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日蓮大聖人・池田大作

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2 欲望の超克  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 人間には種々の欲望があります。生物として種を維持するための本能的欲望から、名誉欲、権力欲、さらには知識欲や美への欲望などもあります。人間的な愛や慈悲もまた、大きな意味で、人間生命に内在する欲望です。
 ところで、現代文明は、種々の欲望のなかでも、とくに本能的欲望や権力欲、所有欲等を人間生命のなかから無制限に引き出し、増殖しようとしているようにみえます。しかも、その欲望の放縦が人間同士の対立抗争を生み出し、生命と自然の破壊に向かわせているのが、現代の一断面であるように思えます。
 トインビー 私も、欲望――とくに貪欲性――が現代社会で示している働きについては、これまでも何度か述べてきましたように、きわめて深い関心を払っています。
 池田 博士は常に「権力は自己中心性の産物である」と主張しておられますが、私もこれに同感です。また、その自己中心性を克服するものとして宗教的愛をあげておられますが、私も、宗教こそエゴイズムを乗り越えるための最も本源的なものであり、普遍的な方途を見いだそうとするものであると思います。しかし、われわれが宗教的愛によってエゴイズムを克服することができるとすれば、それはどのようなメカニズム――人間心理のメカニズム――によってなされるのか、ということが問題になると思います。
 人間には、さきにあげましたように、種々の欲望がありますが、私は、それらの欲望を、人間的生を創造する方向に生き生きと発動させるものとして、″本源的欲望″とでも名づけることのできる、生命内奥の衝動的エネルギーがあると考えます。この、私のいう″本源的欲望″とは、宇宙生命との合一を求める欲望であり、宇宙の底流から生へのエネルギーを汲み出してくるものです。つまり、″本源的欲望″とは、人間生命全体の感情――生命感情――に生の脈動を伝え、そ2局揚をもたらすものです。人間生命の起こす種々の欲望は、この″本源的欲望″と連係を保ちながら新たな創造性を強めていく、というように考えています。
 トインビー 欲望とは、生命を生み出し、支える精神的エネルギーの別名であるというご意見には、私も同感です。一生物種中の一個体に生を与え、その生を持続せしめ、またそうした個体間の生殖によって種そのものを存続せしめる推進力としてのこの欲望は、そのエネルギーの精神的側面において、宇宙エネルギーと同一のものです。いいかえれば、欲望とは″究極の実在″と同一のもの、あるいは少なくともその一側面と同じものです。
 池田 しかしその反面、人間生命の内奥には、本来、生命を維持するためにある種々の欲望を暴走させ、他の人間や自然の征服と破壊の方向に発現するよう突き動かす力も渦巻いているようです。ニーチェやアドラーのいう″権力への意志″や、マルクーゼ、フロイト等が指摘した死への本能的衝動も、このような生命内奥の働きに迫ろうとする思考から見いだされたものであると考えられます。
 私は、種々の欲望を自已中心的な欲望に変形させ、突き動かすような、生命に潜む力を″魔性の欲望″と名づけたいと思います。
 トインビー 生物の各個体が宇宙との同一性をもっているとはいっても、そのことは、これら各生物が同時に宇宙からの分離性をももっていることと、相反するものではありません。この分離性は、分離した生物のなかに、たんに互いに異なるだけでなく、実際に正反対な二つの反応のうち、いずれか一つを起こさせます。
 そうした反応の一つが、宇宙全体との調和を求める″愛に向かう欲望″であり、もう一つの反応が、宇宙を従属させ、利用しようとする″魔性の欲望″です。″愛に向かう欲望″は自己否定を要求し、ある場合には自己犠牲を要求することもあります。愛とは、自已を他の生物や宇宙の万物のために捧げようとする衝動なのです。
 池田 人間が他の人間を支配しようとしたり、自然の支配者として君臨しようとするのは、すべて″魔性の欲望″に魅入られた各種の欲望のなせるわざであると考えられます。″魔性の欲望″は、″本源的欲望″と各種の欲望との連係を分断し、それらの欲望を自己の支配下におこうとするものといえます。
 トインビー ″魔性の欲望″は、ある意味では″愛に向かう欲望″よりも自然なものです。それは、宇宙から分離しようとする自我の性質こそ、生の本質をなすものだからです。″魔性の欲望″は、その論理的帰結として、この分離的な自我を拡大させ、宇宙の中心、宇宙の存在理由にまでしようとします。ただし、この″魔性の欲望″もまた″愛に向かう欲望″と同じく、分離的な自我の出現によって生じた宇宙の全体性、統一性の亀裂を、克服しようとするものです。したがって、宇宙を再統一する道は二つあることになりますが、しかし、それらは互いに相反するものです。すなわち、愛は自己献身によって再統一を図ろうとし、魔性は自己主張によって再統一を図ろうとするわけです。
 池田 そこで問題は、その″魔性の欲望″を、博士のいわれる″愛に向かう欲望″へいかにして転換させるか――ということになると思います。
 トインビー いま述べた宇宙再統一への二つの反応は、いずれも、宇宙が数多くの分離的な自我へと分裂した結果生じた緊張への反動なのです。この二つの反応は、いずれも代償を要求します。愛が要求する代償は自己犠牲である場合もありますが、これは自己滅却という極端にまでいくこともありえます。この場合には、失われた宇宙の統一性は、分離的自我の生が消滅することによって回復されることになるでしょう。
 これに対して、魔性の反応とは、分離的自我が、その本質である生を維持しようと企てることです。しかし、分離的自我によるこの侵略的な反応は、抗争と混沌という代償をともないます。侵略的な自我は、他の無数にある侵略的自我と抗争し、それらの侵略的自我は、それぞれ全宇宙と抗争するのです。
 宇宙から分離する一個の生物は、いかにしてその生物を消滅させることなしに、自己を宇宙に捧げることができるのでしょうか。それはまた、いかにして他の分離的自我の生命や全宇宙の生命と対立せずに、自己を主張することができるのでしょうか。――これらの疑問は、われわれの経験を通して、いやおうなしにわれわれに迫ってくるものです。われわれはそうした疑問を提起せざるをえませんが、かといって、それらに答えられないことにも気づくわけです。あるいは、解決できない問題を解決しようとして、生涯努力を続けることが、生きることの代償なのかもしれません。
 池田 欲望の問題の解決が生涯の課題であるというのは真実だと思います。
 私は、人間は不断に″魔性の欲望″を冥伏させ、″本源的欲望″を発現させるための戦いを繰り返していく必要がある、と信じています。″魔性の欲望″とは、人間生命に本来内在するものであって、消滅してしまうものではありません。ただ、その働きを弱め、不断に冥伏させる戦いを繰り返さなければならないのが、人間の宿命であると考えます。
 トインビー ところで、南伝仏教のパーリ語の聖典によると、仏陀はあらゆる欲望の消滅を自ら実践し、弟子たちにもその実践を勧めたとされています。しかも、涅槃の意味するものが生命の消滅であるとすれば、仏陀の目的はまさしく生命そのものの消滅にあった――ないしは、少なくとも、われわれが見知っているような自分自身の生命や、また地球上にみられる心身相関的な他の人間の生命を消滅させることにあった――と説かれています。私は、もし欲望を完全に消滅することが実践可能であるとするならば、それは生命そのものの消滅と同じであるとした点で、つまり欲望の消滅をもって生から離脱し″消滅の状態″に入ることであるとした点で、仏陀は正しい心理分析をしていたことになると思います。
 池田 たしかに″涅槃″の本来の義は、火を吹き消すという意味であり、″滅″を意味します。しかし、それは自己の消滅という行き詰まりを招きますし、自ら悟りを得た後も、この世にとどまって衆生を救おうとした仏陀自身の実践とも矛盾します・
 私は、欲望の消滅それ自体を目的としないで、民衆の救済、社会の変革をめざして慈悲の実践を貫いていくとき、自己の欲望はおのずから昇華され、コントロールされると説いた、大乗仏教のほうが正しいと思います。
 大乗仏教は、″魔性の欲望″の虜となった、種々の欲望の発現形態と生命への作用を詳細に分析していますが、それだけでなく、そのような分析的結果を踏まえて、″魔性の欲望″を冥伏させる実践的方途を追求しています。そして、欲望を断ったり、滅したりするのではなく、″魔性の欲望″の働きを冥伏させ、その鎖から各種の欲望を解き放とうと試みるのです。
 人間にしても社会や宇宙全体にしても、欲望を生命の創造的方向に向けうるようにすべきであって、欲望そのものを断ってしまおうとする試みには、私は賛成できません。種々の欲望を抑圧しようとしても、そのエネルギーが自己の無意識層に逆流し、種々の病気の原因となることが多いことは、精神分析学者の指摘している通りです。
 トインビー 欲望の完全消滅が不可能なことであり、たとえ可能であるとしても望ましいことではない、という点については私も賛成です。それが不可能である理由は、ただいまのご説明通りです。欲望を断つということは、実際にはできることではありません。ただ、欲望を精神の意識レベルから潜在意識レベルヘと抑圧することはできますが、その場合には、あなたが述べられたような弊害がともなうでしょう。これに代わる方法としては、欲望を、自分にとっても正当であり、かつ人類にとっても、また宇宙にとっても善となるような目的へと、意識的に向けることです。
 私も、人間は欲望の消滅といった不可能な目標をめざすよりも、欲望を善なる目的に向けるという、達成可能な望ましい目標をめざすべきであると信じます。以上で、私は、南伝仏教と北伝仏教の分析、見解、目的についての相違を指摘したことになると思いますが、いかがでしょうか。
 池田 ご明察の通りです。釈尊の欲望に対する考え方についてさらに付言しますと、釈尊は、自己中心性の迷妄を打ち破るために、一切は″空″であり″無常″であると説いたのであると思います。これを自我について言えば″無我″ということになります。
 いまこの観点から、現実のわれわれの生命活動の実態を振り返ってみますと、生命は、一瞬一瞬移り変わり、変転を繰り返してやみません。あるときは怒り、あるときは喜び、あるときは高邁な理想をめざし、あるときは醜い欲望にとらわれます。千変万化する生命の実相は、たしかにこの″無我″の考え方を裏づけているようにみえます。しかし、このように変転しながらも、一貫した自我の存在というものは否定できません。自我の意識は、生命の本然的な特性ともいえます。実際問題として、″無我″の境地に入れば苦悩のない涅槃に至るといっても、その涅槃を感ずる主体としての″我″がもはや存在しないのでは、涅槃に入ること自体、無意味になってしまいます。
 したがって、大乗仏教――そのなかでも法華経の哲学――では、無我論を唱えたり、欲望の消滅をめざすのではなく、宇宙や他の一切の生命と自我との調和・融合を説き、そこに、人生における理想的な幸福があると説いたのです。このための実践が慈悲による″利他″にあるとして、欲望はこの高い理念の実践によって、自然に超克されるものとしたわけです。つまり″大我″(宇宙的・普遍的自我)に目覚めることによって、欲望と結びついた″小我″(個人的自我)を克服することを教えたのです。
 トインビー ただいまのご説明に対する私の解釈が正しいとすれば、大乗仏教の法華経学派によると、″涅槃″とは再生が終わることではないということですね。つまり、再生は無限に繰り返しながらも、生まれ変わった自我がそのカルマの好転に成功すれば、その生命は、無限に繰り返される再生において苦悩の境涯ではなく、幸福の境涯に入る、しかも幸福は″小我″が″大我″に近づこうとするなかにある、ということですね。
 この教義は、ヒンズー教のなかの″小我″の本質は″究極の精神的実在″(″汝はそれなり″)に一致すると信じている学派で立てている教義と、同じものでしょうか。
 池田 ヒンズー教はインドの伝統的な宗教であり、仏教はそれを変革しようとした非伝統的な宗教である点が対照的ですが、思想的には多くの点で同じ基盤に立っていることが認められます。ヒンズー教と仏教とは相互に相手の理念を取り入れつつ、独自性を主張してきたともいえるでしょう。仏教は、それ以前、インド社会に影響を与えていたバラモンの教えを用いて、自らの教義を特徴づけています。仏教の後に確立されたヒンズー教も、仏教の影響を多大に受けているようです。
 ウパニシャッド哲学の″汝はそれなり″という思想の影響は、仏教の中心的教義にもみられますし、その後のヒンズー教においても中心的な思想となっています。この原理は、インド民族の偉大な発見の一つといってよいでしょう。
 ただ、この″小我″が″大我″に接近していくための方法については、小乗仏教が″小我″を滅することによって″大我″の中に立たせようとするのとは違って、大乗仏教においては、″小我″を否定しないで″大我″に融合させることに主眼をおいているのが、特徴であるといえるでしょう。
 トインビー 結局、欲望に対処するにはいかなる態度が正しいのか――これに対するわれわれの判断は、われわれが″実在″の本質をどう認識するかで決まってきます。私の感ずるところでは、″究極の実在″とは、われわれがここで″宇宙生命″あるいは″大我″(宇宙的。普遍的自我)と呼んだもののことです。表現としては、後者のほうがより明確でしょう。なぜなら、それは個々の人間の自我における二元性・両面性を示しているからです。
 一面では、″小我″は――物理的自然から直喩を借りていえば――″大我″の一断片です。それは、全体から孤立した、全体のなかの一小片であり――自己にとって最も抵抗の少ない行き方をするかぎり――全体に対して自己主張をし続けます。″小我″がこのような自己中心的な行動をとるかぎり、それは″大我″にそむき、離反することになります。
 こうした″小我″と″大我″の関係は、正しいあり方ではありません。これを改めないかぎり、人間は決して善良にも幸福にもなれないでしょう。このことが真実であることは、あらゆる善意の人々が認めるところであると思います。それは、小乗仏教徒でも大乗仏教徒でも、またキリスト教徒でも不可知論者でも、その他の精神生活の求道者でも、同じであるはずです。ただ、彼らが意見を異にする点は、この共通の目的を達成するうえでの、それぞれ独自の処方箋にあるのです。
 私の浅い知識の及ぶ範囲内で申し上げれば、あなたは″小我″と″大我″の分離、対立、緊張を克服するための小乗仏教の処方箋について、正しく説明しておられるようです。小乗仏教の阿羅漢は、″小我″を消滅させることによって″大我″との合一・調和を回復しようとします。そして、″小我″の消滅とは、あらゆる欲望を区別、差別することなく、全面的に消滅させることであると考えるわけですが、それ自体は正しい考え方です。
 しかし、私も、あなたのおっしゃる通り、″小我″と″大我″の調和・合一を回復するための小乗仏教の処方箋は、実行不可能であると思います。個人は、″小我″を滅することに成功したとしても、それによって″大我″と再合一できるわけではありません。それどころか、むしろ自らを″大我″への接近から断絶させてしまうでしょう。この事実は、あなたが「一貫した自我の存在というものは否定できない。自我の意識は、生命の本然的な特性ともいえる」と指摘された通りです。
 これが″我″におけるパラドックスであり、またむずかしいところです。″小我″があって初めて、われわれは″大我″を意識し、それに接近することができます。また、″小我″が自らにとって抵抗の少ない道を選べば、″大我″に背くことになるのも事実です。これら二つの事実が確かなものであるところからみて、小乗仏教の処方箋はあまりに単純すぎます。それどころか、あまりに幼稚です。たしかに″小我″の超克は必要なことです。しかし、われわれの立てるべき目標は″小我″の消滅ではなく、その方向を転換させることでなければなりません。つまり、小乗仏教の分析では″小我″をもってあらゆる欲望の″巣″であるとしているわけですが、欲望にもいろいろな種類があるため、われわれとしてはそれを見分ける必要があるのです。われわれは、自己中心的な欲望は抑制し、従わせていかなければなりませんが、″大我″との調和・合一へと向かう利他的な欲望は――自我にとってどんなに犠牲が大きくとも――追求していかなければなりません。
 池田 私は、そうした融合を実現する方途は、博士のいわれる″自己超克″に通ずるものではないかと思っています。そのように考えて誤りがないかどうか――この点を明確にするために、″自己超克″の意味をもう少し具体的に説明していただけませんでしょうか。
 トインビー 私のいう″自己超克″とは、人間が、″小我″を″大我″に統合させる道程において、自らの″小我″につきまとう欲望を克服することです。個人が啓発され、悟りを開くことは、社会改革の方途として不可欠のことです。なぜなら、われわれ人間が生き、活動する場であるこの現象世界にあっては、行為者はすべて個々の人間であるからです。″自己超克″を達成する具体的な方法は、″小我″の本来的な欲望の一つである慈悲の導くところに従うことです。この慈悲は″小我″の関心の及ぶ範囲を拡大させ、″大我″全体をも包容させようとする欲望です。
 このまぎれもなくきわめて重要な点においては、大乗仏教はユダヤ系の宗教――ユダヤ教、キリスト教、イスラム教――からも支持されているように、私には思われるのです。アラビア語で″イスラム″とは″自己放棄″、つまり″大我″に奉仕すべく″小我″を放棄することを意味します。これは、ユダヤ系諸宗教においては、″神″という擬人的な用語に象徴されています。私は、仏教による非擬人的な語彙のほうが、″我″についての言葉で表せない真実を、より巧みに表現していると思います。
 池田 私も、そう考えています。仏法では、″大我″とは宇宙生命そのものであると説いています。仏法の生命観の究極は、われわれ個人の生命が、その奥底では、この宇宙生命と一体になっているということです。換言すれば、人間生命は、宇宙生命が個別化、個性化したものであるともいえましょう。
 人間生命の特質として、その能動性・発動性としての力をあげることができますが、その力をもたらす根源的実在は、宇宙生命に内在する″法″であるといえます。大乗仏教がユダヤ系の宗教と異なる点は、じつはここにあるのではないかと私は考えています。″神″という――ゴッドにせよ、アラーにせよ――擬人的な存在を想定した場合、人間生命それ自体に内在する能動性・発動性は、人間生命自体のものではなく、他者から与えられたものになってしまいます。とすれば、人間は、外からエネルギーを注入されて動く機械と変わらない、とさえいえるのではないでしょうか。
 これに対して、大乗仏教は″法″としてこれを考えます。この″法″は、人間を離れて存在するものではありません。人間生命と宇宙生命とを貫いているものなのです。したがって、人間自身のうちにあるこの″法″を自覚することが、すなわち、人間生命と宇宙生命の一体性を覚知することになるわけです。
 つまり、″究極の実在″を、ユダヤ系の宗教では″神″すなわち人間的存在としてとらえたのに対し、大乗仏教では、それを″宇宙生命″、そしてその底流に働いている″法″としてとらえているのです。
 トインビー たしかに″大我″は″神″と解釈するよりも″法″と考えるほうが、説得性があるようです。また、小乗仏教の欲望超克の方法は、大乗仏教のそれに比べて実践が困難であると思います。大乗仏教とユダヤ系諸宗教は、人間の行動に関する小乗仏教の規定に相反するものを、ともにもっているように思われます。すべての高等宗教は、人間が自己本位の欲望を克服することを要求していますが、これはじつに困難な課題です。
 池田 欲望の克服は、たしかに困難なことです。しかし、人間はあえてこの困難な努力をしなければ、その内面にある″獣性″によって支配されてしまうでしょう。
 私は、それらの高等宗教が″大我″の正体を明らかにできなかった点に、実践方法のむずかしさを生み出した原因があると考えます。つまり、自我を克服するといっても、では何によって克服するのか、克服される自我が欲望や感情などであることはわかるにしても、克服する主体たる自我とは一体何か、そしてその自我と″大我″とはどう違うのか――ということです。
 仏法では、克服の主体である自我は″大我″と同じであり、したがって、悟ってみれば、自我はたんに″大我″の断片ではなく、それはそのまま″大我″それ自体であると説いているのです。ただし、これはもちろん″仏界″という究極の悟りであり、それは内心の自覚であって、行動のうえでは″大我″の部分であることには変わりありません。したがって、自我の生き方は、博士のおっしゃるように、常に自己を宇宙に捧げようとすることでなければなりません。
 私は真実の宗教の役割とは、人間に欲望超克の力と勇気を与え、その″人間性″を開発することにあると思います。そして、この宗教は、人間をしてその内奥にある″生命″という実在を覚知させ、さらにそれを宇宙生命へと融合させていく力をもっていなければならないと思います。
 トインビー 実際には、″小我″も″大我″も同じです。そのゆえに、私は″汝はそれなり″が真理だと信ずるのです。しかし、この″汝はそれなり″というのは、たんなる知的な命題にしかすぎません。したがって、それは倫理的行動によって、まぎれもない真実であることが証明されるまでは、たんに真実であることの可能性を含んでいるにすぎないのです。しかも、この行動は″小我″によって実践されなければなりません。″小我″は、その貪欲性のゆえに″大我″から疎外されています。この貪欲性は、″小我″が、自らの目的のために宇宙を利用しようとする欲望です。貪欲の反対が慈悲です。この慈悲を実践することによって、″小我″は、現実において″大我″になることができるのです。

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