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日蓮大聖人・池田大作

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4 他の天体との交流  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 最近、地球以外の天体にも、人間と同程度か、あるいはさらに進化した高等生物が存在するかもしれないという推測が行われています。もちろん、この推測にはまだ実証2晏づけがあるわけではなく、したがって空想的な仮説の域を出るものではありません。私がこの問題に興味を覚える一つの理由は、釈尊が法華経の中で、宇宙には明らかにそうした世界が無数にあることを前提とした説き方をしていることです。哲学的にみて、博士はこの問題をどうお考えになりますか。
 トインビー 科学者たちが、他の惑星にも知性をもった生物が存在しうると主張するのは、既存の一定の知識量に基づいた、もっともな推測です。彼らは、これまでに発明した最も遠距離まで届く観測機器により、二つの事実を明らかにしました。一つは、物理的宇宙のうち、彼らが地球上からの観測を可能にした部分は、地球、太陽系、銀河系などの規模に比べて、ほとんど想像もできないほど広大なものであるということです。もう一つは、その広大な既知の宇宙領域でさえ、大宇宙全体からみればごく一部分にすぎず、全宇宙そのものにはたして限界があるのかどうか、立証できないということです。
 仮に、空間や時間を、際限なく循環を繰り返すという意味で無限のものと考えたとしても、空間や時間は、やはりあまりにも広大長遠すぎます。したがって、大宇宙の構成、その歴史のなかで、ただ一つ地球だけが生命や意識的存在を過去・現在・未来にわたって存在させうる、唯一の空間的一点、時間的一瞬であるとは、とても考えられないのです。
 生命――われわれが地球上で見知っている生命という意味での生命――は、一定のかなり限定された物理的条件のもとでしか生存できません。しかし、他の生命形態なら、異なる条件のもとでも生存じうることは、十分考えられます。ただ、わが太陽系のなかでは、いかなる生命形態にせよ、生命を育むことのできる惑星は、おそらく地球だけでしょう。また、わが銀河系のなかでは、他の太陽系にも、生命を育むことのできる惑星はたぶんないでしょう。
 ただし、わが銀河系以外にも、これまでに知られている銀河系は無数にあります。また、現在の観測領域を越えたところにも、さらに数え切れないほどの銀河系が存在していることでしょう。そうしますと、わが銀河系以外にも、少なくとも一つの銀河系に、少なくとも一つの太陽系が、生命を維持できる惑星を少なくとも一つは含んで、存在することが考えられます。そして、そこには実際に生物が棲息しており、そのうちのある種が、われわれ人類と同じように知性をもっているということも考えられると思います。これがもし、宇宙は有限だというのであれば、それも考えられないことでしょうが、実際には大宇宙は無限であるかの様相を呈していますから、そうしたことが起こる蓋然性はあるわけです。
 こうみてくると、たぶん人類は唯一の存在ではないように思われます。それは、たんに信じうるということだけではありません。どこか別の一惑星に――いや、あるいはきわめて多くの他の惑星に――人類とほぼ同じ種類の知的生物が存在することは、むしろ蓋然性のあることです。
 しかし、地球からそうした知的生物の住む惑星に到達することは、たぶんほとんどありえないことと思われます。人類が月面着陸から学ぶべき大事な教訓は、他の惑星へ到達することのたいへんなむずかしさです。他のどの惑星よりもはるかに地球から近い月の表面に、たった数名の人間を着陸させるために、じつに膨大な資材と技術とが費やされました。したがって、たとえわが銀河系に、棲息可能な惑星が他に一つでもあると仮定してみても、そこに到達するには、乗っている人々が何回でも世代交代できるような宇宙船を、発明しなければならないでしょう。
 池田 他の天体にも生物がいるとした場合、その生物の形態とか機能とか化学的組成などが、地球の生物と異なるかどうかが問題です。一部の科学者は、地球の炭素系生物とは違って、たとえば珪素系の生物も存在する可能性があると考えています。そういう可能性はあると思われますか。
 トインビー 他の天体に生命が存在するとすれば、やはり地球上のそれと同じように、たぶん心身相関の生命体でしょう。しかし、そうした生物の身体の化学的組成や機能が、地球の生物のそれとはまったく異なっていることはありえます。
 他の天体にも生物がいるものなら、そのうちのあるものは意識をもっているかもしれません。また、そうした仮説上の意識ある生物のなかには、知性面ないし倫理面で、あるいはその両面で、人類より優れたものもいるかもしれません。しかし、こうした臆測をめぐらしたからといって、われわれはそのことからただちに、この物理的宇宙そのものに、またそのあらゆる部分に、生命が潜在的に内在すると推定せざるをえないものかどうか、それは疑問です。
 池田 たしかに臆測は不安定なものであり、そこから確かなことを引き出すことはできません。ただ、ここで私は、ただいまの仮説に関連して、仏法で説く宇宙観にふれておきたいと思います。
 仏法の考え方によれば、大宇宙それ自体が一個の生命体であって、まったくの無生の世界とみえる天体も、内には生命への方向性をはらんでいるとみることができます。したがって、環境条件がととのえば、その条件に応じて、各種の生物学的生命が発現することになります。
 この概念の基底をなしているのが、壮大な″三世十方の仏土観″です。十方とは全宇宙の広がりを意味しています。三世とは、無限の過去から現在の瞬間を含めて、永遠の未来に至るまでの、長遠な時間の流れを指します。仏法は、この宇宙の中に、三世にわたって常に数えきれないほどの仏土があり、意識や感情をそなえた生命的存在である衆生がいると説くのです。そこでは、たんに生物学的生命だけを生命的存在として考えているのではありません。そのような生物を生み出す力が宇宙自体にあるとし、無生の物質にも生命が冥伏した形で内在していると規定しています。
 このように、仏法は、大宇宙自体が一個の巨大な生命体であるとし、そこから論理的思考を展開しているわけです。こうした観点からいえば、他の天体に知力をもった生物がいるとしても、少しも驚くにはあたらないわけです。
 トインビー はたして大宇宙自体が、仏法の主張するように、一つの巨大な生命体であるかどうかは、不可逆的な変化の実在や″ノヴェルティ″の実在を、認めるか否定するかで決まってきます。
 それらの実在を否定するという場合、その根拠は、それらが論理上考えられないということです。また逆に、それらの実在を認めるという場合、その根拠は、それらが人間の経験上のデータであるということです。
 もし、われわれがこうしたデータの真実性を否認するとすれば、人間の知性が明白にとらえたかにみえる諸々の現象も、じつは″実在それ自体″の本質については何も教えてくれない、たんなる錯覚にすぎないのだと結論せざるをえません。
 池田 私は″変化″とか″ノヴェルテイ″は、現象の解釈のために人間が考えた概念であって、それは実在ではないと考えます。たしかに、変化やノヴェルティとみえる現象があるにしても、そう解釈することは正しくないと思うのです。
 ところで、万一、他の天体に知的生物が存在すると仮定した場合、そうした生物と地球人との接触、交流の可能性もなきにしもあらずで、そうした問題を考えておくのも無意味ではないと考えます。
 トインビー これまでのところ、われわれはまだ、物理的宇宙のうち、地球から観測できる範囲内のどこかに、そうした生物が存在するという根拠を得ていません。われわれの観測領域は、おそらく今後も拡大していくことでしょうが、しかし、それにもたぶん限界があるでしょう。
 いずれにしても、たとえわれわれがそうした知的生物を宇宙のどこかに発見したとしても、彼らとの交信ができるかどうかはわかりません。また逆に、万一、そうした生物のほうでわれわれの存在を発見したとしても、彼らがわれわれと交信できるかどうかもわかりません。最近、われわれの立場からみれば地球大気圏外の宇宙にあたるどこかから、地球が他の生物によってすでに偵察されているという推測がありますが、私はこれには疑問をもっています。そのような生物がたとえどこかに存在するとしても、彼らの住処は地球から何億光年も離れているはずです。しかも、膨張宇宙説が正しいとすれば、その距離は恐るべき速度で広がりつつあるはずです。
 そうした状況のもとで交流が行われるとしたら、それは双方がともにきわめて高度の知性をもち、交信技術の面でも同程度に有能である場合のみに限られるでしょう。したがって、もしも人類と他の天体の知的生物との間に接触が行われるとすれば、その生物は、知的には少なくとも人類と同程度であろうと考えられます。また、彼らのほうがはるかに知的に高度である可能性もあります。
 池田 もし万一、そうした接触、交流が行われたと仮定した場合、人類はどういう態度をもって臨むベきでしょうか。
 トインビー そのような接触が開始された暁には、われわれは、近代西欧人がかつて南北アメリカ大陸の発見とその植民地化の後に、同じ人間仲間に対して示したような、非人間的な態度をとってはなりません。他の惑星の知的生物に対して、われわれは謙虚で思いやりがあり、打ち解けた態度をもって臨むべきです。ただし、相手側の知性の程度がよくわかるまでは、油断せず、気を配っていなければならないでしょう。彼らのほうがずっと知性があって、われわれ人類を有害な動物とみなすかもしれないからです。かつて西欧人がアメリカ・インディアンを皆殺しにしたのと同じく、あるいはわれわれがハマダラカを駆除するのと同じく、彼らが何の良心的呵責も感じずに人類を絶滅させるということも、なきにしもあらずです。さらにこの仮説上の他の惑星からの知的生物は、ちょうど人類が地球上の珍しい生物を飼育するように、科学的好奇心のたねとして、いくつかの人種を保存しておこうとするかもしれません。
 もちろん、彼らのほうが、知的に劣っていることがわかる場合もあるでしょう。知的レベルが、すでに絶滅した原始的類人動物と同じ程度だということもありえます。その場合、われわれとしては、いわゆるホモ・サピエンスが、かつて地球上の支配を争い合った他の類人動物に対処した態度より、はるかに慈愛のこもった対処の仕方をすべきです。

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