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日蓮大聖人・池田大作

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1 文明の生気の本源  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

前後
1  池田 世界の歴史をみると、文明というものは、あたかも生命体のように、生成――発展――衰亡といった流転を繰り返しているように思われます。
 一例として、エジプトの歴史をみても、古代から現代に至るまで、いくつもの文明・文化が生成され、発展し、衰亡してきています。すなわち、ピラミッドの造営期にあたるファラオ時代から、ローマの支配下で原始キリスト教が栄えた時代、そしてその後のイスラム教支配の時代を経て、今日の共和制時代に至るまで、いろいろな文明の変遷があったわけです。そこで、このように生成、発展、衰亡していく文明の動態というものに関連して、私は二つの問題を取り上げてみたいと思います。一つは、こうした文明に生気を与えるものは何かということ、もう一つは、その文明を生み出し、生気を与える本源的なものは何かということです。
 第一の点については、文明の生成、発展を可能にするものに、社会、集団生活、そして余暇があると思います。この二つは生産力の向上と深く結びついており、生産力の向上は余剰をもたらし、それによって芸術家、建築家、詩人、宗教家、為政者などの専門家を養うことができます。事実、歴史上のモニュメントとなるような事業を成し遂げるには、多くの人的資源の結集が必要ですし、組織化された社会的集合体は、その供給源となります。また、余暇は人間に創造性をもたらします。
 トインビー 古来、文明を成立せしめた条件は、生産の余剰でした。すなわち、人間が生きるのに最低限必要なものを超えて食糧その他の物資が生産されることだったのです。こうした生産の余剰によって、経済活動以外の事業――たとえば、マラヤ奥地サカイの古墳、エジプトやメキシコのピラミッド、マヤ族やクメール人の寺院――を生み出すことが可能になりました。
 さらに、こうした余剰力によって、戦争の遂行が可能になるとともに、生活必需品の生産に時間を費やさずにすむ少数者を、扶養することが可能となりました。これら少数者たちは、そこから得た時間を、あるいは遊興と奢多のために、あるいはまた宗教的儀式、教理研究、施政、建築、美術、文学、哲学、科学などの方面に使ってきました。
 各文明の生成、発展、維持は、こうした特権的少数者のうち、創造的活動に従事した少数者に負うところが大です。しかしまた、この創造的活動も、大衆の協力があったからこそ、成果をあげることができたのです。そして、こうした協力を可能ならしめる精神的な絆となってきたのは、共通の宗教的信仰でした。すなわち、一社会内の全階層の共同の努力による生産物が不当にも不平等に分配されたにもかかわらず、また余剰生産物の大部分が戦争を遂行することに、ないしは特権少数者の贅沢を許すことに乱用されたにもかかわらず――彼らがその返報として社会に十分奉仕するということはまずありませんでしたから――この宗教的信仰は、そうした協カヘの絆となってきたのです。
 池田 いうまでもなく、文明とは余暇があり余力があるからといって、それだけで生まれるというものではありません。生産活動にはより多くの、より豊かな生活必需品の生産という、はっきりした目標がありますが、それによって生じた余暇と余力を、いったいどんな目標のもとに行使するのか――。それがあるていど方向づけられなければならないわけです。そして、この目標を与えたのが、博士もおっしゃるように、一つの共通の宗教的信仰であったと思います。つまり、生産力の余剰、社会組織、人間の欲望といったものは、すべて文明を築く素材ではあっても、それは文明に吹き込まれるべき″魂″ではありません。文明の材料はそろっていても、もう一歩深い前提ともいうべき、「何のために築くのか」という問題意識がなければならないわけです。人的資源の動員も、設計者の意図も、ここから出発する必要があると思うのです。この方向性を把握し、見定める知恵――私は、それが宗教にあり、哲学にあると考えます。
 あのエジプトのピラミッドがつくられたかげには、当時のエジプトに、それだけの人的エネルギーの余剰、社会的・経済的組織、土木技術があっただけではなく、あのように大規模な墓をつくる必要をもたらした源泉としての、死生観があったわけです。こうした宗教的発想が、民衆の労働意欲を支えて、ピラミッドが造築されたのでしょう。これは、他の歴史的な建造物についても同様で、マヤ人、アステカ人、インカ人の神殿や拝壇も、彼らに固有の宗教的発想と宗教的情熱があったことの産物であるといえましょう。
 トインビー 私も、各文明の形態は、その文明に固有の宗教がそこに現れたものだと考えています。また、諸文明を生み出し、それを永らえさせてきた生気の源泉が宗教にあったという点についても、まったく同感です。このことは、三千年にわたるファラオ時代のエジプトについても、殷の台頭から一九一二年の清の没落に至るまでの三千年を超える中国の歴史についても、いえることです。
 世界最古の諸文明のうちの二つは、エジプトとイラク東南部の、もともと肥沃な土地の上に成立しました。しかし、これらの土地も、大がかりな排水・濯漑工事によって耕地化する必要がありました。本来、人間の立ち入りがたい自然環境を、順応しやすい人為的環境へと変えていったかげには、遠大な成果をめざして働く民衆の力の結集があったに違いありません。このことは、そこに指導者が出現したこと、そして人々の間にもその指示に従う気持ちが広くみなぎっていたことを示しています。そして、この協力関係を可能にした社会全体の生気と協調性は、導く側と導かれる側とが共有していた宗教的信仰から発したものに違いありません。結局、この信仰が精神的な推進力となって、経済を基礎づける公共事業の遂行を可能にし、経済的余剰を生み出したに違いないのです。
 諸文明につきものの二つの社会的病弊は、いつの場合にも、戦争と社会的不公平でした。宗教は、こうした致命的な社会的病弊によって文明社会の生気が枯渇しても、なおある期間、その社会を持続させる精神的な力となってきたのです。
 ここに私のいう宗教とは、人生に対する態度とい
 う意味で、人々が人間として生きるむずかしさに対処せしめてくれるもののことです。すなわち、宇宙の神秘さと人間のそこでの役割のむずかしさに関する根本問題に、精神的に満足のいく解答を示すことによって、また、この宇宙の中で生きていくうえでの実際的な教戒を与えることによって、人生の困難に対処せしめるもののことです。
 民族が自分たちの宗教に信仰心を失うたびに、彼らの文明は内部からの社会的崩壊に、また外部からの軍事攻撃に屈してきました。こうした信仰喪失の結果、崩壊した文明は、それに代わる新しい文明、他の宗教から生気を得た文明によって取って代わられたのです。
 こうした現象の歴史的事例として、儒教に支配されていた中国文明が、アヘン戦争以後崩壊し、儒教に代わる共産主義の新中国文明が台頭したことがあげられます。また、エジプト王朝文明、ギリシャ・ローマ文明が崩壊し、それらに代わって、キリスト教とイスラム教により生気を吹き込まれた新文明が登場したことがあげられます。ちなみに、南グアテマラでマヤ族の祭祀場が廃棄されたことは、説明されないままに謎となっています。この謎を解く文献上の証拠はまったくありません。しかし、最も納得できる推測としては、農民たちが、生きることを耐えられるものにしてくれるはずの祭司の力に信を失い、祭司への経済扶助をとりやめたということでしよう。
 池田 私が不思議に思うのは、一つの文明を築いた後は、その文明の凋落とともに見るかげもなく衰亡していった民族もあれば、時代に応じて他文明を吸収し、そのつど新しい特質をもった文明を築き続けてきた民族もあるということです。
 前者の例としては、博士もあげられたように、マヤ、アステカ、インカなどのアメリカ大陸の原住民族があげられます。後者の例としては、エジプト民族や日本民族などがあげられるでしょう。ヨーロッパの諸民族は、そうした試練を過去に経てきていないようですが、むしろ現代こそ、試練の時といえるような感じがします。
 トインビー 他文明を吸収し、その要素の同化に成功することには、たしかにご指摘通り、高い価値と効用があります。日本は、その歴史において、これまで二度にわたってこの挑戦を首尾よく受けとめました。まず六世紀から七世紀にかけては、インド仏教の中国版というべきものを吸収し、それとともに中国文明それ自体を同化しました。次いで、最近の百年間においては、近代西欧文明を同化しています。また、東南アジアとインドネシアの諸民族も、ヒンズー教と仏教を同化してきました。ベトナム民族は中国文明を同化しましたし、インドネシア民族もヒンズー教と仏教を同化した後、最終的にはイスラム文明を同化しています。
 これに対して、コロンブスによる発見以前の南北アメリカの諸文明や、アラブとヨーロッパから衝撃を受ける以前のサハラ砂漠以南のアフリカ文明などは、おっしゃる通り、たしかに衰亡しています。これらの文明は、かつて地理上の障壁によって孤立していたところを、その後、突然、圧倒的に優れた武器をもつ侵略者によって攻撃されたのです。しかし、これらは特殊なケースです。
 池田 そのように、過去に偉大な文明を築きながら凋落していった民族が味わったものは、哀感だったでありましょう。その哀感2暴には、近世からの、征服的なコーロッパ人による支配の過酷さが、多分にあったと思われます。被征服民族の古くからの伝統が復活するようになったのは、ようやく二十世紀も後半に至ってからのことです。これには、民族の自立を重んじる風潮が高まってきたことや、欧米先進国同士の対決が激化してきたことによって、植民地主義がもはや通らなくなったという事情があったわけです。
 しかし、このような被支配民族の伝統の復権は、いまのところ、まだ本当の意味での民族文化の復権とはいえないと思います。ある場合は先進国による保護政策の結果であり、ある場合は文化人類学等の関心の高まりや観光客の増大に対応するための演出である――といった例が数多く見受けられるからです。それが、真に民族自体の内面から湧き出た、創造的な興隆となったとき、外的な圧制や困難な状況をはねとばして、噴出するような力強いものとなることでしょう。
 トインビー ご指摘のように、たしかに西欧諸民族は、過去五百年間というもの、他の諸民族に対して攻勢の立場をとってきましたが、しかし、いまでは守勢を余儀なくされつつあり、かつて日本が二度にわたって受けたような挑戦を、今度は自らが受けざるをえなくなってきています。これと同じ体験は、ギリシャ人やローマ人も味わっています。東方で隣り合っていた諸民族に対する彼らの軍事的・政治的攻勢は、結果的に宗教上の反撃を招くことになりました。このため、彼らは地中海沿岸においては、キリスト教に転向することになりました。また、現在のソビエト領中央アジアと西パキスタンにあたる地域を征服していたギリシャ人は、仏教に転向することになりました。私たちが知るギリシャ・ローマ史上のこうした一断面の顛末は、現代西欧にいまやふりかかろうとしている運命の一端を、示唆するものであるかのように思われます。
 池田 おそらく、西欧文明は、そのような衰退に直面しているのかもしれません。そうであるならば、新しい文明が育ち、栄えていく道を、もう一歩深く探る必要がありますね。
 これまで、私たちは宗教が民族に生気を吹き込み、新たな文明を生じさせるという点で意見が一致してきましたが、さきほどから触れてきましたように、人類のなかにはかつて文明を生み出しながら、再起できないでいる民族がいるわけです。そうした民族の非力さは、究極するところどこに起因するのか――この点を、もう一度、確認しなければならないと思います。
 トインビー さきにも述べましたが、やはり文明の消長は、民族のもつ宗教に深いかかわりがあると考えます。つまり、文明はその基盤をなす宗教の質によって決まるということです。
 池田 私もその通りだと思います。ところが、民族の強弱を決定づける要素として、気候・風土があげられるという学者たちもいます。つまり、彼らによれば、熱帯には、概して人々を怠惰に、また享楽的にする風土性があるというのです。このような風土のなかに住む民族は、情熱が高揚しても一時的で、試練に対しては抵抗力が弱いというわけです。そして、これに対して、温帯や亜寒帯の民族は、比較的粘り強く、着々と努力を積み重ねていく性格を身につけているというのです。
 こうした見方は、あくまでも概括的なもので、疑問の余地があると思います。ただし、もし事実、気候・風土と民族の性格との間に何らかの関連があるものとすれば、そこに中間的要素といいましょうか、両者を結びつける役割をもつものとして、生産活動や生活習慣といった要素を考え合わせることが必要となってくるでしょう。たとえば、熱帯地方においては、食糧は自然が供給してくれる度合いが大きいといえます。住居も、個人が組み立てうる簡単なもので間に合うわけです。ところが、温帯や亜寒帯では、食糧を確保するために共同作業と社会組織が必要です。住居も、冬の寒さから身を守るために、堅牢なものが要求されます。このためには、建材は遠隔地からも集めなければならず、工事には専門の建築技術家が参画することが必要となってきます。こうしてみると、民族の生命力というものは、そうした生活上の必要性と、それに応じようとする習慣から得た体験と知識、さらにそれらの積み重ねの歴史を通してつちかわれていく、ということもできるかもしれません。
 しかし、その反面、さきにあげた気候・風土説を反証するものとして、人類最古の文明を築いたエジプト人やインド人の例があります。彼らの居住地域は熱帯に属しており、気候や風土の影響があるとすれば、彼らは活力を欠いていたはずです。ところが、エジプト人やインド人は、民族としてはいまなお逞しい力を秘めているわけです。
 トインビー 私は、民族の運命の多様さを気候・風土の違いにことよせて説明するのは、事実に即していないと思います。エジプト人やインド人は、肉体的にも、また精神的にも、活力を保ち続けてきています。今日、最古の文明として知られるシュメール人の文明は、現在のイラク地域に興りました。それについで古いのがエジプト文明で、その次がインダス流域文明です。これら二つの古代文明は、いずれも熱帯の自然環境のなかで築かれました。また、クメール人やマヤ族の文明も、やはり同じです。さらにまた、アラブ人は、遊牧民としてだけでなく、交易者、オアシスの園芸家としても活動力に満ちていました。他方、北ヨーロッパ人は高緯度の地域に文明を築きましたが、これはむしろ異例のことです。彼らの文明は派生的なもので、年代からいっても、熱帯の河川流域文明が早生だったのに比べて、晩生でした。
 池田 つまり、自然環境自体が民族の創造力の強弱を決めるのではなく、むしろ環境的な困難さにどのように対応するかが、文明創造の発条となるということですね。
 これに関連していえば、今日では、人為的環境、人間の活動の環境的条件が、現代西欧文明に非常な悪影響を及ぼそうとしているように思われます。そして、この科学技術から発展していく文明は、結果的に、巨大な権力を独占する少数者、知的エリートと、彼らに支配される大衆との間の隔絶を、ますます深めていくことでしょう。また、こうした状況は、人類社会において、人間性の脆弱化をもたらすことが予想されます。少なくとも、人々が科学技術の発達に寄せる期待から生まれた現代文明の延長線をたどっていくと、そうした恐るべき分裂社会の出現を予感せずにはいられません。
 トインビー 現代科学文明は、世界的規模のものヘと急速に発展していますが、その見通しは、まことにご指摘通りのものになるだろうと危惧されます。文明自体と同時に発生した社会内の隔絶は、今後も続いていくことになりそうです。また、富と権力を過分に取得する特権少数者も、依然として存在し続けることでしょう。
 しかし、オートメーションの時代にあっては、大衆は肉体的な重労働ではなく、失業を強いられることになるでしょう。また、ほとんどすべての労働が、体力を使わず知力を使うものになっているはずです。かつて知的労働は、特権少数者のなかの創造的少数者によってなされ、それによってオートメ化以前の文明が生まれ、保たれてきたのです。オートメーション時代においても、同じような役割を、同じような少数者中の少数者が遂行していくことになるでしょう。
 大多数の人々が有給職に就けず、失業手当で生活していくという見通しは、とりわけこの多数者が、かつて特権少数者の大半が暇つぶしにやっていたような、無益な、または害を及ぼす活動にその時間を使うことにでもなれば、まことに恐るべきものです。しかし、これははたして避けられないことでしょうか。
 かつて仏陀や聖フランチェスコが創設した修道院的な共同体の人々は、個人の慈善による施しによって暮らしていましたが、彼らは文明に多大な貢献をしています。これは、彼らが、自ら甘んじた清貧のなかに、熱烈な、また困難な精神活動を行う機会を見いだしたからです。仏陀や聖フランチェスコ、それにイエスも、たしかに経済的な意味での生産はじていませんが、だからといって彼らを非生産的だときめつけるのは的はずれでしょう。
 オートメーション時代に経済活動を失う大衆の貧困は不本意なものであり、自らの意志によるものではないはずです。ここに、彼らの貧困と、歴史上重要な宗教教団に自らすすんで入っていった選良たちの貧困との、決定的な相違があります。しかし、よしんば大衆がそのように不本意に経済的な束縛から解放されるにせよ、そこから開かれる精神的な機会を彼らがつかむ手助けとなることは、たぶんわれわれにもできるでしょう。大衆は、この機会を自分のものとするでしょうか。あるいはまた、堕落してしまうでしょうか。この疑問に対する答えは、経済活動を失った大衆を啓発し、彼らに押しつけられた余暇を精神活動に利用させるような宗教が興り、その宗教の興隆がオートメーションによる挑戦に応じることになるか否か――この点にかかっています。

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