Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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7 ″究極の実在″との合一  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 博士の所説によれば、″宇宙の背後にあり宇宙を超越する精神的実在″との霊的交渉は宗教的体験であるということです。そして、それは個人的、主観的な経験であって、客観的な検証は不可能であるということです。
 そこでお聞きしたいのですが、博士のいわれる宗教的体験とは、仏陀の悟りや、モーゼやイエスやマホメットの受けた啓示と同じでしょうか。また、そうした宗教的体験は誰でももつことができるとお考えでしょうか。
 トインビー 私はモーゼ――彼が歴史上の実在人物だとして――イエス、マホメットが受けた、ないしは受けたと信じられている啓示は、同じ性格のものだと思います。ただし、それらの啓示も仏陀の悟りとは異なる種類のものでしょう。
 ユダヤ教の創始者――もしくは創始者たち――も、イエスもマホメットも、みな有神論者で、″究極の精神的実在″は唯一全能の神であると信じていました。イスラエルやユダ王国の予言者たち、それにイエスやマホメットは、いずれも自らが神から啓示を受けたものと信じました。彼らが自らのために、またその信奉者たちのために追求した神との合一の形態は、人間と人格神、つまり二つの生きている存在の間の霊的交渉というものでした。これらユダヤ系諸宗教の見解では、この二つの生きた存在にあっては、神のほうがその力においてはるかに優位にある点では互いに異なりながらも、人間的という意味での人格を有する点では類似しているとされたのです。
 池田 おっしゃる通りですね。では、釈尊の悟りについては、どうお考えでしょうか。
 トインビー 釈尊は有神論者ではありませんでした。――よし神々の存在を信じていたにしろ、それらには小さな役割しか与えておりません。釈尊は、自らの悟りを自分の精神的努力によって得たものと信じました。また彼の信ずるところによると、″究極の精神的実在″とは、すなわち人間の欲望――人間性のうちカルマ(宿業)を生み出す根源である欲望――が消滅した状態、すなわち象物のことでした。
 釈尊が求めた涅槃との合一の形態は、人間としての生から脱却して涅槃に入ることでした。そして、この人間生活から脱却するためには″カルマのバランス・シート″をすべて清算しなければならず、その清算のためにはあらゆる欲望――愛も貪欲も含めた一切の欲望――を消滅しなければならないと信じました。つまり、人間としての生を退いて涅槃に入る条件は、完全な精神的超脱の達成にあるとしたのです。
 池田 それは南伝仏教、ないしはいわゆる小乗教に説かれているところですね。
 トインビー ええ。ところが私の理解するところでは、南伝仏教の経典は、仏陀自身が自ら説いた通りの実践をしなかったと伝えています。
 つまり、仏陀が悟りを得たとき、すでに涅槃への道は開かれていました。そして、仏陀は、これこそが、自らを含めて一切の有情の存在が求めるべき到達点であると考えたわけです。にもかかわらず、仏陀は、自らの開悟を人々に説き与えることに余生を費やすべく、自己の肉体が死を迎えるまで、その入涅槃を遅延させています。この仏陀の動機は、他の有情の存在への憐憫の情であったといわれています。
 しかし、私には、ここには未解決の矛盾があるように思われるのです。なぜなら、憐憫の情はそれ自体欲望だからです。憐憫とは、貪欲という形の欲望に相対する、愛するという形の欲望ですが、それでも欲望の一形態であることには変わりありません。
 そこで、もし仏陀が、悟りを得た後にもなお憐憫の情をいだいていたとすれば、彼はまだ完全には超脱していなかったことになります。したがってまた、仏陀は、彼自身、涅槃に入る資格のある人間が到達していなければならないと信じていた状態に、まだ到達していなかったということになってしまうのです。
 池田 博士は、そうした矛盾が、仏教においてどのように解決されているとお考えでしょうか。
 トインビー 私は、北伝仏教には、仏陀の実践した通りのことが説かれている、と理解しています。北伝仏教における主人公は諸々の菩薩ですが、彼らは仏陀と同じく、他の有情への憐憫から、自分たちの入涅槃を遅らせています。
 池田 私も、北伝仏教、いわゆる大乗教に至らなければ、釈尊一代の教説の大綱はわからないし、したがって、釈尊の真意がどこにあったかもわからないと思います。
 北伝仏教では″生死即涅槃″と説いて、生死を繰り返すこの生命のままで、涅槃に入ることができると教えます。欲望を断ち切れとは教えていないのです。では、どうすればこの輪廻する生命がそのまま涅槃に入りうるのか――。その転換のカギを釈尊は法華経のなかで示し、偉大なる″法″によって、自己の内に実在する仏性を開覚することである、と教えているのです。
 このわが生命の仏性を開覚したとき、その人の活動は、他のすべてに対する無限の慈悲としてあらわれると説いています。つまり、北伝仏教では、涅槃とは静寂な″空″に入ることではなく、仏性の覚知であり、そこから湧き出る無限の慈悲のことをいうのです。
 この慈悲とは、博士がいわれるように、たしかに一種の欲望ですが、それこそ、生命の本能としてそなわった利己的な欲望を克服しうる力をもっているのです。欲望を断ち切るのでなく、利己的欲望を利他的欲望によって超克することを説いた北伝仏教において、博士の指摘された矛盾は解決されていると考えられます。
 ところで、これまでみてきましたように、仏陀の教えと、モーゼやイエスの教えとが、その究極において異なるのはなぜか――。この点について、博士はどうお考えになりますか。
 トインビー つまり、一方に仏陀がおり、他方に一神教的有神論者たちがいて、互いに″究極の実在″の本質について、相異なる見方をしているわけです。たしかに彼らの観点は相容れないものですが、かといって、必ずしも一方が正しく、他方が誤りであるとはいえません。彼らがそれぞれ″実在″の異なった側面をみたというほうが、私には激短獣があるように思われます。
 池田 なるほど。では、″究極の実在″がどうしてそのように相容れない面をもつとお考えでしょう
 か。
 トインビー 現在、人間の知性が、科学的推論を経験に照らすことによって知りうる、宇宙のごく一部分においてすら、物質は、その最極微小の領域では互いに相容れない特性をもつといわれています。
 私は、人間の思考では理解できない矛盾というものは、すでに人間がその理解力の限界の一つに突き当たっていることを示すものだと思うのです。″究極の実在″の本質とは、やはり人間の知性では、たぶん部分的にしか理解できないものなのでしょう。したがって、私は、″究極の実在″に対する仏教の見方とユダヤ系諸宗教のそれとが相容れなくても、そのことは、いずれか一方が誤りであることを示すものではないと考えます。むしろそれは、いずれの見解も、人間によるものであるがゆえに、部分的かつ不完全にならざるをえないことを示すだけの話だと思われます。ただ、私は、これら相容れない両者の見方は、相容れないがゆえにかえって補い合い、人間の知性ではせいぜい部分的にしか理解できない一つの″実在″に対するわれわれの理解を、実際には深めさせてくれるのだと考えています。
 池田 人類が、もしそのように考えるならば、これらの高等宗教が将来統合されるということは、大いに考えられることですね。そこで、もし統合されるとすれば、博士は、それはいかなる形をとるとお考えでしょうか。現存する高等宗教の一つに統合されるのか、それとも何かまったく新しいものに止揚されていくのか、どう思われますか。
 トインビー 私には、高等宗教の結合はすでに始まっているようにみえます。私のみるところでは、この結合は一体化の形ではなく、むしろ相互に認識し合うという形をとりつつあります。つまり、これら諸宗教のいずれもが、″究極の実在″について、部分観にすぎないにせよ、特色ある独自の観点をもっており、いずれの宗教も人類に価値をもたらすものであるという相互認識です。
 人間はそれぞれ異なる経験をもつものですが、それだけでなく、人によって気性も異なります。われわれが共通してもつ人間性ですら、すでにこのような差異があることからみても、″究極の実在″に対する見解がいくつもあって、われわれがその″実在″を多少なりとも理解するのを助けてくれるというのは、むしろ幸いなことでしょう。
 池田 なるほど、よくわかります。″究極の実在″というものの深遠さに比して、人間の理解力があまりにも浅いために、それを部分的、一面的にしかとらえることができないという博士の説に、私も同意します。
 ただ、あえてこの点をもう少し追求して述べてみましょう。さきにも申し上げたように、仏法では″空″″仮″″中″の三つの存在の仕方についての概念を立てています。″空″ということと″仮″ということとは、互いに矛盾する内容をもっているわけですが、それは″中道″という実在において止揚されるのです。仏法は、個々の生命も、博士のいわれる″究極の実在″も、この″空・仮・中″を同時にそなえた存在であると教えています。
 一神教的有神論者が考えている″究極の実在″は″人間に似た姿をもつ神″という意味では″仮″の側面をあらわしていますが、その場合でも、肉体と精神の統一体であるわれわれ現実の人間とは違って、それ自体、永遠不滅であるとしますから、本当の意味での″仮″でもないようです。
 また、博士が主張されるように″究極の実在″が″愛″であるとしますと、これは″空″の側面をとらえているといえます。しかし、それをいかに現実の生命的存在のなかに顕現していくか、もっと根本的にいえば、この″究極の実在″はどのように、具体的な心身統一体としての生命存在のうちにあらわれてくるのか、という点は明らかにされていないように私には思われます。
 つまり、それぞれの宗教がとらえているのは″究極の実在″の異なった部分なのです。仏法は″空・仮・中″の三つの側面から、その全体像に迫ったものであるといえます。
 さらに、この″究極の実在″のとらえ方の違いから、万人にとって実践できる方向性をはらんでいる場合と、特定の人物にしか到達できないものである場合との違いが生じてくると思います。私は、仏法のとらえ方が万人に応用できる方法であるのに対して、ユダヤ教、キリスト教的なとらえ方は、この点では限られたものであると思います。つまり、″究極の実在″が人間のように意思をもった存在であるとするならば、その恩寵にあずかる人のみが神に触れ、神の啓示を受けられるということになります。そして、人間の側の主体的な意思は、あまり重要な意味をもちえなくなってしまう恐れがあります。これに対して、″究極の実在″は宇宙に内在するとともに、すべての生命的存在の内に本来平等に実在する、と説く仏法のとらえ方によれば、すべての人間が平等に、この″究極の実在″に触れ、合一することが可能になります。
 結局、″究極の実在″を認めるという根本的な態度、また、そこから引き出される人間の生き方や行動についての理想は、各宗教とも互いに共通するにしても、その″究極の実在″に触れ、合一するにはどうすればよいのかという実践方法については、おのずから違いがあるわけです。さらに、こうした、われわれが″究極の実在″をいかなる方法で把握するかということは、それが反映される現実のわれわれの生き方とも、深い関わり合いをもってくると思います。
 トインビー あらゆる高等宗教、高等哲学は、人間の行動に対して、いずれも同じ実際的な助言を与えています。それらはともに、人間の至高の目的は、自己を超克することでなければならず、貪欲の充足のために宇宙を支配しようとしてはならないと教えています。また、自己超克の目的は、自己を超越する何ものかのために自己を献身せしめることにあるとも教えています。
 仏陀の慈悲も、イエスの愛も、私の信ずるところ、人間生命の払拭しえない要素である欲望を、方向転換させるものであるようです。すなわち、欲望の方向を自己から宇宙へと向け直させるものなのです。

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