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日蓮大聖人・池田大作

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5 物質の究極は何か  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

前後
1  池田 これまで科学は、物質の究極の粒子を探索して、素粒子に至りました。しかし、ハイゼンベルクの不確定性原理や、素粒子の波動性、自己同一性のなさ等が発見された結果、素粒子は物質の究極の単位ではなく、さらに究極的なものがあるのではないかと模索されているようです。
 また、ミクロの世界に対する自然科学の分析的な手段は、一つの大きな限界にきているのではないかと考えられるようになっています。つまり、一切の物質には物質波がともなうことが知られ、また物質には″場″が広がっていることも発見され、もはや物質の究極を、ある大きさと質量をもった″粒子″という基本概念だけでは説明できなくなり、粒子とともに″波動″とか″場″といった様態、性格をも併せて把握する必要性に迫られてきているようです。
 科学は、こうしてさまざまな側面から物質の根源の実体に迫ろうとしているわけですが、これらの要素を、新しく統一的に把握するための方法論を生み出さなければならない段階にきているのではないでしょうか。従来の自然科学の方法論というのは、どちらかといえば分析的な方法でした。これは、たしかに一つの有力な方法ではありますが、私は、それに加えて、総合的な思考法がますます要請され、さらに、より根本的には、演繹的な方法が必要になってくると思うのです。
 トインビー 私も、これからは演繹的な方法が重要になってくると思います。ご指摘の通り、科学者たちは、宇宙の本質の物理的な側面に科学的説明を加えるうえで――つまり、実証可能、検証可能な説明において――すでに限界に達しています。彼らは、物質の究極的な性質に関して、二つの異なる実像を発見しています。すなわち、一つは原子よりさらに小さい粒子であり、もう一つは″波動″と″場″です。さらに彼らは、この二つの実像を両方同時に観察することができないことに気づくに至りました。
 このように、科学の能力に限界があるということは、総じて人間性の能力そのものに限界があることを示す、一つの顕著な例です。ホモ・サピエンスは、意識ある心身相関の生物であり、肉体的にはかよわい存在でありながらも、同時に、強力な精神活動に十分役立つようできています。人類はこれまで、その精神と肉体とを調和的に働かせることによって、生存能力のあるところを示してきました。他のあらゆる類人動物を滅ばしましたし、また地球表面付近のほとんどいたるところで、生物と無生物とを問わず、人間以外の自然界をほぼ支配し尽くしてきました。人類はまた、余分な能力ももっています。これは生存のために必要とされる以上のものです。そしてこの余剰能力を、人類は善悪両面に使ってきました。つまり、善い面といえば、芸術作品を創作したり、知的好奇心を満足させることであり、悪い面といえば、戦争をしたり、不当にも特権少数者に気ままで豪奢な生活をさせたりすることです。しかし、その余剰能力にも限界があります。そのような能力は、人類に大宇宙全体を知らしめ、理解させ、コントロールさせるほどのものでは、とてもありません。大宇宙は、われわれにとっていまだに神秘そのものであり、われわれはその神秘性のなすがままにされているのです。
 池田 たしかに、大宇宙がわれわれにとって、依然、神秘のヴェールに包まれているのは、一つにはわれわれの感覚能力に限界があるからでしよう。しかし、現代社会には、いまだに人間能力の万能を信ずる考え方が強く残っています。人間は、自らの知性に溺れて傲慢になるのではなく、謙虚さを取り戻すべきですね。そのためにも、科学をはじめ人間の能力の正しい活用を支える哲学と、そうした能力を全体的に把握する演繹的な解明が、ますます必要になってくると思います。
 そうした新しい統一的把握の前提となるのは、私は物質観の問題だと思います。たとえば、唯物論でいう物質観、つまり、エンゲルスのいわゆる「感覚によって知覚される物質が唯一の現実世界である」という認識では、おのずから限界があるでしょう。″感覚によって知覚される″物質の姿は、その物質の実在の一側面ではあっても、決して全体像ではないからです。物質には″感覚によって知覚されない″側面があるはずです。
 トインビー 人間の知覚力の限界について述べられましたが、まったく正しいご指摘です。たとえば、われわれは宇宙の物質的側面のうち、その最小規模とみられるものの構造と運動を――両方同時にというわけにはいきませんが――観察することができます。しかし、物質としてわれわれに観察できる最小規模のものが、ただちに実在として最小のものであると証明することは、われわれにはできません。むしろ、宇宙の全領域のうち、ほんのわずかな一部分だけが、われわれ人間の感覚に知覚されうるのだといったほうが、真実に近いように思われます。
 池田 まさにおっしゃる通りで、真の意味での物質の″究極″となると、それはもはや人間の知覚能力を超えたものとなるでしょう。ゆえに、物質の本質に関する理論物理学の探究も、かなり哲学的な色彩を帯びてこざるをえないと思うのです。そして、物質の究極の単位とは、もはや″物質″とか″単位″とかの概念ではとらえきれない″実在″になってしまうのではないかとも考えます。
 宇宙空間が、何ものも存在しない空虚な空間であるのかどうかという問題は、古来、多くの人々の論争の的であったと思います。真空の問題は、ギリシャにおいては、存在と非存在の問題を通じてあらわれてきたようです。デモクリトスの原子論の立場においては、真空は積極的に認められ、原子は真空の中を運動しているものとされていました。近代科学の成立とともに、真空の問題は、物理学の重要な課題の一つとなり、″近接作用″と″遠隔作用″の対立となって、激論が交わされてきました。
 それが、場の理論の確立とともに、現代物理学では、空間はたんなる真空であるという考え方は打ち破られるに至りました。電磁場の理論を提唱したファラデーは、磁力線や電力線は空間そのものがもっている性質であり、磁石や荷電体によってその性質が引き出されるのだと考えていたようです。つまり、物質問の力は、空間そのものの性質に帰せられるべきであるというのです。このファラデーの″力の場″を数式化したのはマックスウェルであり、光は電磁的力が空間において自らをあらわす形態だとする彼の考え方は、素粒子論にも大きな影響を与えています。
 場の理論を集大成しようとしたアインシュタインも、重力場、電磁場などの″統一場″の理論を完成するまでには至りませんでしたが、空間に対する考え方は明瞭になってきたようです。彼の考え方を要約すれば、次のようになりましょうか。
 ――何ら物体の存在しない空間にも、離れた異物体を互いに引き合わせたり、電磁場を伝播させたり、新しい物質を誕生させたりする働きと性質が存在する。そして、質量とエネルギーは等しく、互いに変換されるが、そのエネルギーが多量に集中している場所が物体であり、モ不ルギーの集中の少ないところが場となる。ゆえに、物質と″場の空間″は相互にまったく異質ではなく、同じものが別の形態をとって顕現したものにすぎない。また、この″場の空間″は、たんなる広がりをもつだけの空虚ではなく、それ自体の性質が、その中に存在する物体に影響を与えたり、ある条件が整えば、物質を生み出す可能性をも含んでいる――と。
 現在では、″核力の場″、またそれと関係する″中間子場″などの研究も進んでいます。また、素粒子論の分野では、日本の湯川博士などが″素領域″を唱え、時空と素粒子との関係を究明しようとしています。こうした、物理学における空間に対する考え方は、仏法の″空″の概念と深い共通性をもっているように思います。本来、″空″の概念は、時空の束縛を突き抜けたところにあるものです。現代物理学の究明しようとしているものが、じつはこれまでの時空で理解される究極にまで近づきつつあるように思われます。時空の束縛を突き抜けてしまったならば、それはもはや科学的、客観的に探究しうる問題ではありませんが、私は、″場の空間″に対する現代物理学の考え方のなかに、仏法の″空″の概念に共通するものが明らかに看取できると思っています。
 トインビー 現代物理学に関する私の理解はまことに粗末なものですから、この分野の最近の傾向について確かな意見を述べることはできません。しかし、そうした制約を前提にして申し上げれば、現代物理学はたしかに、時間や空間を基準にして理解できる範囲の限界に近づきつつあるようです。したがって、もはや物理学は、実在の非物質面――すなわち精神的な側面――に関しては、何らの理解もわれわれに与えなくなりつつあるのではないかと思います。時間や空間は、実在のうちの物理面で機能するものです。ところが、実在そのものは、物理面とともに精神面をもっており、しかも、その精神面は物理面と同様の実在性をもっています。仏教の″空″の概念は、この実在の精神的側面を暗に指し示すものです。そして、私の信念では、精神の世界については、精神的な用語でしか言い表せないと思っています。ところが現実には、われわれが精神的事象を表すのに用いている語彙は、物理的事象に関する語彙のなかから、類推的に引き出したものです。これはなぜかといえば、人間の知性にとって、精神的事象は感知しがたく、とらえどころがないのに対して、物理的現象のほうは比較的容易に把握しやすいと映るためなのです。このように、精神的事象を語るにさいして、われわれは類推による語彙を用いざるをえないわけですが、こうした語彙は不適切であるばかりでなく、まったくの誤認識を与えることさえあります。われわれは、精神的実在の本質についても、そうした語彙がほのめかす物理的な観点から思考してしまい、それにあざむかれて意味を取り違えてしまうことがあるのです。

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