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日蓮大聖人・池田大作

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3 宇宙について  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 われわれの住んでいる宇宙がどのような様相をしているかということは、最も古くから論議され、多くの天文学者や哲学者の頭を悩ませてきた問題です。
 歴史的にも、遠く紀元前三千年ごろのシュメール人が独特の宇宙観をもっていたことが知られていますし、古代ギリシャの哲人たちも、論理を尽くしてさまざまな宇宙像を形づくっています。しかし、この天体の問題が学問として、いわば科学的に探究されだしたのは、ルネサンス期からとされています。ガリレオが望遠鏡を発明してから本格的な時代に入るわけですが、天文学に限らず、いわゆる″科学革〈″の時代が、ルネサンスを起点にして華々しく開花したわけです。
 そして、二十世紀に入って、物理学の方面で、アインシュタインの相対性理論と、その後の量子力学、素粒子論の発展に支えられて、天文学は、太陽系から銀河系を経て、実際、全宇宙を学問の対象とするようになってきたわけです。ことに第二次大戦後、電波望遠鏡が使われるようになってから、天文学は飛躍的に発展したといわれています。時代的にみますと、一九三〇年代、四〇年代は原子物理学の劇的な変革期であり、一九五〇年代は生物学の革命的転機の時代、そして一九六〇年代から七〇年代は天文学の黄金時代であるという見方ができます。つまり、将来振り返ってみると、これらの年代は、ガリレオが初めて天空に望遠鏡を向け、ケプラーが惑星の動きを明らかにした、あの十七世紀初頭上肩を並べる変革期になると考えられます。
 ところで、これはあらゆる学問についていえることだと思いますが、視野が開ければ開けるほど、新たな難問が次々と浮かび上がってくることも、事実でしょう。ことに天文学では、直接手にとって実験し、研究することがむずかしい対象であるだけに、一層困難なものがあるのではないでしょうか。こうした宇宙についての根本的課題は、大きく分けると二つになります。一つは、宇宙の大きさという問題であり、いま一つは、宇宙の起源という問題です。この二つは天文学の最大のテーマであると同時に、とりもなおさず、哲学上の重大な問題でもあるわけです。
 トインビー 今日われわれは、物理的宇宙について、紀元前の最後の一千年間にバビロニア人やギリシャ人が知っていたよりも、はるかに広大な部分を視野に収めています。また、われわれの観測領域内にある星についての組成、温度、変化、運動などに関しても、彼らよりはるかに多くのことを知っています。
 ところが、宇宙全体の問題を考えたり、その本質を理解したりする段になると、われわれは先人であるバビロニア人やギリシャ人と同じくらい無知であることに気づきます。物理的宇宙の歴史や領域については、われわれも彼らと同様、ほんのひとかけらの知識しかもっていないのです。また、宇宙の全体像に関するわれわれの知識は、彼らと同じく、たんなる推測にすぎません。しかも、その推測にしたところで、やはり彼らと同様、互いに学説に食い違いがあって、結論が出ていないのです。というのは、そうした推測のどれをとってみても、証明の手だてはなく、それに必要な情報もないからです。
 池田 いま博士がおっしゃったことは、宇宙についてのわれわれの知識の限界をわきまえなければならないという意味で、非常に重要な点です。そういった点を考慮に入れたうえで、まず宇宙の大きさについて考えてみたいと思います。
 いろいろな天体が発する光のドップラー効果が発見されて以来、星雲同士が恐ろしいほどのスピードで遠ざかりつつあること、いわゆる膨張宇宙であることがわかってきました。これらの星雲は、遠くにあるものほどスピードがますます速いことが観測されています。そして地球から二百億光年ほど離れたところでは、ほとんど光の速さで遠ざかっており、それより遠いところについては、もはや現代のいかなる自然科学の手段をもってしても、認識することは不可能だとされています。つまり、地球から半径二百億光年以内の宇宙が、われわれが物理的に見る可能性のある宇宙であって、そこから先は宇宙の地平線、つまり、いわば″宇平線″の彼方にある、感知できない世界となります。
 したがって、そこから先は科学の範囲を超えて、純粋に哲学、つまり人間の思惟と想像の問題になります。すなわち、宇宙は無限に、ただ延長的に広がっているものなのか、それとも別の宇宙があるものなのか、あるいは一定の境界の外にはただ無の空間が広がっているだけなのか、といった問題です。これは想像と観念によるほかは決定しがたい問題ですが、しかし、それについてどう考えるかということは、重大な意義があると思います。というのは、そうした宇宙観が、ひいてはわれわれの生き方に少なからぬ影響を与えることが、十分に考えられるからです。
 膨張宇宙を説明するのに、支配的な流れの一つになっているガモフらの爆発説によりますと、約二百億年ほど昔に、宇宙は巨大な原初状態から膨張を始めたことになっています。そこから導き出された推論は、現在広がっている宇宙は、いくら大きいとはいっても有限だろうということです。原初の宇宙自体がもともと無限の大きさをもっていたと考えれば別ですが、それはきわめて可能性が薄いだろうと彼らは考えているようです。ですから、彼らによれば、この宇宙は一つしかなく、その大きさは有限で、その境界より外は、ただ虚無の世界が広がっているだろうという推量です。
 もう一つの可能性として、さらに大きな規模で考えれば、別の巨大な宇宙が――これは複数の可能性が十分考えられますが――存在するかもしれないという考え方があげられます。ある科学者によれば、膨張している宇宙とは別に、収縮している宇宙がある可能性もあるということです。
 もし、この第二の説が真実であるとするならば、われわれが観測によって大宇宙だと考えているものが、じつは真実の大宇宙のほんの一部分にすぎない、ということになります。そして大宇宙は無限の広さをもち、それ自体は永久不変であると考えることもできるわけです。
 トインビー われわれが実際に、あるいは心の中ででも、描くことのできる無限の線といえば、それは開かれた末端をもたない線、すなわち円とか楕円だけです。古代インド人や前キリスト教時代のギリシャ人は、空間や時間の構造、運動をこうした循環的なものと信じていました。彼らの考えによれば、すべての事象、すべての実在は、周期的に、しかも際限なく繰り返されるというのです。このような物理的宇宙に関する概念は、われわれの太陽系における諸現象とまさに符合するものです。つまり、各惑星は一定不変の軌道を描いて太陽のまわりを回っていますし、地球は二十四時間の周期で自転しているからです。
 しかしながら、われわれの太陽系の現在の姿が、宇宙全体の構造や運動の見本として完全なものであるという証拠は、われわれにはありません。事実、そのことは、宇宙が絶えず膨張しているという学説によって否定されています。さらにまた、循環説は、不可逆的な″変化″とか、まったくの″ノヴェルティ″(新奇性)とかの現象がありうることとも相容れません。しかも、この″変化″や″ノヴェルテイ″は、われわれ人間の経験におけるデータ(既知事項)です。もっとも、そうした人間の経験が″実在″そのものを正しくとらえたものと信ずるか信じないかは、別問題です。
 池田 さきのテーマでも博士が使われた言葉ですが、″ノヴェルティ″というのは、具体的にどのような概念を指すのでしょうか。
 トインビー ″ノヴェルティ″という概念は、これまで存在していなかった何物かが存在し始める可能性があることを意味しています。いいかえれば、無から有を生ずることの可能性を意味しているのです。これは論理的には考えられないことですが、しかし、こうした新奇性が実際にあることは、不可逆的な変化が存在することとともに、すでに人間の経験的既知事項になっています。
 不可逆的な変化や純粋な新奇性が実在するとすれば、空間や時間の構造や運動は、円や楕円のように反復を繰り返す無限のものではありえなくなります。それは、きっと両端のある一本の線のように、有限なものであるに違いありません。両端が限定されていない一本の線は、どちらの方向にも無限に延ばすことができます。もしこの線が特定の二つの点で終わるものとすれば、その場合、線の長さの限界は、あくまで恣意的なものであるに違いありません。ちょうど製図家が、どこまで線を引いてもかまわないのに、勝手に限定して区切ってしまうようなものです。
 池田 なるほど、よくわかりました。たしかに現象面からみると、博士のいわれる不可逆的な変化や、まったくの新奇性としかいいようのない現象があることは、否定できません。自然界は円とか楕円で示されるような単純な反復、循環を繰り返しているものではありません。自然は、常に新たな要素を生み出しつつ、いわば創造をなしつつ、流動していくものでしょう。
 しかし、博士の提示される″ノヴェルティ″という考え方に関してですが、それが、現象面からみると、無から有を生じたといえるような、まったく新しい事象の誕生であっても、私は別な考え方もできるのではないかと考えます。それが、仏法でいう″空″の概念であることは、さきにも申し上げた通りです。
 さて、次に宇宙の歴史についてですが、さきほどのガモフらの説にみられるように、現在の支配的な見方によれば、宇宙の出発は二百億年ほど前だとされています。ただし、その時点が一切の出発だと規定しているわけではありません。それ以前の、つまり原初状態以前の宇宙がどうであったかを論議するのは、学問的には無価値だとするわけです。もし、仮に二百億年前が文字通り一切の出発点だとしますと、その時点で完全な無から有が生じたことになります。もし、無から有が生ずることを認めないとすれば、宇宙は無限の過去をもっていることを意味します。その場合、二百億年以前は、無限の過去から、逆に収縮していたのだと考えることも自由ですし、収縮と膨張を無限に繰り返していたのだ、と考えることもできるわけです。また逆に、有が無に帰することを認めないとすれば、宇宙は無限の未来をもつことになります。
 トインビー 少なくとも人類最古の文明が芽生えて以来、つまり五、六千年もの昔から、地球自体も、また地球をその一部分とする宇宙も、幾多の変化を経たものであることが、ずっと認められてきています。ある思想家たちは、地球も全宇宙も、またそこに含まれる万物も、それぞれ原初があったに違いなく、したがって終局的にはすべてが無に帰するに違いないと推論しました。また他の思想家たちは、宇宙は永遠のものであると考えてきました。この相対立する二つの理論は、今日なお論争が絶えず、いずれが正しくいずれが誤りか、まだ立証されていません。
 ただ、論理的にいって、空間的・時間的に有限な宇宙というものは考えられません。なぜなら、もし空間や時間が無限でないとすれば、空間を越えた外側に、また時間の前と後に、さらに空間や時間がなければならないからです。しかし、この論理的必然性は、すでに有限という概念によって、アプリオリ(先験的)に論外とされます。このため、有限の空間・時間というものがあるとするならば、それは空間や時間そのものとは異なった存在秩序の、何らかの力によって境界づけられたものでなければならなくなります。
 したがって、もしわれわれが宇宙を有限のものと考えるとすれば、宇宙は空間や時間を基準にしては考えることのできないある力によって創造され、計画立てられ、一つの目標へと方向づけられている、と結論せざるをえなくなるようです。そして、その力とは、いいかえれば神であるということになります。こうみてくると、膨張宇宙説は、無からの宇宙創造というユダヤ神話を非人格化した、改訂版のようなものに思われます。
 それでは、宇宙の精神的側面についてはどうでしょうか。もし、物理的宇宙に意識ある存在、すなわち人間がいなかったなら、宇宙の存在自体も気づかれないでしょうし、宇宙に関して思索をめぐらすなどということも、ましてや証明可能な知識が得られるなどということも、とうていありえないわけです。人間という意識ある存在は、精神と肉体を相関的に兼ねそなえた有機的生命体です。われわれがもし宇宙を、その物理的側面と同時に、精神的側面についても見つめないとしたら、われわれの宇宙観というものは不完全で、不正確なものになってしまいます。有限とか無限とかの概念は、″実在″の精神的領域にあっては、はたして意味をもつものでしょうか。
 ここで結論を申し上げれば、われわれは先人たちに比べて、宇宙についての知識は増やしたけれども、そのくせ理解は少しも深まっていないということです。
 池田 つまり、それは宇宙の本質に関する問題であり、結局は哲学、宗教に託されるべき性質のものであるということですね。たしかに現代人の知識量は増しましたが、宇宙の本質に対する理解となると、古代人のそれとさして変わるところがありません。
 では、そうした意味からも、ここで、ただいまもちょっとふれられましたユダヤ系諸宗教の宇宙創造説についての、博士のお考えを聞かせていただきたいと思います。
 トインビー 人間は、技能を駆使して事物を意図的に変化させることができます。たとえば、粘土から壺をつくります。ここから類推して、ある思想家たちは、知性と目的性をもつがゆえに人間的でありながら、全能で不滅であるがゆえに超人間的な、何らかの存在が宇宙を創造したのだろう、と考えたわけです。そうした考えのうち、ある見方によると、この創造主は一挙に宇宙をつくりあげた、しかもその宇宙が自分の当初の計画通りに展開するよう組み上げた、というのです。また別の見方によると、この創造主は、常に新たな思案をめぐらしては計画を変更し、それを実行に移すというふうに、絶えず作業を続けているというのです。
 このような全能の創造神の存在を信じてきたのが、ユダヤ系諸宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の信者たちでした。これらの宗教は、旧世界の西端部や南北アメリカでは既存の宗教を押しのけ、それらにとって代わりました。しかし、南アジアや東アジアでは、これらの宗教自体も、またその全能なる創造神という単純な考え方も、さして人々に感銘を与えませんでした。
 近代西欧社会においては、十九世紀以降、こうしたユダヤ的創造神の概念から離れて、別な角度からの説明を見いだそうとする試みがなされてきました。すなわち、観察され推論された変化の事実に関して――なかんずく、地球上での生命の出現に関して――また生物の形態がどんどん分化していくことに関して、さらに比較的新しい生物種のなかに、より複雑で精密な構造をもつものが多いことに関して、新たな説明をしようとしたわけです。
 私自身は、この無神論的な進化論に対して、論断を下すに必要なだけの科学的知識をもっておりません。しかし、私の印象を申しますと、これらの理論は、有神論を無神論的な用語で焼き直したものか、さもなくば有神論的説明と同じくらい知的説得力に欠けたものと思われるのです。″変化″とか″新奇性″(ノヴェルティ)とかの言葉で表現される概念は、人間の経験から想起されたものです。たしかに、われわれは″変化″や″新奇性″を経験しますし、作り出します。しかし、論理的には、これらの概念はわれわれを困惑させるものです。またこれらの概念には、創造という概念も含まれてくるわけですが、この創造というのがわれわれをさらに当惑させる概念です。創造とは、無から有を生じることを意味します。さらに、計画を立てたりそれを実行したりする、人間的な行為をも意味します。その場合、行為者が超絶的な神であっても、または自然界に内在する力であっても、かかわりないわけです。結局、人間の思考というのは、おそらく擬人的な語句で考えるのを避けることができないのでしょう。ただし、そうはいっても、″宇宙の中に、背後に、そして彼方にある究極の実在″が人間のような存在であるなどとは、われわれの実感としてとうてい考えられないことです。

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