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日蓮大聖人・池田大作

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6 愛と慈悲の実践  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 現代社会に最も欠けているものは何かといえば、私は、深い″人間愛″であると指摘したいと思います。しかし、いかに″愛″が尊いことであると力説しても、それだけでは不十分です。なぜなら、″愛″を強調しながら、現実にはその奥に″憎悪″が隠されていたり、あるいは″愛″の仮面をかぶって、エゴイズムが渦巻いていたりすることが多いからです。
 トインビー 現代の西洋の諸言語では、″愛″という言葉は、まったく別な、しかも正反対の二つの意味に使われています。どちらの場合も、愛は欲望を意味しますが、一つは「与えたい」「助けたい」という欲望、他は「奪いたい」「占取したい」という欲望を意味します。したがって、本当は二つの別な言葉が必要なのです。
 おっしゃる通り、私も現代社会には、「奪う」の意味での愛ではなく、「与える」意味での愛が非個人化して、失われていく傾向があると思っています。この″非個人的な愛″というのは、言葉として矛盾しているように感じられます。なぜなら、われわれが体験によって知っている献身的な愛というものは、常に個人的な感情だからです。献身的な愛は、ある人が他の人に対していだくものであり、その人はこれを経験することによって、相手を――必要とあらば、わが身に極端な犠牲を強いてでも――助けようとして行動を起こすものです。
 池田 今日では、個人の生命的実感から生まれる″与える愛″が失われてきている、ということですね。そして″与える″意味での愛は、福祉政策とか慈善団体の活動などに、むしろ独占されており、それが、個人的な感情に根ざさない、制度化された愛になろうとしているわけです。
 トインビー 今日、愛が絶えず非個人的な関係のなかに消えうせてしまう危険にさらされているのは、一つには、現代の世界がきわめて大規模に作動しており、しかも非個人的に組織化されているためです。これは、一面からいえば、現代の巨大な″量″と″大きさ″に対処するためであり、またもう一面からいえば、たぶん西欧諸国において、十七世紀以来、生活の世俗化が進行したからでしよう。そして、過去三世紀の間に、西欧による一時的な世界支配の一つの結果として、この人間関係の非個人化が、西欧から世界の他の地域へと広まってきているわけです。
 近代西欧において愛が非個人化していることは、″慈善″という西欧の言葉が近代において進化したという事実が如実に物語っています。この言葉の語源であるラテン語″カリタス″の字義は″愛すること″です。しかし、そこから派生した英語の″チャリティー″は、もはや愛を意味せず、金持ちが貧乏人に施しを与えるという意味になったのです。この近代西欧的な意味での″チャリティー″(慈善)は、尊敬どころか、その反対の恩着せがましさを込めて、けちけちと施されてきたわけです。
 慈善のやりとりには、常に、倫理面ないし経済面、あるいはその両面で、受け取る側が与える側よりも劣っているという含みがつきまとってきました。こうした心理的状況下での慈善のやりとりによって、受け取る側は常に慈善に憤りを感じてきたのです。慈善の申し出に対して、西洋ではよく「チャリティーなど欲しくない」という反駁が聞かれます。いうまでもなく、人間は誰でも本来の意味でのチャリティー、つまり″愛″は欲しているわけで、その意味でならば「チャリティーなど欲しくない」と感じたりいったりすることは、まずありえないでしょう。しかし、真実の愛をともなわない、不平等の関係を意味するチャリティーを欲しないというのは、ごく当たり前のことです。
 池田 一怒善それ自体は、たしかに社会的行為として善であると思いますが、それにつきまとう心理的な問題に、複雑なものがあるわけです。″愛″を欠いた″慈善″が本来の高尚な意味を失ってしまうように、実践のともなわない観念的な愛も、無意味なものとなってしまうのではないでしょうか。
 私は、この愛に実質的な意味を与えるものが、仏法で説く″慈悲″の概念であると考えます。仏法では、″慈悲″は″抜苦与楽″を意味するとされています。″抜苦″とは、人間生命に潜む苦悩の、根本原因を除くことです。この″抜苦″は″同苦″(苦しみを同じくする)のうえに成り立つものです。すなわち、相手の苦悩の呻きを、自分自身の心の痛みとして感ずる共感のうえに立って、その苦悩を根本的に除去していこうとするのです。
 この″同苦″というものがなければ、相手に対する思いやりも生まれないし、その苦しみを抜き去ってあげようという実践も、なされることがないでしよう。また、このような″同苦″の感情は、優れた知性の発達によって生まれてくるのだともいえます。つまり、自分以外の存在の苦しみをみて、そこに自らも苦しみを同じく感ずるというのは、かなり高度に発達した知能の働きによる想像力を必要とするからです。このように、他の個体の苦に対して強烈な苦を感ずることは、人間における一つの特質です。知能の発達していない生物になればなるほど、他の個体の苦や死に対して無関心になるようです。この意味でも、私は″同苦″ということに大きい意義があると考えます。こうした″同苦″は、愛においても、慈悲においても、最も基本的な前提となるものだと思います。
 私は、このような″同苦″が根底にあってこそ、人間における集団的連帯も成り立つのではないかと思うのです。つまり、集団生活を営むことは、広く生物界全体に行われていることですが、人間の場合、個々の自我意識がきわめて強いにもかかわらず、意識的に集団的連帯が保たれているわけで、私は、ここが他の生物と人間とが異なる点だと思います。
 しかし、″同苦″がいかなる行動へとつながっていくかが問題です。たんなる慰めに終わったり、諦めへと引きずり込むものであったり、弱さをかこち合うものであってはなりません。そこに″抜苦″の積極的意義を確認する必要があります。″同苦″の共感を起点として、そこから相手の苦悩を除去するための行動が起こされなければならないわけです。
 トインビー なるほど。あなたは仏教に説く″慈悲″の概念のうち、″抜苦″すなわち苦悩の除去を実践に即して解釈しておられるわけですね。
 池田 ええ、おっしゃる通りです。また、″抜苦与楽″の″与楽″とは、字義通り人々に楽しみを与えていくことです。しかし、真の″楽″とは何か――これが問題です。仏法で説く″楽″とは、決して一時的、部分的、自己満足的なものではありません。また、現実逃避的なものでもありません。それは、生きること自体の喜び、すなわち″生の歓喜″を意味します。もちろん、物質的な快楽も″楽″の一部であることは間違いありませんし、精神的な喜びもそこに含まれます。しかし、より深い生命それ自体の充実、生命感情の発する力強い歓喜がなければ、真の意味の″楽″はありえません。生命の奥底から、清浄で力強い歓喜を湧き立たせていくことこそ、仏法の″与楽″なのです。
 今日まで、愛を説く宗教が世界的に広まりながら、血なまぐさい殺象と闘争が繰り返されてきたのはなぜでしょうか。愛は、憎悪の前に、かくも弱いものなのでしょうか。私はそうは思いません。むしろ、愛というものが抽象的な叫びに終わり、そこに実体性が与えられなかったために、憎悪に呑み込まれてしまったのだと考えます。
 トインビー さきにも述べましたが、今日使われている″愛″という言葉は曖昧です。仏教用語のほうが――少なくとも″慈悲″というように日本語で表現された仏教用語のほうが――より正確であり、より現実的ですね。
 現代社会のように、一つには、社会の規模の大きさのゆえに、もう一つには、社会生活の構造と営みを合理化しようという一般的な傾向のゆえに、人間関係が非個人化してしまった社会において、人間同士の真実の愛というものは、いかにして人間関係のなかに復活しうるでしょうか。たしかに合理化は原則的には望ましいことですが、合理化が人間関係に及ぼす影響のなかには、好ましくないものもあります。日本その他のいわゆる″先進諸国″における現在の社会事情のなかで、仏教の伝統は、はたしてこの問題の解決策を生み出すことができるでしょうか。
 また、西欧諸国では、伝統的な宗教的背景は仏教ではなくキリスト教ですが、仏教的伝統をもつ日本の社会においても、西欧諸国と同じように、また同じ程度に生活は非個人化し、人間関係にも愛が失われているのでしょうか。また、現代の世界においては、コンピューターによる管理は、はたして不可避でしょうか。さらに、コンピューターによる管理は、愛と共存できるものでしょうか。
 池田 社会が巨大化し、複雑になって、人々はますます個性を失い、精神が枯渇してきているといった状況は、日本も欧米諸国と同じです。日本に仏教的伝統があるといっても、いまや、建物とか儀式のなかに形として残ってはいても、その精神や内容はほとんど忘れ去られてしまっているのが実情です。事実、今日、西欧社会においてキリスト教的伝統が失われつつある度合いよりも、むしろ日本における仏教的伝統の喪失のほうが進んでいるとさえいえるでしよう。
 次に、社会の合理化による人間関係の非個人化のなかで、どのようにして人間関係のなかに人間的愛を取り戻せるか、また、この解決策を仏教の伝統から引き出すことができるかとのご質問について、私の考えを述べてみたいと思います。仏法が教え、また実現しようとしている究極の理想は、人間の本源的主体性を確立することです。それは、各人の宿業に対する主体性であり、社会的・自然的環境に対する主体性でもあります。この確立された主体性の発露として、″慈悲″があると位置づけるわけです。そして、このような確立された自己の本源的主体が、これまでも何度か述べてきた″仏界″であり、他の生命的存在に向かって発露する″慈悲″の働きが″菩薩界″です。
 したがって、合理化され、非個人的になっている社会の人間関係も、人間生命にとっては社会的環境であり、それに侵蝕されたり、支配されたりすることのない主体性を確立することこそ、仏法の目的であるわけです。合理化し、非個人化しようとする社会の力がどんなに強くても、個人的・人間的な関係の領域を拡大することは可能です。ただし、その実現は、人間の主体性がいかに深いものに根ざしており、強靭であるかによって決まってくるでしょう。しょせん、社会といっても、それを構成するのは個々の人間であり、それを運営し、動かしていくのも個人です。コンピューターによる管理といっても、そのコンピューターを操作するのは人間です。したがって、人間がその主体者としての自覚をもち、また主体的に社会に対処していくことを忘れないならば、人間関係のなかに人間的な愛あるいは″慈悲″を維持し、さらに拡大していくことは、決して不可能ではないと信じます。

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