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日蓮大聖人・池田大作

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3 汎神教への回帰  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 西洋と東洋の宗教、いいかえれば博士の立て分けられるユダヤ系宗教とインド系宗教とでは、その性格に根本的な相違があります。すなわち、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は強力な一神教で、他宗教の神々との妥協を許さないといわれます。そこで、たとえばキリスト教に改宗するというからには、過去の信仰をきっぱり捨てて、新しい唯一神に絶対的に帰依しなければならないわけです。私は、これまでのコーロッパ文明の発展史を特徴づけてきた要素の一つは、この宗教のあり方にあると考えます。
 トインビー 仏教は、伝道的宗教という点ではキリスト教やイスラム教によく似ていますが、伝播した地域への影響という点では違いがあります。仏教は、インドや東アジアにおける仏教流布以前の宗教・哲学を押しのけたことはありません。むしろ、それらとは共存してきましたし、したがって、仏教の伝来がその地域の文化の流れを中断させるということもありませんでした。ところが、キリスト教とイスラム教が伝播した地域では、そうした文化の中断がみられます。すなわち、インドの西側の地域とか、またイスラム教が足がかりを得るのに成功したさいのインド亜大陸などが、それにあたります。ただし、インドネシアにおいては、ヒンズー教や仏教の伝統があまりに根強かったため、イスラム教もこれと妥協せざるをえませんでした。
 インドと東アジアが、近代西欧の侵略者たちが持ち込んだ新しいユダヤ系宗教の衝撃を受けたとき――そのときに限って――文化の流れの中断にはなはだしいものがあったのは、こうした理由からです。この新しいユダヤ系宗教とは、さきに述べた科学信仰、共産主義、それにナショナリズムなど、脱キリスト教的な形のものであり、いずれもキリスト教的狂信性を帯びていました。こうして、ナショナリズムはインドと東アジアをもとらえたわけですが、これは、さきにも述べましたように、前キリスト教時代のギリシャ・ローマ人の地方共同体の集団力に対する信仰が、西欧において変形したものです。しかし、このナショナリズムは、かつてのキリスト教的土壌のなかで復活した結果、共産主義や科学信仰と同様に、キリスト教的狂信性を注入されており、したがって一層調子の強いものになっています。
 池田 東洋の場合、文化の流れの中断は、そうした西洋からの影響によるものだったわけですが、しかし、文化を支える基盤そのものは一貫して続いてきており、そこには本質的な転換はなかったと思います。ところが、これに対して西洋では、文化・文明の基盤そのものに変革がなされているわけです。すなわち、宗教そのものの交代による文化の大変革が、明らかに見うけられます。
 トインビー 西洋では、文化の大変革は、二つの異なる時期に、二つの段階に分かれてやってきました。これら二つの段階のうち、外来の宗教の衝撃によって分断が生じたのは、第一の段階、すなわち西洋がキリスト教に改宗したときだけでした。第二の分断は、キリスト教が脱キリスト教的な三つの西欧宗教にとって代わられたときのものですが、これは外部からのいかなる衝撃によって生じたものでもありません。この、キリスト教の、三つの脱キリスト教的宗教による交代は、さきのキリスト教への改宗と同じく抜本的ではありましたが、まったく内部的な変革でした。
 キリスト教、イスラム教への改宗以後の旧世界西端部における諸文明とは対照的に、インドや東アジアの諸文化は、西洋から脱キリスト教的宗教が入り込んでくるまで、堅固に保たれていました。したがって、一方のインド・東アジアの文化と、他方の近代西欧文化の違いは、それぞれの宗教の性格の違いによるものだとの、さきのご意見には私も同感です。
 池田 西洋は一神教で、東洋は汎神教――この違いが大きいと思います。一神教の場合、すべてを絶対者に結びつけようとする非常に強い意志が、社会と文明を規定しますから、そこに明確で普遍的な統一性があらわれます。それだけに、他の要素を受け入れることは困難で、勝つか負けるか、全か無かという転換の方式にならざるをえません。西洋の歴史の転換が、その根底的なものの転換によってなされてきたのは、このためと思われます。
 これに対して、汎神教的な社会では、もともと多様な価値を認めていますから、外来の文化や思想に対しても寛容性があります。したがって、根底的なものを転換しないまま、あらゆるものを受け入れていきます。つまり、何が入ってこようと、基本的には少しも変わらずに存続していくという傾向があるわけです。
 トインビー ユダヤ系の諸宗教は、宇宙に内在する神的な要素を、すべて超宇宙の唯一無二、全能の創造神に集約させています。そして、こうした神性の限定が、自然から――人間性をも含めた自然から――その神聖さを奪い去ってしまったのです。これに対して、近代西欧の衝撃を受ける以前のインドや東アジアにあっては、全宇宙も、そこに含まれるあらゆるものも――人間以外の自然も人間自身もすべてひっくるめて――神性をもっており、したがって、人間からみれば神聖さと尊厳さをもっているとされてきました。これが、人間以外の自然に暴威をふるって自己の欲望を満たそうとする、人間の衝動を抑えてきたのでした。
 こうしたインドや東アジアの姿勢は、まさに汎神教のそれであり、ユダヤ的一神教とは対照的なものです。すなわち、この汎神教の観点からすれば、神性は宇宙に内在し、宇宙に遍満しています。ところが、一神教の観点では、神性は宇宙から引き離された、外的な存在とされます。つまり、神性は超絶的な存在となるわけです。
 ところで、キリスト教やイスラム教に改宗する以前の旧世界西端部やアメリカ両大陸でも、土着の文化はすべて、近代西欧の衝撃を受ける以前のインドや東アジアの文化と同種のものでした。中米文化、ベルー文化、シュメール文化、ギリシャ・ローマ文化、エジプト文化などすべてそうでしたし、一神教に転じる以前のイスラエル人のカナン文化もそうでした。このように、どこの地域でも、前ユダヤ的文化にあっては、宗教は汎神教であり、一神教ではなかったのです。すなわち、現在でこそ、ユダヤ一神教的な諸宗教の信奉者となっている人々も、また、このユダヤ系宗教たるキリスト教をすげ替えた脱キリスト教的代用宗教を信じている人々も、かつてはすべて汎神教の信者だったわけです。この歴史的事実は、一神教がもたらした自然崇拝の欠如による悪影響が認識され始めた今日、これらの人々が、かつての汎神教的な行き方へと回帰する見込みが、いくぶんなりともあることを示唆しています。
 池田 現代人の宗教観を大きく左右しているものとして、主として二つの変化があげられると思います。一つは、人間の力が強大化し、自然的条件をかなり自由に変えられるようになったため、生産活動がこれらの条件に制約されなくなってきていることです。もう一つは、交通輸送機関の発達によって、距離が移動に対してもっている制約や困難が、克服されるようになったことです。
 かつて人間は、自然の制約下で働きながら生きなければならなかったため、そうした自分の力で越えられないものを、すべて神秘化していたのでしょう。そうした姿勢のなかに、汎神教というものが成り立っていたと思うのです。ところが現代においては、人間は自らが生み出した科学技術によって、自然を制圧し利用する力を自由にもつようになり、したがって、ある面では、汎神教≦戻ることがかなり困難になっているともいえると思います。
 自然に対する、この人間の能力には、ややもすると人間を傲慢にする傾向があります。現に人間の傲慢さは環境破壊を引き起こしており、すでに人間は自身の生存を脅かしています。たしかに、自然の個々の存在や事象に対しては、人間のほうが優位に立っているといえるかもしれません。しかし、自然界を構成しているあらゆる要素の間にある関係性、ないしはそうした要素の生命的連鎖性ともいうべきものは、とうてい人間の力の及ぶところではないわけです。現代人が陥っている窮状は、まさにこの不当な思い上がりがもたらしたものだと思います。
 このように、実際に人間のほうが自然に対して優位であると認められる側面もあると同時に、自然系の根底に対しては、人間の科学技術力ではとうてい及ばないという側面もあるわけです。この二つの側面は正しく識別されるべきでしょう。こうした認識・分別に達するところに、これからの真実の信仰の立場なり、役割といったものが明らかになってくるのではないでしょうか。
 トインビー 人間の最近の企てのいくつかと同じく、農業と牧畜は、ともに人間が人間以外の自然に干渉することでした。しかし、それらの活動は、まだ威圧的というよりは協調的なものでした。人間の意のままになる物理的な力が、もっぱら体力だけに限られている間は、人間の威圧力にも限界があったのです。
 ところが、産業革命とともに、無生の自然力に含まれる無限に巨大な物理的力を人間が大々的に利用し始めてからというもの、人間の威圧力は、事実上、まさに限りないものとなりました。ユダヤ的一神教の教説によれば、人間は、人間以外の自然を意のままに利用してよい特権を神から授かっているというのですが、この特権が現実に重大な影響を及ぼすようになったのは、じつにこの時期からでした。
 西欧人が、科学を組織的に技術面に応用して自然よりも優位に立ったとき、人間には自然を利用する特権があるという彼らの信仰は、その増大し続ける巨大な技術力を、自己の欲望充足のために最大限に活用するうえで、∠目信号″の役を果たしました。こうした西欧人の貪欲さは、人間以外の自然も神聖であり、したがって、人間自身と同じく重んじられるべき尊厳性をもつとする汎神論者の信仰をもってしても、押しとどめることができなかったのです。
 しかも、注目すべきは、十七世紀において、近代西欧人が古来のキリスト教に代わるものとして脱キリスト教的科学信仰を選んださい、有神論は捨て去りながらも、人間以外の自然を利用する権利への信仰だけは、一神教から抽出して、そのまま保ち続けたことです。かつて、キリスト教的な神の摂理のもとでは、彼らは神を崇め、神の領有権――法律用語では″土地収用権″――を認めさえすれば、神の小作人として自然を利用する、神聖な権利があるものと信じていました。しかし、十七世紀に、イギリス国民は国王チャールズ一世を斬首に処すとともに、神をも葬り去りました。こうして彼らは宇宙の万物を収用し、もはや小作人などではなく自作人であり、その絶対の所有者なのだと主張したわけです。
 この科学への信仰は、ナショナリズムと同様、今日、全世界に普及しています。共産主義者も非共産主義者も、ともにナショナリズムの信奉者であり、科学的進歩の信仰者となっています。しかも、近代西欧に起源するこれらの脱キリスト教的な宗教こそが、人類を今日の窮状へと追い込んだものなのです。
 池田 そこで、これからの人類文明のあり方を考えると、このようにいえるのではないでしょうか。すなわち、科学技術といった一分野のなかでの進歩のためには、西洋的な一神教の姿勢が有利ではあるが、人間に対しては各民族の自主性を守り、自然に対しては自然環境の破壊や汚染をくいとめるためには、東洋的な汎神教の姿勢がより大事であると――。この両者は、今後、対立し合うのではなく、互いに補完し合っていかなければならないでしょう。また、双方ともに、止揚されるべき点もあると思います。
 こうした高い次元において、科学的にも哲学的にも文明をリードしていくもの――それが新しく望まれる宗教ではないでしょうか。人間の科学的精神も、哲学的精神も、ともに充足させうる宗教でなければ、新しい要求には応じられないと思うのです。いいかえれば、西洋の危機も東洋の苦境もともに救いきれる宗教、現在から未来にかけての一切の問題に、人類が一体となって取り組むのに役立つ宗教でなければならないということです。このような普遍的な宗教を見いだすことこそ、現代に生きるわれわれの、最大の課題であると考えるのです。
 トインビー いまやわれわれとしては、かつて産業革命によって転倒された人間と人間以外の自然との関係を、再び安定させることが緊急の必要事となっています。これまでの技術変革、経済変革は、すべて過去の旧世界西端部における宗教変革によって道を開かれました。この宗教変革が汎神教から一神教への置換であったことは、さきに述べた通りです。私は、人類はいま再び汎神教へと回帰する必要があると信じています。われわれは、人間以外の自然がもつ尊厳性に対して、元来もっていた尊敬と配慮の念を取り戻す必要があります。そして、そのためには、われわれがそうするのを助けてくれる、正しい宗教ともいうべきものが必要です。
 この正しい宗教とは、人間も人間以外をも含む自然全体がもつ尊厳性と神聖さに対して、崇敬の念をもつべきことを教えてくれる宗教のことです。これに対して、誤れる宗教とは、人間以外の自然を犠牲にして、人間自身の貪欲さを満足させることを許す宗教です。結論的にいえば、われわれがいま信奉しなければならない宗教は、たとえば神道のような汎神教であり、捨て去らなければならない宗教は、ユダヤ系の一神教であり、脱キリスト教的な無神論に立つ科学的進歩への信仰です。この科学信仰は、人間がその欲望を満たすために、人間以外の宇宙を利用する道義的権利があるとする信仰を、キリスト教から受け継いでいるからです。
 池田 正しい宗教と誤れる宗教についての博士の規定には、私も賛成です。ただ一点について、私は異なる意見をもっています。それは日本の神道に対する評価についてです。
 神道は、たしかに、自然のあらゆる存在に尊厳性を認める思考から生まれた宗教です。しかし、なにゆえに尊厳であるのかということになると、神道はそれを裏づける哲学的体系に欠けています。その根底にあるものは、祖先が慣れ親しんできた自然への愛着心です。これは祖先を媒体とした自然崇拝といえるでしょう。したがって、神道にはきわめてナショナリスティックな一面があるわけです。そして、この神道イデオロギーの端的なあらわれが、いわゆる神国思想なるものでした。この神国思想は、周知のように、きわめて独善的なものです。こうしてみると、神道の場合、自然に対する融和性はその一面にすぎず、その晏面に、他民族に対する閉鎖性や排他性をもっているわけです。こうした性格は、あるいは日本の神道にかぎらず、汎神教を伝統とする他の民族信仰のうちにもみられるかもしれませんが――。
 トインビー 神道にも、それに類する多くの他宗教と同様、明らかに長所と短所とがあります。私のこれまでみてきたところでは、神道の場合も、前キリスト教時代のギリシャ人、ローマ人の宗教の場合も、一つの長所として、ともに自然の力を神聖なものと定めたことがあげられます。また、自然に対する畏怖の念を教え込むことによって、人間のもつ自然利用への貪欲な衝動を、ある程度まで抑えました。たしかに神道には、おっしゃる通り弱点があります。そしてこの点では、前キリスト教時代のギリシャ・ローマ人の宗教も同じであったことを認めなければならないでしょう。
 自然の本質には、人間の本質も含まれます。人間が自然の一部であることは、逃れられない事実です。たとえ人間が、自然を利用するために自らを人間以外の自然から区別しようとしても、それは変わりありません。本来、社会的動物である人間が、その発展過程において、社会を大規模かつ有機的な共同体へと組織化する段階に達すると、人間の集団力は自然の力のうちで最も強力なものの一つとなります。これは、ハリケーンや雷雨や地震、洪水などと同じくらい強力なものです。このため、そうした段階に入ったとき、人間の集団力に対する信仰――家族、国家、教会、その他人間同士の関係からなる網状組織への信仰――は、人間以外の自然の力に対する信仰よりも優位に立つようになります。そして、このとき、元来自然の諸々の力の象徴とされていた神々が、今度は人間の諸制度の象徴としてかつぎ出されてくるのです。
 日本では、明治維新以後、このような新しい役割が神道に課せられたわけです。そしてまた、それを遡ることほぼ二十六世紀の昔、ギリシャの万神殿の神々にも同じ役割が課せられていたのでした。これらの神々は、ギリシャ世界が数多くの主権都市国家へと政治分裂し、激しい覇権争いを演じていたころ、各都市国家の集団力の象徴として奉仕させられたのです。
 こうした点は、私もたしかに、自然崇拝にみられるはなはだしい弱点だと思います。この種の宗教は、政治色を帯びる以前の本来の形態のものも、また、後に政治面が加味されて変形したものも、ともに、高等宗教に比べると精神的に劣っています。
 池田 高等宗教としての仏教は、その点、本来の教義においても、歴史的な体験においても、その種の宗教とは明らかに異なる要素、性格をもっています。つまり、土俗的な汎神教を超克してきたのが、仏教であるといえるでしょう。
 仏教は、自然の森羅万象と一切衆生とに遍く存在している生命の法を根本にした宗教です。いいかえれば、宇宙と生命に内在する根本の″法″に合致していくことが、仏教の第一義であり、そこから、人間が自然と融和し協調していく道が説き明かされているわけです。万有神教の神々は自然の力や民族の力の象徴とみられますが、仏教はそれらを生命の法体系のなかに位置づけます。しかも、仏教でいう″生命″は、あらゆる人間とあらゆる生物釜(生物も含めて)に共通普遍のものですから、ナショナリズムといった特定の人間集団を優先するイデオロギーを、初めから超えているわけです。
 トインビー 仏教のもつ性質についてのただいまのお話、よく意味がわかります。そのことは、私のいう高等宗教がいかなる性質のものかという点に私を立ち戻らせます。
 私が高等宗教というとき、その意味は、人間各自を″究極の精神的実在″に直接触れ合わせる宗教ということです。つまり、同じ″究極の実在″との触れ合いにしても、人間以外の自然の力とか、人間の集団力が具現化された制度とかの媒体を通じて、間接的に触れ合わせるものではないのです。このように定義づけられる高等宗教こそ、現代人が必要としている宗教です。
 池田 そうした意味での高等宗教が今日切実に必要とされていることは、まさに疑いの余地がありません。ただ私は、さらにつきつめるべき基本的な問題として、それらの宗教が何を根本とする宗教であるかという問題があると思います。すなわち、高等宗教は″神″を根本とすべきか、あるいは″法″体系を根本とすべきか――という問題です。
 私の考えでは、現代人がもつべき宗教は、″法″を根本とする宗教であると思います。このような宗教こそ、合理的思考の試練に耐えるだけでなく、それを超え、リードしうる宗教ではないでしょうか。
 トインビー 神本位の宗教と法本位の宗教では、どちらがより有効であり、価値があるかという問題が提起されたわけですが、有神論にあっては、″究極の精神的実在″が神人同形のものとして想定されます。すなわち、神とは″究極の実在″が人間的な存在として現れたものとされるわけです。ギリシャ、ヒンズー、スカンジナビアの神々の場合は、その身体面さえ人間に似たものと考えられています。また、キリスト教徒やイスラム教徒にも受け入れられたイスラエルの神ヤーウェは、姿をもたず目に見えないものと想像されていますが、この神もやはり、イスラエル人の聖典には人間的な感情――嫉妬や憤怒――をもつ存在として記述されており、しかもその振る舞いにはそうした感情に左右されるところがあったと想像されています。つまり、ヤーウェの行いには、人間であったならば当然とがめられ、叱責をこうむるようなところがあったと思われるわけです。
 人間は、やはり″究極の実在″に対しても、そこに人間的なものを求めずにはいられないようです。たとえそれが気まぐれな暴君のような存在であっても、そのなかに人間的なものを追い求めるのでしょう。これは、人間社会において、子供が人間である親の手助けや導きを必要とし、大人が指導者を必要とすることからもわかります。しかも、大人の場合、指導者との結びつきは、親族などの血のつながりによるのではなく、指導者がもつ、より優れた知恵と、より強い意志力に託す信頼をもとにしています。
 とはいっても、″究極の精神的実在″を神人同形のものとして描き出すことによって、そうした願望を満たそうとするのは、やはり不合理なことです。″究極の実在″が人間的なものであるという根拠はまったくありません。いや、人間に似ているなどとはまず考えられもしないことです。なぜなら、人間は、自然を構成している森羅万象のなかの、ほんの一部にしかすぎない存在だからです。このように考えると、私も、ゼウス、アテナ、アポロンといった万神殿の神々や、ヤーウェのような唯一神よりも、仏教に説かれる普遍的な生命の法体系のほうが″究極の精神的実在″を、より誤りなく示し出しているように思います。

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