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日蓮大聖人・池田大作

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1 性善説・性悪説  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 人間の本性は、もともと善であるか悪であるか、という問題を考えてみたいと思います。これは古来いろいろな形で論争のテーマとなってきたものです。中国の儒教思想において、荀子は″性悪説″、孟子は″性善説″を唱え、互いに対立したことは、よく知られている通りです。
 キリスト教では″原罪説″を説きますが、これは性悪説に近い考え方だといえましょう。これに対して、ルソーには性善説に近い思想がうかがえます。性悪説をもとにすると、人間性を外から統御することが必要になり、逆に、性善説によれば、外からの統御は極力排して、自然に任せるようにすることが強調されます。しかし、私は、人間の本性は性善でも性悪でもなく、むしろ性善も性悪もともにそなわっていると考えるのです。
 トインビー 人間の本性とは、私も元来、本質的に善とか悪とか割り切れるものではないと思っています。人間性は善にも悪にもなりうるものです。われわれの経験範囲内にあるどんな人間の例をとってみても、その本性には善と悪とが混在しています。もちろん人によってその占める割合は異なりますが、しかし通常、人間性にはある程度、善と悪とがともにそなわっているものです。おそらく、まったくの善人とか、まったくの悪人とかは、現実にはいまだかつて存在しなかったはずです。
 池田 仏法においても、生命には性善・性悪ともにそなわっていると説かれています。仏という最高人格においてさえ、性善・性悪は包含されているというのです。
 人間生命にこうして性善と性悪がともに内在している以上、人間性の善なるものについては自由に伸びられるようにすることが大切ですが、悪なるものについては抑制されなければならないでしょう。ただし、それは社会的な強制力によるのではなく、個々の人格のなかに、内側からコントロールする力を養う、という考え方が大事だと思います。
 トインビー 人間性におけるそうした善悪の混在は、私には生物と宇宙との関係から生じてくるものであるように思われます。すなわち、生物は、ある一面では宇宙の万物から分離しつつも、また別の一面では宇宙の万物に結びついているものです。こうした関係が、人間に態度や行動の選択の幅をもたせるわけです。
 人間は、他の宇宙万物を支配し利用しようとすることができます。つまり、自己を全宇宙の中心に据え、その存在理由にすることも可能なわけです。こうした貪欲な願望に従うかぎり、人間の行動は悪なるものとなります。しかし、その反対に、人間はまた自己を宇宙万物に献身させ、自己のためではなく、万物のために奉仕しようとすることもできます。こうした愛に向かう願望に従うかぎり、人間の行動は善なるものとなります。われわれ各人が自分で経験すること、また他人をみて経験することから、これら二つの衝動の絶えざる葛藤が、あらゆる人間にあることがわかります。この葛藤は、自己意識が芽生えたときに始まり、老耄化や死によってのみ終わるものです。
 池田 その内面的な葛藤において、博士のいわれた″愛に向かう欲望″が″貪欲″に打ち勝つようコントロールするものが、道徳や倫理であり、より根本的には宗教であるわけです。
 そこで、もう少し具体的な問題から話を進めますと、非常に単純ではありますが、庶民にとって根強い一つの疑問があります。それは「殺人がいけないことは誰でも知っているが、殺人行為はなぜ無くならないのか」という素朴な疑問です。これは、敷衍していえば「非道徳的な行為がいけないことは誰でも知っているが、それがなぜ無くならないのか」という疑問にもなるでしょう。
 学校での教育や両親による躾、さらには書物等を通して、道徳に対するある程度の知識は、比較的若年期に植えつけられるものです。ところが、その道徳に対する知識というものは、そのまま行動の規範とはならず、しばしばその知識に反した行動がとられているわけです。その理由としては、人間の行動が、理性に従うのと同じくらい、あるいはそれ以上に、感情によって左右されるため、感情が、主として理性に支えられている倫理的な意識を蹂躙してしまうことがあげられます。
 そして、その感情の基盤をなすものをさらに本質的に探ってみると、そこにはエゴイズムがあると思います。すなわち″善″とわかっていながらそれができない、あるいは″悪″とわかっていながら悪事を働いてしまうというのは、結局、″わが身かわいさ″によるものと考えられます。ここにいう″わが身″とは、さらに家族、同胞、民族、国家という程度にまで拡大して考えることもできましょう。
 トインビー 個々の生きた人間における心的エネルギーの源泉――したがって、より高度な精神的エネルギーの源泉――とは、私の信ずるところでは、″究極の精神的実在″のことです。ただし、この源泉から発するエネルギーは、各個人の自我という、宇宙から分離した生を通じて方向性を与えられるものです。そして、このエネルギーは、そうした自我によって善悪いずれの目的にも振り向けられるわけです。このため、″善悪″とは、この特定の生物つまり人間にとってその同胞、人間以外の生物、さらには宇宙全体を対象としての善悪になります。
 自我の本然的な性向は、自分以外の宇宙を支配し利用しようとすることにありますが、自我はまた、これとは逆に他人や他の事物に自己を捧げることもできます。しかし、この利他主義の道をとることは、利己主義とは反対に離れわざのようにむずかしいことです。
 池田 道徳に関する知識がそのまま行動の規範となるためには、自我を自ら統御することが前提となりますが、それを社会的な制裁によって行うのは、若千の効果はあっても完璧な決め手とはなりえません。たとえば殺人行為には、いかなる国家においても最大の重罪が科せられているわけですが、それにもかかわらず跡を断たないのは、このことを物語っていると思います。
 トインビー 利他主義は、自己修養、自己超克、自己否定、さらに必要とあらば自己犠牲も辞さないといった道によって、初めて達成できるのです。自己の良心の命ずるところに逆らって悪事を働くのは、簡単なことです。しかしながら、自己の欲望をまったく消し去るということは、自己を抹殺しないかぎり不可能でしょう。また、自己の欲望を完璧な愛と献身の道に向けるのも、きわめて困難なことです。
 池田 同感です。心ある多くの人々が、自らのエゴイズムを乗り越えるために、多大の努力を払ってきました。そして、なかには、それを実証したかにみえる人がいたことも確かです。一切の欲望を捨てることに活路を見いだそうとした人々もいましたし、普遍的な愛によって超克しようとした人もいます。
 私は、それらの人々が人類の精神史の偉大な光明であることを否定するつもりはありませんが、あくまで限られた一部の人々にしか体現できなかったところに、大きな問題があると思います。
 普遍的な愛といっても、それ自体が、他の種々の道徳律の場合と同じように、大部分の人々にとっては知識にとどまり、現実にはエゴに翻弄されることが少なくなかったわけです。
 トインビー ご指摘の通り、これまでのところ、欲望を完全に消滅させたり、自己を愛に全面的に捧げることの試みだけでもした人々というのは、人類のなかでもごく少数の人々にしかすぎません。このため、人間関係の網状組織である人類社会は、人間がその良心によって決める万人の行動規範に照らしてみるならば、まさに悲劇的なほど不道徳的になっており、社会の運営も、うまくいっておりません。
 人類の道徳的行為の平均的な水準は、今日に至るまで向上を示していないのです。したがって、いわゆる文明社会が、いわゆる原始社会よりも道徳的に優れているという根拠は、まったくありません。つまり、かつての前期旧石器時代の社会や、今日もなお実質的には旧石器時代のまま存続してきているような社会に比べて、少しも向上していないわけです。われわれが普通、文明と呼んでいる″進歩″は、あくまでも技術や科学の向上、それに非人格的な力の操作などの向上にすぎず、道徳的な、つまり倫理的な向上とはわけが違うのです。
 技術は、向上するたびに力の増大をもたらします。そして、この力は善悪両面に用いることができます。現代社会を特徴づける最も警戒すべき点は、技術によって与えられたこの力が、未曾有の勢いで、未曾有の段階にまで増大してきていることです。しかも、そうした状況にあって、この飛躍的に増大した力を使用する側の人間の道徳的行為――じつは非道義的行為――の平均水準が、依然として変わらないばかりか、むしろ実際には低下しているかもしれないということです。
 池田 まったく同感です。人間の道徳的水準は、技術の進歩とは逆に、かえって低下していく傾向があります。それは、技術の進歩によってかち得た力が、道徳の果たしてきた役割を代替してくれるかのような錯覚に陥った、人間の愚かさに起因しています。私はこの錯覚から抜け出すことが、人間の自ら招いた現代の危機を解決する、出発点であると思います。
 トインビー われわれは、このような力と倫理的行動水準とのギャップがますます広がりつつあることに気づいています。このギャップをさらに劇的にしたものは、原子力でした。すなわち核分裂、核融合の技術が発見されたこと、その発見がただちに悪用され、いまではすでに旧型となった二個の原爆が広島と長崎に投下されたこと、さらにその後″改良″された――この場合″改良″といえるなら――原子兵器が貯蔵され、いまやその規模が地球上の全生物を何回も破滅させる力を、人類に与えるほどのものになっていることがそれです。
 こうした原子力時代にあって、人類はその品行の平均的水準を、かつて仏陀やアッシジの聖フランチェスコが実際に到達した水準まで高める以外に、集団自殺を避ける道を見いだすことはむずかしいでしょう。過去三千五百年の間、高等宗教や高等哲学の創始者たち、またその後代の解説者たちは、人類が自滅を免れるために原子力時代においてこそ各人が守らねばならない行動の規範を、説き明かしてきました。しかし、こうした高度の行動規範を実践した人々はごく少数にしかすぎません。大多数の人々は、これらの規範が正しいことは認めたものの、しょせん、凡人にはとても守ることなどおぼつかない″完徳の勧め″として扱っているわけです。
 池田 完全な自已超克は、大多数の人々にとって、あまりにも困難な目標であるといえましょう。しかし、こうした自己超克を妨げている力は、欲望などの意識よりも、さらに深い次元にあるものです。したがって、自己超克がなかなかできないことを、すべて意志的努力の欠如のせいにするのは不当なことといえましょう。自己超克を妨げるものが意識下のものであるなら、それを可能にする力も意識の底から引き出す、という方途を考えなければなりません。私は、すべての人々の内面には、本来、その困難な努力を成し遂げる能力が、潜在的にそなわっていると信じています。問題は、そうした潜在的な能力を、いかにして引き出すかだと思うのです。
 トインビー さきに述べた″完徳の勧め″は、しかし、いまや人類の生存に不可欠の条件となっています。人類は、技術の効率を高めることにのみ努力を集中することによって、無謀にも、時期尚早にして、原子力時代に突入してしまったからです。人間が、誰でも聖人の域に達する能力をもっているということは、一応考えられます。そして、たしかに、原子力時代のこうした道徳的挑戦に応じることができなければ、その代償は人類の自滅ではないかという意識も、広まってはいます。しかし、人類の大多数がそれに必要な、骨の折れる精神的努力をするかといえば、それはありそうもないことです。
 ただ私が結論としていえるのは、人類が人間以外の自然よりも優位に立って以来、今日ほど人類の生存が危ぶまれる時代はいまだかつてなかったということです。こうした人類の生存に対する脅威は、人類が自ら招いているものです。そして、人間のもつ技術が、人間のエゴイズムや邪悪性など、悪魔的な目的のもとに乱用された場合、それは致命的に危険なものとなります。それこそ、地震、噴火、暴風、洪水、早魃、ビールス、細菌などよりも、またサメや猛虎よりも、はるかに危険なものでしょう。
 池田 まさに、おっしゃる通りです。人類の生存に対する現代の危機は、人類が自ら招いたものであり、この危機を解決するカギも、また人類の掌中にあるわけです。
 結局、道徳的知識をいかにして実践に移すかという問題の核心は、人間のエゴにどう対処するかであると思います。エゴを捨て去るということはできません。したがって、それを正しく見つめて、あるときは積極的に使いこなし、あるときは抑えるというように、自らコントロールすることが、真に道徳的知識を行動に移すための決め手であると思います。
 では、それは、どのようにすれば可能かとなると、やはり、たんに知識としてのみ教え、普及させるだけでは不可能で、一個の人間の意識の奥底から、すなわち全人間的に、改革することが要請されます。もちろん、それは他からの強制ではなく、自身の人格的向上をめざす当人の意志によるわけですが、少なくとも、それを説く哲学には、その哲学を持った人にそれだけの自己変革をもたらす力がなくてはならないと考えます。私が″人間革命″と呼んでいるのは、この全人間的な改革のことなのです。

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