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日蓮大聖人・池田大作

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6 世界統合化への課題  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 世界が一つの政府のもとに統合化される過程について、博士は繰り返し、中国あるいは中国的統治原理がその原動力となり、中核になっていくであろうといわれています。また、そこに至る段階において、抜群の指導力ある独裁者の役割が必要であるかもしれないと予想されています。さらに、そうした世界の諸国民の精神的連帯の絆として、新しい世界宗教の出現を期待してもおられます。
 こうしてそれぞれ異なる問題に対して答えられた博士のご見解をピックアップし、整理してみますと、私はそこに一貫した筋があるように拝察します。それは、儒教哲学を基底に、一人の皇帝のもとに統治されてきた壮大にして永続的な″中華帝国″のイメージが、この規範になっているということです。
 しかし、現代の世界にこの一人の支配者という考え方が受け入れられるには、あまりにも困難な要素があるように思えます。といいますのは、現代の人々は一人の支配・指導という行き方に対して反発をいだいていますし、それが仮に今日の混乱への反動として独裁を求めるのであれば、なおさら危険であるからです。
 私は、この問題に関する質問のなかで、ヨーロッパの統合化への試みが、将来の全世界の統合化への一つの見本となるのではないかと述べました。つまり、独自の個性と異なる歴史的背景をもった″地域国家″が、それぞれの独自性と自立性を保ちつつ、平等の立場で一つの連合体を形成していこうとする西ヨーロッパ方式が、未来の世界的統合化の基調となるべきだろうというのが、私の考え方です。
 世界の諸民族を一つに結ぶ宗教ないし哲学が必要であるということは、私の強い信念です。そして、その宗教的または理念的統合のために、強い指導性をもった一個の人格が、あるいは要請されるかもしれません。しかし、この場合でも、その指導者は政治的権力をもつのではなく、宗教的信仰ないしは哲学的理念のうえでの指導者であるべきであって、政治権力の問題に関しては、平等の立場に立つ諸民族の代表によって公正に協議され、解決されるべきである、と私は考えます。
 博士が指摘されたように、ヨーロッパは分裂をその″業″(カルマ)としてきたといえます。しかし、もしヨーロッパが統合に成功すれば、過去の″業″を転換することになるのではないでしょうか。そして、現代におけるその経験は、中国の場合の紀元前三世紀における経験よりも、さらに意義があり、効果的であるといえるのではないでしょうか。
 中国を規範とするやり方は、危険を短期に乗り越えるためには、より効果的でしょう。しかし、それは非常に大きい危険に落ち込むかもしれない、一種の賭けでもあります。ヨーロッパ方式は、かなり時間のかかる、粘り強い努力を要するかもしれません。しかし、大きい危険に落ち込む恐れは比較的少ないと思えるのですが、いかがでしょうか。
 また、博士があげられている歴史上の力による統合の事例は、そこにもう一つの教訓を含んでいるのではないでしょうか。日本の信長、秀吉、家康による統一は、古代において統一国家を形成していたという記憶と、精神的伝統の基盤のうえになされたものです。古代ギリシャの同盟は、同じヘラス民族であるという一体感がありました。十九世紀イタリアの場合は、古代ローマ時代への追憶がありました。このようにみてくると、力による統合化は、動機的な役割を果たしただけであって、より強い要因は、人々の心の中にあった連帯感、一体感であったといえるのではないでしょうか。
 まして、これらの例においては、力はまだ″より少ない悪″でありえましたが、今日では力の行使は″絶対悪″と考えなくてはなりません。ゆえに、今日の統合化のために第一に考えるべきことは、人類の精神的一体感の形成であり、そのうえで、具体的統合化のためにとるべき方式は、自発的なそれであると思うのです。
 トインビー 今日の世界では、武力による政治的世界統合をいかに試みても、それは自己破滅をもたらすだけで、統合の実現には至らないだろうとのご意見でしたが、私もその通りだと思います。戦闘形態の一方の極端にあるゲリラ戦と、もう一方の極端にある核戦争とが、武力による統合をもはや実現不可能にしています。
 しかしながら、私の知るかぎりでは、過去の政治統合のうち――いずれも全世界の統合には至りませんでしたが――武力の行使なくして成就されたものはありません。ただし、こうした過去の武力統一が成功したのも、それが政治統合を求める広範な人々の願望と結びついていたからであつて、そうした広範な願望なくして武力だけでは統合の達成もありえなかったろう、とのご指摘には同感です。
 おっしゃる通り、十六世紀の日本の統一、そして十九世紀のイタリア統一は、いずれも民衆の感情と武力とが結びついて実現したものです。しかし、武力がなかったら、はたして政治統合は達成されたでしょうか。
 そのとくに適切な例は、古代ギリシャです。ギリシャ諸国民は、すでに遅くも紀元前八世紀には、強い文化的一体感をもっていました。このことは、全ギリシャ的な宗教的中心地とか定期的な全ギリシャ的祭典とかの、重要な政治以外の諸制度となってあらわれています。しかし、紀元前四八〇年から三世紀間というものは、いくつかの都市国家がベルシャ帝国への併合を回避すべく一時的な協力を行い、それ以来、政治統一への努力を何回も重ねながら、これにはついに成功していません。結局、ギリシャは、非ギリシャ勢力であるローマによって武力征服され、政治統一をしかれる――ないしは与えられる――ハメになったのです。
 こうしたギリシャの歴史から考えますと、私は、今日の世界が自発的な政治統合を行う可能性について、悲観的な見方をせざるをえません。とはいえ、早急に政治統合を成し遂げなければ、人類の存続が不可能になることも間違いありません。こうみてくると、私は人類の未来性について、悲観的にならざるをえないのです。ただし、宗教面での革命を通じて、急激かつ広範な心情の変化が人々に生じるのも、ありえないことでなく、あるいはそれが事態を好転させるかもしれません。
 池田 これは私もむずかしい問題だと思いますが、この困難な課題を乗り越えて人類の存続を可能にするものは、ただ一つ、宗教的情熱と宗教理念であると考えています。
 たとえば、中国の統合を支えてきたものも儒教と道教でしたし、現在では毛沢東思想がその役割を果たしています。コーロッパが中世のある時期、今日より緊密に統合されていたのも、キリスト教の力によってでした。イスラム世界の統合も、やはリマホメットの力であり、コーランの力であったといえるでしょう。
 キリスト教もイスラム教も、儒教も道教もすでに力を失い、凋落してしまっている現在、世界人類の統合に力を与える新しい宗教は何か、ということが問題になると思います。宗教というものは、当然、権力によって押しつけられるものではありません。人々の自発的な求道心と信仰の情熱に支えられるものでなければ無意味です。現代人の開発された理性は、非科学的・非合理的な教義に対しては、強い反発を抑えることができないでしょう。一部には非合理的であるがゆえに魅力を覚えるという人もいるかもしれませんが、大多数の人々を引きつけることはできませんし、大多数の人が信じなければ、その宗教は時代の潮流とはなりえません。
 このような新しい宗教――世界宗教――の必要性と、その宗教のそなえるべき条件について、博士のご意見を伺いたいと思います。
 トインビー 過去に達成された部分的統合にあって、宗教は、武力制覇とともに一つの強力な統合力でした。帝政中国とローマ帝国では、武力統一に続いて宗教統一がなされ、帝政中国では儒教が、ローマ帝国ではキリスト教が、それぞれ国教として採用されています。イスラム史にあっては、布教と武力征服とが相ともなって進められました。ただし、中世の西欧世界では、宗教統一と政治統合が同時に行われたことも、続いて起こったこともありません。しかし、将来、地球的規模でなされるべき人類の自発的統合にあっては、何らかの共通の宗教が世界に広まることが、そこでの重要な役割を果たすことになると推測します。
 人間は、人生の目的や意義、運命といった疑問ヘの解答を、宗教に求めます。人間の頭脳は、こうした根本的疑問に検証可能な解答を出せるだけの、知識も理解力ももち合わせていません。こうした疑問へのわれわれの解答は、試験的、仮説的なものでしかありえないのです。伝統的な諸宗教は、これらに独断的な解答を与えており、その確証ありげなところが、これらの宗教に本来そなわる魅力の一つでした。しかし、現代人はこの見せかけの確証が、じつは誤りだらけであったことに気づき、その宗教的教義への幻滅を味わわされ、結局、宗教そのものへの不信を感ずるようになっています。
 私は、独善的な宗教は、もう三度と受け入れられないだろうと思います。むしろ「人生の根本問題に対するわが宗の解答は、あくまで推測にすぎない」と率直に宣言する宗教が、その率直さのゆえにかえって尊重されるだろうと信じています。しかしながら、宇宙の本質に関する疑問に答えるだけが宗教の唯一の役目ではありません。いや、その最も重要な役日でさえないのです。
 宗教は、宇宙の構図を示すとともに、人間の行動に指針を与えるものです。宗教のもつこの役割こそ、人間生活における精神的要求の一つを満たすものです。伝統的諸宗教の教義には、それぞれ大きな差異があります。しかし、人間の行動に関する教戒は、多くの重要な点でほぼ一致しています。つまり、教義そのものへの信用が失われたとはいえ、これらの教戒はいまだに効力をもっているのです。私は、人類が信仰する未来のいかなる宗教も、同じ教戒を説くことになるのではないかと想像します。
 宗教の説く最重要の教戒とは「自己超克こそ、人間の第一の課題である」ということです。われわれは、貪欲と慢心を克服しなければなりません。しかも、テクノロジーの進歩の結果、人間が自然環境と自分との関係を逆転させてしまっている現代ほど、この二つの決定的な人間の欠点が蔓延した時代は、おそらくかつてなかったでしょう。最近、人間は自然を征服したことで自らの慢心を増長させ、同時に、貪欲をほしいままにする力を増大させました。
 しかし、現代人の自慢のタネである科学技術上の業績は、人間古来の問題のいくつかは解決したものの、その代償として、新たな諸問題をもたらしています。いわゆる先進国では、物質的豊かさの代償として自然環境の汚染がもたらされ、新たな富の配分をめぐってその生産者同士が社会的抗争を惹き起こしています。産業革命の結果、今日立証されていることは、現代人は科学技術面では卓越した能力をもちながら、自らを取り巻く環境を支配できない点では、原始人と何ら変わりがないということです。現代人が環境を支配できないのは、自己を超克できずにいるからです。自己超克こそ、自己挫折を回避する唯一の方途です。この真理は、これまでも伝統的諸宗教が明らかにしてきたことですが、将来も、真実性ある宗教は、必ずこの真理を明らかにするものと信じます。
 思うに、自己超克こそ宗教の真髄です。この伝統的な宗教的教戒である自己超克を説く宗教こそ、未来において人類の帰属心をかちとる宗教であろうと思います。なぜなら、自己超克という教戒こそ、人間としてこの世に生を享けていることの挑戦に対する、唯一の効果的な応戦になるもの、と信ずるからです。

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