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日蓮大聖人・池田大作

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4 ″進歩″とは何か  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 ユートピア論と、科学における″進歩″の概念について考えてみたいと思います。ユートピア思想は、古来、さまざまな民族に共通してあったと思います。ヨーロッパにおけるトマス・モアの『ユートピア』は、理想郷思想の代名詞になりましたが、他にもフランシス・ベーコンの『ニュー・アトランティス』、カンパネラの『太陽の都』、さらに近代ではH・G・ウェルズの『モダン・ユートピア』などがあります。東洋においても、同様に、神仙郷とか蓬莱山とか竜宮城の伝説がありますが、これらも東洋的ユートピア思想といえましょう。
 トインビー このジャンルの文学における最も初期の作品例は、古代ギリシャにみられます。ただし、ユートピアという名称を新造したのは、ギリシャ人ではなく、トマス・モアです。ギリシャのユートピア論――たどえば、プラトンやアリストテレスのそれ――は、そのほとんどが回想的なものでした。これらの作家たちは、すでに彼らの時代には、ギリシャ文明がその最盛期を過ぎていたことに気づいていました。したがって、ギリシャのユートピア思想がめざしたのは、社会がそれ以上崩壊するのを救いたいという願いから、これを″固定″ないし″凍結″させようということだったのです。しかし、ギリシャの歴史においては、こうしたユートピアが実現されたことは、一度もありません。
 これに対して、日本の歴史では、徳川幕府体制が、ユートピア思想の現実社会における政治的・社会的具現化であり、おそらくこれにはプラトンやアリストテレスも、羨んだことでしょう。ただし、ここで付け加えさせていただけるなら、こうした徳川体制も、結局は日本社会の恒久的な″凍結″には失敗しており、これは、長期的にみれば、プラトンやアリストテレスのユートピア論も、じつは非現実的なものであったことを物語っています。
 池田 プラトン、アリストテレスのユートピア思想と徳川幕府体制とを対比されたのは、面白い見方ですね。ところで、現代人は、全般的には、むしろ現代文明の延長線上に描かれる理想社会について、悲観的な見方をしているといえましょう。オルダス・ハックスレーの『すばらしき新世界』や、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』などは、その先駆的な著作であるといえます。
 現代では、さらに「コンピュートピア」論というものがあります。これは、コンピューターがあらゆる社会機構の中枢に配置され、その科学的な判断によって支配がなされるという社会を名づけたものです。しかし、このコンピュートピアという表現には、コンピューターの指示に人間が従うという、味も素っ気もない社会への、自嘲的なニュアンスが込められていることも事実です。ユートピアについて、現代人がこのように悲観的であるのは、一つには現代文明がかつて期待されたような理想に沿って発展してきたにもかかわらず、人間の不幸は一層深刻になるばかりだという、現実への厳しい批判が反映されているからでしよう。それとともに、古来のユートピア思想そのものは、人間のあらゆる欲望が充足される平和社会を描いているわけですが、現代人は、はたしてそうした欲望の充足がただちに幸福へと結びつくだろうか、という反省をし始めていることも一因でしょう。
 このようにみてきますと、現代人のもつユートピアヘの悲観的な考えは、科学における″進歩″の概念とも関係があるようです。いうまでもなく、今日に至るまで、科学者を支えてきたものは″進歩″の概念です。これまでに解明された真理のうえに、自分としては何を加えられるだろうか、これまでの技術にまさった技術をいかに開発すべきだろうか――こうした″進歩″に自分が関与できる喜びこそ、科学者たちが、研究、実験、思索に打ち込む精神的な支えだったわけです。たしかに、科学の枠のなかだけでみれば″進歩″の成果は明らかです。しかし、科学上の進歩がはたして人間文化の進歩に直結するかどうかは別問題です。原子力の開発が、科学技術上の画期的進歩であったことは、疑いの余地がありません。しかし、広島や長崎の市民の頭上に炸裂して、幾十万の人命を一瞬にして奪った原爆を″進歩″と喜ぶことは、到底できないはずです。
 トインビー 近代西欧の初期におけるユートピア論のほとんどは、楽観的なものでした。これは、それらが、科学的進歩と精神的進歩との決定的な相違を、明確に区別していなかったことによるものです。少なくとも、そのいくつかは、科学や技術の累積的な進歩が、自動的に精神の累積的進歩をもたらすという、誤った想定をしています。
 こうした近代西欧の幻想は、第一次世界大戦の勃発によって動揺し、さらに第二次世界大戦末期に製造・投下された二個の原爆によって粉砕されました。H・G・ウェルズは長生きしたおかげで、こうした幻滅と苦渋を味わわなければなりませんでした。このため、ウェルズ以後のユートピア論は、風刺的な反ユートピア思想になっています。それらのユートピア論が極端なまでに悲観的なのは、近代初期から一九一四年までの四世紀間に発表されたユートピア論が、いずれも楽観的に過ぎたことへの反動なのです。
 池田 私も、物質的進歩と精神的進歩の区別は、明確にされなければならないと思います。無生の物質を対象とする分野においては、″進歩″の内容を明確にとらえることができます。しかし、生命的存在、なかんずく自覚的・意識的存在を対象とする分野が問題になった場合、たとえば物質分野における一つの発見が、はたして人間精神にとって″進歩″を意味するかどうか、簡単には評価できないものです。
 社会科学は、人間を対象とする学問です。しかも、それは肉体的・物理的存在としての人間ではなく、精神的・心理的存在としての人間です。同じ事象であっても、その受け取り方は人によってさまざまで、喜びにも悲しみにも、また楽しみにも苦しみにもなります。ある社会的条件が整った場合、それを便利だと思う人もいれば、そのために束縛と苦痛を感ずる人もいます。また同一人物の場合も、ある時点で喜びと感じたことが、別の時点では苦しみの感情に変わるかもしれません。
 博士もご指摘のように、結局、そうした科学の進歩への微妙な人間心理の反応が、このユートピア思想のなかに典型的にあらわれているといえます。このことから、われわれは″進歩″という概念が、いったいどこまで意味をもちうるかを、改めて評価し直す必要があると思います。そして、それはあらゆる科学者を支えている″進歩″の信念を再検討するところまで進まなければならないと思います。
 科学者は、それぞれの分野での″進歩″の概念に支配されるのでなく、それがはたして広く人間存在にとっての″進歩″であるかどうかにまで、思いをいたす必要があります。つまり、科学者の人間としての良心、人間的な価値判断力が、自らの研究活動に対して支配力をもつようにならなければなりません。こうした考え方は、従来の科学界では激しい非難を浴びたかもしれません。しかし、人間の生存と絶滅が科学の力によって決定される今日、どうしてもこうした反省がなされねばならないと考えます。
 トインビー 科学の進歩は、技術に応用されることによって、人間に他の人間や人間以外の自然を支配する力をもたらします。力とは、倫理的には中性であり、善にも悪にも用いることができます。力は、善悪の行為がもたらす影響の実質的な大きさを増すものにしかすぎないのです。
 原子力は、悪用されれば一瞬のうちに何百万の人々を殺すことができます。ところが、人間の腕力は、一対一の戦いでは、たとえ金属製の武器をもっても、せいぜい一度に一人を殺すのがやっとでしょう。これに対して、医学の進歩が医師にもたらした力は、いまや、ひところであれば細菌やビールスの餌食となっていたはずの、何百万という人命を救うことができます。その同じ科学力が細菌戦争に利用されると、今度は、原爆と同じく何百万の人間を殺すことになります。このようにみてくると、科学技術から生じた力が人間生命に及ぼす影響は、その力を用いる人々の倫理的水準によって決まるわけです。
 技術の進歩は、人間の協同活動が累積した結果もたらされるものです。カルマ(宿業)は、これとは対照的に、人間の倫理的水準を決定するものであり、個々の人間の精神生活における継続的なバランス・シートを形成するものです。このことは、われわれが、人間は生死の連続を繰り返すと信じようが、あるいはまた、この現象世界でのたった一度だけの人生しかないと信じようが、それにはかかわりのない事実です。この″カルマのバランス・シート″にあっては、借り方記入も貸し方記入も累積的ではありません。借り方にせよ貸し方にせよ、新たに記帳されるたびに、残高が常に変動しているのです。
 ある社会の特定の時期における倫理的水準とは、その社会の成員各自の″カルマのバランス・シート″の状態によって決定され、また、各成員が――積極的にせよ消極的にせよ――他の成員に及ぼす相対的な倫理的影響によっても決定されます。したがって、一社会の倫理的水準は、科学や技術の水準とは違って、変動的であり、不安定なものです。しかも、人間生活に福祉や幸福、あるいは逆に悲惨や不幸をもたらす要因は、じつは科学や技術の進歩ではなく、このカルマなのです。
 池田 非常に深い意味をもったお話です。私がつねづね考えていることも、博士のおっしゃったそのことなのです。そこで、人間性を形成しているこの宿業――不幸を重ねていきがちなこの宿業というもの――をいかに転換するか――。これこそは、個人個人が人生において対決しなければならない問題です。それを私たちは人間革命と呼んでいます。
 トインビー 人間にとって、自分自身のためにも社会のためにも最も重要な課題は、自らのカルマをどう好転させるかということです。そのための唯一の方法は、自己超克への努力を増すことです。そして、この自己を超克する戦いは、一人一人の人間の行動のなかにあるのです。個人の精神的進歩や退歩は、本来、変動するものです。ヒンズー教や仏教の信仰では、この変動は生死の連続を通じてずっと行われていくとされています。しかし、社会の累積的な精神的進歩などというものはありません。科学や技術の累積的進歩に相当するものは、倫理の領域には存在しないのです。
 池田 したがって、人間が自己の宿業と戦い、これを超克していくためには、瞬間瞬間の努力が要求されます。現在の瞬間に、素晴らしく高貴な精神に満ちているからといって、次の瞬間に、醜い野心に支配されないともかぎりません。そうした醜い野心に誘い込む欲望や衝動は、生そのものに本然的につきまとうものだからです。大切なことは、むしろそれらを支配し、自在に従わせていけるように、高貴な精神を強めていくことです。
 この意味での不断の自己鍛錬によって、人間は、精神面においても″進歩″することができると私は信じます。しかし、人間には同時に退歩の危険も常に待ち受けているのであり、一瞬の油断がこの″進歩″を零にしてしまいかねないことも、忘れてはならないと思います。

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