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日蓮大聖人・池田大作

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3 中国と世界  

「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー(池田大作全集第3巻)

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1  池田 博士はかつて「未来に発生しうる一つの可能性として、全世界が中国によって支配され、植民地化されるかもしれない」と述べておられますが、それはどのような根拠からでしょうか。また、現在でもなお、その可能性はあるとお考えでしょうか。
 私の考えでは、中国人はむしろ外に向かって征服主義を推し進める野心的民族というより、本質的には自国の平和と安泰を望む穏和主義者だと思うのです。事実、中国は戦争をしかけられないかぎり、自分のほうから手を出した事実はありません。近代に入ってからアヘン戦争、日中戦争、朝鮮戦争と、中国が関係したこれまでの戦争は、いずれの場合も、いわば自衛戦争であったとさえいえると思うのです。
 博士は、中国人の気質は、かつての世界主義から近代に入って民族主義に変わったと述べておられますが、私もそれは正しいと思います。しかし、そうした転換の事実は、侵略主義的になったことを意味するものではないと思います。むしろ中国人の民族主義は、アヘン戦争以来の、日本をも含めた外国勢力の侵略に対する、やむをえない反応であったというべきではないでしょうか。そして、民族主義というのも、対外的な反応の一面であって、基本的にはいまも世界主義、中華主義が強く流れていると思うのです。これまで中国がとってきた孤立的な外交姿勢も、一つには革命後の国内整備のためでしょうし、もう一つは中国即世界という、誇り高い伝統主義のあらわれだと考えるのですが――。
 トインビー 私も、基本的には、中国の姿勢についてのただいまの分析に賛成です。かつて中国について「眠れる巨人を起こすな」といったのはナポレオンだったという記述がありますが、イギリスはナポレオンを退けるや、時を移さずアヘン戦争を起こして、中国の目を覚ましてしまいました。
 一八二九年、つまリアヘン戦争の勃発以来、中国の関係した戦争はもっぱら自衛的なものだったというご意見は、まったくその通りです。ただし、中国人の解釈では、この自衛という意味にも、清朝の絶頂期――つまり乾隆帝統治の後半期――に帝政中国が到達した国境線を回復することが含まれてくると思うのです。中国のチベット再征服は、チベット人からみれば侵略的な植民地主義の行為だったわけですが、それをなぜ中国が行ったのか、そして、かつて中国の最も良き友邦であったインドとなぜ不可解な仲違いをしたのかは、いずれも中国人の解釈によるこの自衛の概念によって、理由が明らかになります。
 中国は、ヒマラヤ高地のわずかばかりの領土をめぐって、インドとの関係を決裂させましたが、この地域はそれ自体中国にとって価値あるものではなく、戦略的にもあまり意味をもちません。にもかかわらず、中国にとっては、この地域はある種の象徴的な意味をもつものだった、と私は推測するのです。なぜなら、インドの主張する国境線は、中国がきわめて弱体で異議を唱えられなかった時期に、イギリスが設定したものだったからです。
 中国が、一七九九年、つまり乾隆帝の没年当時の国境線を越える膨張を望んでいるという兆候は、何一つ見当たりません。事実、アムール川沿岸で最近ソ連と衝突はしたものの、中国がアムール川左岸とウスリー川右岸の向こうの広大な地域を回復すべく、真剣に考えている様子は少しもみられません。この地域は、一八五八年から一八六一年の間に、中国がやむなくロシアに割譲したものですが、そこの住民にみられる中国的色彩は、当時もいまも微々たるものにすぎません。
 しかしながら、アヘン戦争以後の中国の対外関係には、何かそれまでの中国の歴史にみられなかった新しさがあります。一八三九年のアヘン戦争まで、中国は、旧世界の半分を占める東アジアで、文字通りの″中華王国″でした。日本だけは政治的に従属しなかったとはいえ、この日本も含め、周辺諸国がすべて中国文明を採り入れており、その意味で、中国は″天下万物″を治めてさえいたわけです。
 かつて中国が、旧世界西端部の、非中国的文明をもつ諸民族と初めて接触したのは、紀元前二世紀の後半のことでした。しかし、その後中国に大きな衝撃をもたらしたものといえば、近代西欧による衝撃以前には、ただひとリインドあるのみでした。そしてこのインドからの衝撃とは、仏教の伝播という平和的な形のものでした。しかも中国は、その導入と同時に仏教を中国化してしまいました。これはあたかも、匈奴から満州民族に至るまでの北方諸蛮族が、かつて何度も中国全土を、あるいはその一部を征服しながら、結局は自らが中国化されてしまったのと同じ原理です。
 ところが、十七世紀に入り、これら蛮族に代わって北方の新たな隣人として登場してきたロシア人に対しては、中国も、彼らを中国化することはできませんでした。さらに、十六世紀に中国を侵略し、十九世紀には一時的な支配を行った西欧諸民族に対しても、中国化はできませんでした。この西欧の一時的支配はすでに過去のものとなりましたが、しかし、その影響は今日なお残存しています。かつてのインドからの影響と同じく、それは中国を非中国的宗教に改宗させようというものでした。すでに中国は仏教を中国化しましたが、今度は共産主義を中国化しようとしているようです。しかし、中国化された共産主義は、中国化された仏教と同じく、中国民族の世界観と生活様式に深い影響を与え、これを大きく変容させるものと思われます。
 一八三九年に至るまで、中国が他文明世界との間にもった関係は、一つの大きな例外、つまり平和裏の仏教への改宗という、インド文明からの衝撃を除けば、概して表面的なものにすぎず、さして重要なものでもありませんでした。ところが、過去五百年間に、西欧諸民族がその世界的勢力伸張によって技術面・経済面における人類の統合化を図ったため、この西洋の主導による、本来西欧的な枠組みのなかでなされた統合化への過程が、日本とともに中国をも、新たな地球的文明の網の中へと導き入れました。こうして、一人三九年のアヘン戦争以来、中国は世界的な仕組みのなかで軍事、経済、政治、文化、技術、宗教など、あらゆる人間活動の分野において国際的関係を深めていきました。今日では、すでに西洋による一時的な軍事的、政治的、経済的支配は振り払いましたが、もはや身を引いて孤立をかこつことはできません。西洋による衝撃のおかげで、中国にとっての世界は、かつての旧世界の東側半分から、いまや全地球へと広がっているのです。中国は三度と再び、東アジアの孤立した″中華王国″に立ち戻ることはできないのです。
 池田 国際社会における中国の立場を考えてみますと、さきに国連における北京政府の代表権回復をあのように遅らせたのも、これまで中国を孤立化に追いやってきたのも、むしろアメリカをはじめとする自由主義諸国であって、中国自身にその責任を負わすことは、的を射ていないと私は思います。
 いずれの国も多少なりともそうした傾向をもっていますが、とくに中国は、自らを受け入れてくれる席がどのようなものであるかについて、きわめて敏感です。つまり、戦後四半世紀にわたって不当な処遇を受けてきたため、はたして新たに与えられる席が中国の国際的地位を正当に評価したものであるかどうか、その″原則″をきわめて重んじたわけです。
 基本的には、中国は、西欧化の結果としての米ソニ大強国による世界支配に対して、がまんのならないものを感じているのではないでしょうか。これに対しては、もちろんフランスも、あるいはイギリスも、根強い反感をもっているでしょうが、それでもこれらの国々は、現実には従っていくという妥協的な外交上の柔軟性をもっているようです。しかし、中国の場合は、そうした妥協よりも、原則を堅持する姿勢のほうが強いようです。
 国連復帰にさいして見せた態度のなかにも、もしこの原則にふさわしい席が用意されないなら、むしろ国際社会の孤児となっても正当な評価が与えられるまで待つ、という決意があったのではないでしょうか。ともあれ、そうした中国が、いよいよ国際社会に復帰したことによって、今後、世界全体の動向は大きく影響されていくことでしょう。
 トインビー 中国は、地球人類社会にあって、今後どのような役割を果たしていくでしょうか。西欧諸民族の勢力拡張とその一時的支配によって形成された地球人類社会は、すでにその支配力を脱しており、そのまま今後とも存続するように思われます。この最近新たに形成された地球人類社会にあって、中国は、たんに三大国、五大国、あるいはそれ以上の数の強大国のうちの一国という地位にとどまるでしょうか。それとも、全世界の″中華王国″たることが、いまこそ中国に負わされた運命なのでしょうか。
 これは人類全体にとっての関心事ですが、なかんずく、中国と地続きの隣国であるソ連、さらに狭い海域を隔てながらも、やはり隣国である日本にとって、大きな関心事であるはずです。アメリカは、東アジアの大陸沿岸や沖合の島々からグアム島へ、ついでハワイヘと、撤退することができます。いざとなれば、北米西海岸まで撤退してしまえば、中国との間に、全太平洋の広さを距離としておくことができるわけです。もっとも、今日では、こうしたたんなる物理的距離というものは、さほど意味をなさなくなっています。誘導ロケット弾の発明が、太平洋の広さといえども、一つの掘割なみの幅にせばめてしまつたからです。中国を含めて地球上の全国家が、常に互いの直撃射程内にあるというのが、今日の実情です。
 そこで、私自身の予想を申し述べれば、人類全体が単一の社会を形成するところまで、世界の統合化がなされるだろうということです。原子力時代に入った今日、この統合化は、もはや軍事的征服――かつて地球上の広大な部分を統合してきた伝統的方法――によっては、なしえないでしょう。同時に、私の予見するこの平和的統合は、特定の地理的・文化的機軸を中心にして結晶していくことになるはずです。この機軸は、アメリカやコーロッパやソ連ではなく、東アジアになることを、私は予感します。
 中国、日本、朝鮮、ベトナムなどからなる東アジアは、大きな人口を擁しています。これらの諸民族は、その活力、勤勉さ、勇気、聡明さの面で、世界のどの民族にもひけをとりません。彼らは、地理的にいっても、中国文化や仏教という共通遺産をもつ点からいっても、はたまた本来外来的な近代西欧文明と妥協せざるをえないという共通の課題を抱えている面からいっても、互いに一つ絆で結ばれています。しかも、中国人にあっては、世界のどんな民族よりも首尾よく、数億の民を数千年にわたって政治的・文化的に結束させてきています。彼らはこうした政治・文化的統合の技術を示し、それに成功したという類まれな経験をもっているわけで、しかもそうした統合化こそが、今日の世界の絶対的要請なのです。中国人が、東アジアの諸民族と協力して、この不可欠かつ不可避と信じられる人類統合の過程のなかで、主導的な役割を演じるだろうという理由は、ここにあるのです。
 私の推測に誤りがなければ、世界の統合化は平和裏に達成されることでしょう。これこそ、原子力時代にあっての、唯一の可能な道です。ただし、中国民族といえども、いつの時代にも平和的だったわけではありません。戦国時代には、古代ギリシャや近代西欧と同じく、分裂抗争していました。しかし漢朝以後は、戦国時代の好戦的精神を捨て去っています。漢の初代皇帝・劉邦が中国の再統一を果たしたのは、はるか遠く紀元前二〇二年のことでした。それに先立って秦の始皇帝が行った政治統一は、武力制圧によるものだったため、彼の死後、地方的ナショナリズムの復活という反動が起こっています。漢の劉邦の場合は、中国人の民族的感情の均衡を、地方分権主義から世界主義へと恒久的に傾かせました。しかも彼は、秦の始皇帝の挑発的な専制的言動とは対照的に、世才を巧みに用いてこれを成し遂げたのでした。
 未来の世界統合者は、この中国における第二の、より大きな成功を収めた統合者のように、世界主義的な考えをもち、同時に目的達成に向かってことを進めるさい、世才にたけていることが要求されるでしょう。現在の諸民族のなかで、人類の集団自殺に代わる唯一の道となる世界統合化に対して最も準備が整っているのは、独特の思考法を二千年余にわたってつちかってきた中国民族です。私は、旧世界の半分といわず、人間が住んだり通ったりできる地球上の全地域に政治統合をもたらすべき未来の政治家の原型を、漢の劉邦にみるのです。そうした政治家とは、中国人でしょうか、日本人でしょうか、それともベトナム人になるでしょうか、あるいは朝鮮人でしょうか――。
 池田 二千年余にわたる統一を保ってきたという歴史的経験から、中国が世界の統合化への新しい機軸となる資格をもっているというご指摘は、今後の世界を考えるうえで、きわめて重要な示唆を含んでいると思います。また、漢の高祖・劉邦による中国の政治的再統一は、歴史的業績としてたしかに高く評価されるべきでしょう。
 しかし、もう一面からいえば、劉邦の成功は、その前任者の始皇帝の荒療治があったからだとはいえないでしょうか。つまり、始皇帝はたしかに長期にわたる支配体制の確立には失敗しましたが、法と慣習において地方別にばらばらだった中国を、強権をもって統一することにょり、劉邦による統一支配政権の確立を可能にした、と私は考えるのです。もし始皇帝がいなかったら、劉邦自身がそれをしなければならなかったでしょう。その場合、劉邦の役は、誰か別の人物が演じたかもしれません。
 ともかく、中国の場合も、強力な武力によって統合化が行われたわけで、その後、儒教的倫理や、天子といった理念的な象徴によって統一が維持された面もありますが、それでも中央政府の軍事的支配力が弱まったときには、国内は幾度か分裂の危機に陥っています。
 したがって、私が申し上げたいのは、これからの世界に実現されるべき統合の方向は、中国のような中央集権的な行き方ではなく、各国が平等の立場と資格において話し合うという、連合方式ではないかということです。その意味において、どこが中心になるというよりも、どこが先駆的な模範を示すかということだと思います。
 私自身の考えでは、ヨーロッパにおけるECの試みが、その手本になるのではないかと予想しております。これは、時間はかかっても、全世界の手本となるよう、ぜひ成功させてほしいと念願しています。

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