎の別を立て分け、近きから遠きへ及ぼしていくものとしています。これに対して墨子の兼愛説は、このような差別を認めず、自分を愛するように人を愛し、自分の父を愛するように人の父を愛し、自分の国を愛するように人の国を愛さなければならない、としています。
 その立場の違いは別として、そこで説かれる仁愛が今日の社会において必要とされることは、博士のおっしゃる通りです。現在、個人的にみれば、最も身近な親・兄弟を愛せない人々はおろか、自分の子供への愛さえ失っている人々もいます。この風潮はまた、自分自身の生命を軽んじ、自殺や、あるいは自殺的暴挙に走る傾向とも、無関係とはいえないと思います。「自分を愛するように人を愛する」といっても、その自分への愛すらも失っている姿が、現在、しばしば見受けられます。私は、この愛を生み出すものは、自己の生命、宇宙の生命への深い理解以外にはないように思います。自己の生命への深い理解は、他の生命存在への理解と尊重を生み出します。
 さらに、国際的見地から論ずれば、エゴと偏狭と、それに基づく無理解とが渦巻く現状にあって、墨子の説く普遍的愛の精神が最も当を得た主張であるとの博士の説には、まったく賛成です。利己を去って愛他に立てと主張する墨子の兼愛の説は、侵略戦争反対の論理を導きます。すなわち、他人を侵害して自利を図る窃盗行為が非難されるのと同様、強大国が弱小国を侵害し、大量の殺人を犯し、経済的損害を与える行為も非難されるべきだと説きます。この論理は、非常に近代的であると思います。ただ、墨子の説く兼愛は、全中国的規模のものでしたが、現在、これは、全世界的なものとして理解すべきでしょう。
 トインビー 孔子は、現世代の人々と同じく、戦闘的なナショナリズムの横行する時代に生きた人です。一般には、戦国時代は孔子の死後に始まったとされていますが、じつはすでに彼の存命中に始まっていました。孔子が″家″と″国家″を類比させ、そこから、臣民は統治者に対して、子供が父親に向けるのと同じ献身の義務を感じ、実践すべきであると説いたのは、意義深いことです。中国が政治的に統一され、儒教が帝政中国の正統哲学となって以来、.統治者をもって大規模な家、すなわち国家の長とする儒教の思想が、皇帝に適用されました。帝政時代の儒者の説くところによれば、皇帝は″天下万物″を含む一大家族の長であり、したがって、元来、家長に向けられていた愛と忠誠は、敷衍して皇帝にも向けられるべきであるとされたのです。
 人類の歴史が進んで、現代に入ってからは、この″天下万物″はさらに地球全域と全人類を包括するものへと拡大しています。それは、かつて一八三九年までの二十一世紀間、中国の統治権下、ないし宗主権下、または文化圏内にあった――全世界の人口にまでは至らないにしろ――巨大な数の人々の範囲に、もはや限定されるものではなくなっています。
 愛の対象が段階的に、つまり同心円にたとえれば、その中心たる自分から遠ざかるにつれて、漸減的に配分されるべきであるとする儒家の主張は、無差別な普遍的愛を義務づける墨子の説に比べれば、明らかに人間の本性になじみやすいものです。赤の他人を愛するよりも知己を愛することのほうが容易なのは、人間誰しもが経験的に知っていることだからです。ところが、現代における絶対の要請とは、まさにこの見知らぬ他人を愛し、その普遍的な愛を実際の行動に移すという、困難な倫理的要求を満たすことなのです。儒教の教えは、同心円の最も内側の円に比べて最も外側の円では、愛の作用が弱まるのは当然としながらも、なお愛の及ぶ領域については普遍的たるべきことを説いています。したがって、儒教も、原則的には、墨子の立場をとっているといえましょう。
 もう一つ意義深いことは、従来、中国社会では、絶対的な墨子思想よりも、この儒教の絡んだ相対的な墨子思想のほうが支配的であったわけですが、にもかかわらず、今日の中国が伝道的イデオロギーーーすなわち、単一の同胞共産社会への人類統合をめざす共産主義思想――を取り入れたということです。共産主義は、それよりも古い伝道的宗教、すなわちキリスト教の異端的改訂版であり、キリスト教こそマルクス主義のユニバーサリズム(全人類解放説)の源泉をなすものです。
 共産主義出現以前の三つの主要な伝道的宗教――仏教、キリスト教、イスラム教――の創始者たちは、いずれも全人類救済の道を説くために家族と縁を切り、生まれ故郷を離れています。この点、聖フランチェスコもイエスと同じ道を歩んでいます。彼は、イエスの例にならって修行する自由を得るため、父親と絶縁しなければなりませんでした。
 池田 全人類への普遍的な愛は、偏狭な愛に縛られていては得られません。そして、普遍的な愛に立脚しない偏狭な愛は、それ自体としても、真の愛ではありえないでしょう。したがって、普遍的な愛を体得するためには、肉親への偏狭な愛の絆から一度離れる必要がある、そして、そこに得たものこそが、肉親などに対しても真の愛となることができるのだと思います。
 トインビー 仏教が中国の一宗教として取り入れられた後、新儒教学派の哲学者たちは、仏陀が家族を捨てたことを儒教的倫理観のうえから痛烈に非難しました。私は、普遍的な愛だけが人類の自己救済ヘの唯一の希望となっている、現代の人間事象の危機にあっては、″天下万物″への義務と親密な家族関係への義務を同じとみる儒家の立場は妥当なものであり、現代人はこの意味での儒教的な立場をとるベきだと思います。そしてさらに、こうした儒教の愛に対する自由解釈的な立場から一歩進んで、墨子の立場にまで至るべきだと思うのです。つまり、現代人は、段階や制限を設けない普遍的な愛への到達をめざすべきです。この墨子の道は孔子の道よりもたしかに実践しがたいものです。しかし、私には、孔子よりも墨子のほうが、現代人にとって最も適切な道を説いているように思われるのです。
 旧世界の西端部では、ギリシャ哲学におけるストア学派の創始者ゼノンが、人間は宇宙の一市民であることを説きました。ゼノンは、自説がすでに東アジアの先哲によって唱えられていたことを知る由もありませんでしたが、しかし、彼は事実上の墨子主義者だったわけです。
 池田 ええ、私も、儒家の愛よりも墨子の愛のほうが、とくに現代人にとっては必要であると考えます。そこで、仏教と墨子の教えとの違いですが、私は、仏教の偉大さは、そうした普遍的な愛を起こす根源を、万人にそなわっている生命の発動に求め、この生命発動の道を説き示したことにあると思うのです。
 いいかえると、普遍的愛の重要性を説いたのが墨子であったのに対し、いかにすれば万人がその普遍的愛を自らの内に起こすことができるかを示したのが仏教です。そして、釈尊が時間・空間のへだたりを超えて、多くの人々から崇められてきたゆえんは、釈尊自身、そうした普遍的愛を体現化し、そうした一生を生きたがゆえに、その人格の光がいまなお人々の心を照らし続けているのだと思います。
 こうした自らの実践・体現化によって示していくところに、たんに理論を教える哲学と異なる、宗教者の偉大さ、強さがあるわけです。それは、博士があげられた、キリストやマホメット、また聖フランチェスコなどの場合にも、等しくいえることだと思います。

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