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日蓮大聖人・池田大作

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5 愛と良心  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

前後
1  池田 博士は「生物の進化は、愛と良心の発現の過程である」といわれています。しかし、私は、愛と良心というものは価値的な内容をもつものであり、生物の進化という現象は、本来、そうした価値的要素とは無関係なものであろうと思っています。
 生物の進化という考え方を裏づけるものは、その肉体的特質の比較によって得られますが、とくに精神的機能を支える脳(神経中枢)の構造にその根拠が求められます。大脳生理学が明らかにしているところでは、人間の優れた知能の働きを司っているのは前頭葉であり、これが発達していることが、他の動物にはみられない人間の著しい特徴であるといわれます。
 しかし、この前頭葉が司る人間の知能は、一方では″創造性″としてあらわれるとともに、それが反面では″殺し屋″ともいわれるような残忍性をあらわす源にもなっているといわれます。そうしますと、生物の進化の結果は、一方では愛と良心の発現であるとともに、他方では、それと正反対の憎悪と狡猾さでもあることになります。
 博士があえて「愛と良心の発現の過程である」といわれたのは、生物進化の客観的定義ではなく、主観的な願望の気持ちを託して、このように定義づけられたと解釈してよろしいでしょうか。
 トインビー
 この大脳の場合のように、一つの有機媒体における精神活動と物理的現象の「関係性」が神秘のヴェールに包まれているのは、たぶん人間の思考力に限界があるための結果でしょう。人間の意識、生命、肉体は、現実には一体不可分のものであると考えられます。ところが、そのような不可分のままでは、われわれには理解できないのです。われわれは、それを知性で分析することによって、初めて部分的ながらも理解することができるわけです。ただし、こうした知的分析による理解も、完全なものではありません。なぜなら、人間の本質を、このように知性によって各要素に分けてしまうと、今度はそれぞれの間の関係性というものが、知的に理解できなくなってしまうからです。生物学的進化が善悪をともに生み出すということ、むしろ、善よりも悪を生むほうが多いということについては、私も同感です。
 池田 私も、精神と肉体の関係について、人間生命とは全的・統一的な存在であり、観念的には精神と肉体という二種の異なる要素に分析して考えることはできても、本質的には両者は一体不可分である、という見方をしています。
 そこで、生物学的進化と、愛と良心の問題についてさらに論を進めるにあたって、もう少し基本的な問題について確認しておきたいと思います。博士は「生命がなければ愛は現れえなかったであろうし、人間の生命がなければ良心も現れえなかったであろう」と述べられていますが、私も、愛や良心は人間生命の特質であると思います。ただ、そこからさらに進んで、そうした愛とか良心とかを発現しうる人間生命はどうして形成されたか、ということを考えてみたいのです。この点について、博士は、そのような人間生命を創造した神のような存在を考えてはおられませんね。では、進化とは、愛や良心が究極的実在を志向する目的論的変化であるというふうに考えておられるのでしょうか。
 トインビー 私は、愛や善の精神が、諸々の計画をもち、その遂行を試みる人間の姿をした人格神といった意味での神だとは考えていません。私が自分の直接的経験から知るかぎり、愛や善は、人間の感情や行動のなかに現れるものです。またある種の哺乳動物や鳥類などの感情、行動にも現れます。
 善をなすことは、ある人々にとって、その目的、ないしは少なくとも目的の一部となっています。また、私の信ずるところでは、人間はすべて自己の良心によって、善をなすよう命じられているものです。これは、たとえ故意に良心に逆らっている人の場合でも同じです。人間の行動は、善悪を問わず、常に目的論的なものです。とはいっても、私は、生物学的進化が目的論的であると考えるわけではありません。つまり、生物学的進化は、内在的な何らかの力や、外からの超絶的な力によって、何らかの倫理的目標ないしその他の目標に導かれるものではない、という意味です。ただ、生命の維持ということは、ここでは除外して考えなければならないでしょう。
 池田 私も、生物の進化を目的論的に考えることは誤りだと思います。ところで、博士は、愛や良心を司る、ないしはそれらを発現させる座が、大脳にあると考えておられるのでしょうか。もし、愛と良心の発現過程が生物の進化の本質であるとするなら、肉体的特質のうえに、先天的にその座をもっていなければならないはずです。しかし、私自身は、愛や良心が、大脳のどこそこに座をもつというような説は聞いたことがありません。むしろ、大脳に結びついているのは、欲望とか、論理的思考力とか、記憶力などで、それらが相互にある関係を生じたところに、愛や良心の発現があるのだと思います。そして、それらの結びつきが少し狂ったりすると、憎しみや殺意となって現れるのではないでしょうか。
 したがって、愛とか良心とかいうものは後天的に習得されるもので、生物の進化によるよりは、むしろ社会的・歴史的影響によるものであると私は考えますが、いかがでしょうか。
 トインビー その点については、私は意見を異にしています。たしかに愛や良心は、人間をその時その時の社会的行動規範に反発させ、反逆させてはきました。しかし、そうした反抗も、決して社会の規範そのものによって惹き起こされたものではないはずです。
 とはいっても、人間はやはり社会的動物であり、社会的環境がなければ人間として存立できなかったでしょうし、今後も人間として存続することはできないでしょう。こうしたところから、愛や良心は絶対的な倫理上の効力をもつものではなく、社会生活を可能ならしめる心的なメカニズムであるという思想家もいます。こうした見解は、換言すれば、愛や良心は、進化の所産であり、進化によって人間が社会的動物となった段階において生じたものである、ということになると思います。
 池田 たしかに愛や良心は、進化の結果生じたものの一つということはいえましょう。しかし、それらを生み出すことをめざして進化が行われたということではありえない、と私は考えます。また、歴史家である博士を前に歴史を語るのは恐縮ですが、歴史は、愛のゆえ、良心のゆえに犯された多くの残虐行為を教えています。たとえば、ヨーロッパの歴史で、十字軍遠征や宗教戦争にみられた残虐行為は、神への愛のゆえであり、神の正義を行うのだという良心の命令で行われたものと想定できます。
 してみると、愛や良心はそれ自体価値的な内容をもつ概念ですが、じつは、愛や良心はそれ自体が善なのではなく、何に対する愛なのか、どういう原理をもとにした良心なのかということによって、善にもなれば悪にもなるといえないでしょうか。
 トインビー もちろん、愛や良心がしばしば誤った方向に導かれたことについては、私も異論ありません。人間は皆、正邪の別をわきまえており、自ら正義と信ずることを行い、不正と信ずることは慎むという、道徳的義務を感じていると思います。しかし、社会が異なり、同じ社会内でも人が変われば、実際に何が正義であり、何が不正なのかという観点も異なってきます。
 一社会ないし一個人の規範が、他の社会や他の人の目には誤りと映ることもあるでしょう。そして、このように他の人々の愛や良心が方向を誤っているように映るかぎり、たとえその意図が明らかに善い結果を生むことにおかれていても、われわれにはそれが悪い結果をもたらすもののように思えるのです。このように、善悪の概念が実際に適用されるさいには多様性を生じ、しかも他人がそれらの概念を適用する場合には、われわれの判断は主観的になるわけです。ただし、善と悪とに一線を画すべきであるとする点、また自己が善とみなすことを、そのまま行う義務があると感ずる点では、誰でも意見が一致しているのです。
 池田 愛の対象が全人類、そして地上の全生命へと広がり、また良心が生命の尊厳への限りない畏敬のうえに立ったとき、初めて、愛も良心も、善として現れるといえましょう。しかし、そのときも、仮に宇宙人がいたとすれば、宇宙人に対しては″悪″としてふりかかることもありうるわけで、絶対的な善などというのは、どこまでいってもありえないということになります。
 トインビー 同感です。愛と良心は、全人類、そして地球および他の天体の生物全体、さらに全宇宙そのものを対象としないかぎり、完全な好結果を生むものではありません。しかし、種々の行動規範のなかには、たとえ人類を犠牲にしても祖国のために奉仕しなければならない、また祖国を犠牲にしても一家のために尽くさなければならない、それをしないのは悪である、などというのもあります。まして人間は、他のあらゆる生物と同じく、本来自己中心的な存在であるため、たとえ全人類、全宇宙のために尽くすべきことを信じている場合でも、それを実践に移すのは困難なことです。どんな生物にとっても、宇宙を利用しようとせず、逆に自己を宇宙に捧げることは″離れわざ″なのです。この意味では、愛や良心は不自然なものであり、自己の利益を非倫理的に追求することのほうが自然なわけです。しかし、それでもなお、われわれは自己本位が不正・悪であり、自己犠牲が正義であり、善であると感ずるものです。また、そうした倫理的判断にわざと背いて行動したとしても、この倫理的判断を消し去ることはできません。
 ″愛″と″良心″は、″善″や″正″と同じく相対的な言葉です。″善″は、″悪″という反対概念がなければ意味をなしません。″正″には″邪″という反対概念がともないます。同様に、″愛″には″憎″が、″良心″には″罪悪感″が、また、″涅槃″には″欲望″とそこから起こる苦悩が――これらは″涅槃″の状態で消滅しますが――それぞれ反対概念として含まれてきます。対をなしているこれらの反対概念は、いずれも互いに補完し合っており、論理的に切り離すことはできません。このように、両者は、論理的には対等なわけですが、しかし倫理的には対等ではないのです。
 倫理的には、われわれは二つの対立概念のうち、一方を肯定し、他方を否定します。悪や不正を故意に行ったときでさえ、やはり善と正義をなすべきだったと思うものです。われわれは、善と悪の倫理的識別ができないとか、両者が対等であるとか、どちらでもよいとかいったことを、自身に思い込ませることはできません。イギリスの詩人ミルトンは、サタンに「悪よ、わが善であれ」といわせています。口でこのようにいうことはもちろんできますが、しかし、実際には、善悪についてのわれわれの感情を逆転することは不可能です。
 このように、対をなす反対概念がそれぞれ論理的には補完し合いながらも倫理的には本質的に異なるという事実から、私は、宇宙には愛、良心、善、正義、涅槃を志向する精神が存在する、しかし、その精神とても全能なものではない――というふうに考えるのです。この精神は、常にその反対者に出会うわけです。われわれは、倫理的判断においては善につかざるをえず、わざと悪を行っていても、倫理的判断では悪につくことはできませんが、だからといって、必ずしも善が優勢になるという保証は何もありません。われわれは、いかなる代償を払っても善をなすべき義務を感ぜざるをえませんし、その代価の高いことも承知しています。そしてまた、善のために自己を犠牲にする場合でも、その自己犠牲が善の普及をもたらすことは――われわれの知りうるかぎりでは――まったくないかもしれない、ということも承知しています。
 池田 一個の人間のうちにも、良心と貪欲、愛と憎というような対立、葛藤があるものです。しかも、そこでも良心や愛が必ず勝つという保証はありません。人間が、愛や良心のために、自己否定や自己犠牲を行うことは、きわめて困難なことです。
 トインビー 私の結論を申し上げれば、人生とは、逆説的で、厄介で、困難で、苦痛なものです。人間のおかれている状況がこのようなものであるとすれば、人間は、いかにしてこれに対処すべきでしょうか。
 小乗仏教では、欲望を消滅することによって生命を消滅し、涅槃に入れと説きます。大乗仏教は、仏陀や諸菩薩はいつでも涅槃に入れたのに、自発的に入涅槃を遅らせてきたと説いています。そして、仏陀や諸菩薩がそのようにしたのは、自らは暫く出離せずに、他の有情が出離するのを助けるためであったとしています。菩薩の場合は、おそらく無量劫にわたってそのような実践をしてきたとされています。
 私としては、小乗仏教のめざす理想よりも、大乗仏教の理想のほうに共感を覚えます。これはたぶん、大乗仏教の理想のほうがキリスト教の理想に近いためであり、私がたまたまキリスト教徒として育ったことによるのでしょう。
 池田 人間はどう生きていけばよいのか――という人生最大の問題が、宗教・哲学の出発点であり、また到達すべきところでもあるわけです。それだけに、具体的にそれを示すことは、きわめてむずかしいことだと思います。
 私の考えでも、その基本的な方向は、いま博士がいわれたように、大乗仏教的な生き方であるべきだと信じています。つまり、利他の実践のなかに無上の喜びを感じていくような自己を、どのようにして確立していくかということのなかに、大乗仏教の本質があるのです。

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